第3話 新緑の香り

 緑の香りとはなんだろう、と思うことがある。

 村の香水師になってしばらく経つが、毎回、緑の香りに悩む。


 それは冬の終わりの出来事だった。

 新緑の季節に向けて、新緑の香水を作っている最中の出来事だった。

 あまりに煮詰まりすぎて、私の頭の中では緑の香りとはなんなのかについてグルグルと回り始めた。


 いや、緑の香りが何からできているかは知っている。フィトンチッドや、青葉アルコールとか青葉アルデヒドとか呼ばれるものだ。詳しいことは省くが、だいたい木から出る成分だと思っておけばいい。森とか歩くと感じる匂いのことだ。わかりきっている。そしてそれを人工的に作る手段もわかっている。

 だがそれを差し引いても、緑の香りとはなんだろう、と思うのだ。

 それに加えて新緑の香りとなると、ますますわけがわからなくなる。


 私は目の前の香水作り用品一式を置いて、コートをひっつかんで村の外れにまで赴いた。


「そういうわけで、緑の香りの正体に迫りたいのだけど」


 私がそう話を持ちかけたのは、村の外れに住む魔女だった。

 こうして魔女のもとに出向くのは、いつものことだ。

 そうして魔女は心底面倒臭そうな顔で私を見た。いつものことだ。


「いや、正体って言われても。正体はわかってるでしょう」

「それはわかってるんだけどね。でも、ほら、あるだろう。いろいろ」

「なにが?」

「人はもっと、ファンタジックなものを求めているんだよ」

「はあ?」


 魔女は心底、それこそ心底の奥から迫真の「はあ?」を出してきた。

 この魔女からこんな声を出せるのはきっと私くらいだ。


「ファンタジックな……」

「そう。ファンタジック! つまるところは、こう――なんていうか、この香りの正体の半分くらいは、物語じゃあないかと思っている」

「つまり?」

「例えば新緑の香り――」


 一番わけがわからないもの代表だ。

 木の香りといわれればそれまでなのだが、言うに事欠いて「新」までつけているのだ。

 いや新緑の香りはわかる。

 新緑の季節の香りのことだ。

 だが人はそれをちゃんと理解しているのだろうか。

 そのくせ、緑の香りを自称した香水は山の数ほどあるし(これは香水師と、その調合の数だけあるという意味だ)、おまけに入浴薬まで緑の香りと自称したものは山ほどある。(これも香水師と、その調合の数だけあるのだ)


「これはつまり、香りそのものというより、新緑の季節に森を歩いた時の物語そのもの……」

「そうでもないと思うけど……」

「でも、新緑の香りってどの程度の人が感じたことあると思う?」

「まあ、それを思うと物語性が強いほうが、香りが想起しやすいとは思うけど」

「そうだろう!?」

「はあ」


 魔女は心底どうでもいいと言いたげな顔をした。


「というか、魔女なんだからできないのか。新緑の香り」

「いや、新緑の香りの話を持ってきたのはアンタでしょうが」

「こう、魔法とかでグワーッと」

「魔法でグワーッとは、できないこともないけど」


 そりゃあ相手は魔女なんだからそういう魔法もあるだろう。

 私は期待をこめた目で魔女を見た。やってくれ。

 だが魔女はあきれ果てた目で私を見た。


「魔法でグワーッとやんなくても……」


 魔女は立ち上がると、窓のカーテンを開いた。

 その向こうに、冬が終わった春の季節が現れた。


「もう、春はそこまで――」

「新緑だぁぁあああ!!」


 私は何もかも忘れて魔女の家を出ると、思い切り森に向かって走った。

 きっと魔女はあきれ果てた目で窓の向こうを見るのだ。実際そうなった。そこに私の姿が追加されたことだろう。


「……毎年ああなるの、本当にどうにかならないかしら?」


 そうして緑の香りに包まれる部屋の中を見て、魔女は春の訪れの名物を感じるのだ。

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