第2話 爽やかな風に吹かれて(ファンタジー・雪送り)

「秋の分はまだあるかい?」

「ごめんなさいね。もう無くなっちゃったの」


 手芸屋の少女は申し訳なさそうな声をあげた。


「そうかい。あの糸じゃないと、続きが出来なくて困ってるんだけどね」


 客の老婆が求めてきたのは特別な糸だ。

 秋と春にしか入荷しない、特別な糸である。


「でもそろそろ、糸が採れるんじゃないかって思ってるの。一週間もあれば、入荷するはずよ」

「ううん。それじゃあちょっと待つしかないかねえ」

「明日あたり、そろそろ頃合いだと思うのよ」

「そうだねえ。温かくなってきたしね。あたしたちもようやく間接が動くようになるってものよ」


 老婆はそう言って、店を後にした。

 特別な糸を買い求めてきたのは、老婆一人ではない。この一週間で、一日に二、三人には同じ事を言っている。中には三日後に再びやってきて尋ねた者もいる。去年の秋は隣の町ではあまり糸の素材が採取できなかったらしく、こっちにまで買い求めてきた人が何人かいたのだ。そのせいで、自分達の町の分もすっかり無くなってしまうことになった。

 とはいえ、春のこの時期まで在庫がなんとかもったのはありがたい。


 少女はさっそく、準備を始めることにした。

 午後になって店を休みにすると、買い物に出かけて翌朝の準備を整えた。

 ぐっすり眠って翌朝をむかえると、布作りも休みにした。機械化されているとはいえ、見ている人間がいないと引っかかったりした時に困る。店は「素材採取のため店主不在」と書かれた札をかけて、さっそく大渓谷へと出かけていった。

 いい風が吹いている。

 町はすっかり雪解けして、片隅の雪が固まっているだけになっていた。温かくなってきていて、どこからともなく水の流れる音がする。

 森を抜けていった先に、大渓谷はある。

 昔はここに来るのも大変だったが、さすがに数年も通っていると……しかしやっぱり慣れるものではない。クマに出会わないように、鈴をつけた杖をたまに振った。これだけ温かくなってきているのだから、もう獣たちも起きてきているだろう。ふうふうといいながら森を歩くと、やがて開けた場所へと出た。

 岩の突き出たその場所こそ、糸の採取場所だ。


「みんな、いるかな……?」


 風が吹いた。ここに来るといつも感じる風だった。まだ冷たい気がしたが日差しは温かく、心地良いくらいだ。

 目をこらす必要は無かった。ふわふわと、目の前を白い天使の糸が飛んでいく。

 目の前で幾重にも紡がれていく糸は、今年も健在だった。


「よしよし」


 彼女は言うと、少女は荷物の中から糸巻き杖を取り出すと、先っぽで糸をくるくると巻き取っていった。ときおり、その中に入り込んだ黒いものをそっとはじいて、空へと返す。子蜘蛛だった。

 この大渓谷は、糸蜘蛛の巣なのだ。

 秋と春になると糸の繭で生まれた子供たちが、一斉に風に乗って旅立っていく。爽やかな風に吹かれ、生まれたての子蜘蛛たちがふわふわと飛んでいく。風に乗って、この場所から世界中に散らばっていく。そして残された糸は、こうして特殊な糸の素材となってくれるのだ。


 上機嫌で糸を採取していると、後ろでガサガサと音がした。

 振り返る。


「おおっ」


 人を乗せられるほどに巨大な親がじっとこっちを見ていたので、びっくりして声を出してしまった。

 だが親蜘蛛は慣れたもので、少女をじっと見て後ずさりをしたあとに森に戻っていった。あっちが巣なのか、と少しだけ思った。


 それから彼女は採取に戻った。

 糸巻き杖の先っぽが何度も入れ替わる。動かすだけで採れる糸はずいぶんと楽だ。


「……春だなぁ」


 天使の糸。

 雪送り。

 春の糸。

 この蜘蛛の糸をそう形容したのは誰だったのだろう。


 爽やかな風を受けながら子蜘蛛たちの残した糸を採取していると、いつも春を感じる。なんだかんだいって、彼女は根っからの手芸屋であることを感じるのだ。いや、手芸屋だからこそ感じることのできる春なのかもしれない。

 これから糸は水で洗い、一本ずつより集めて糸としてきっちりと形になる。後は春らしい色に染めよう。花の色がいいか、明るい日差しの色がいいか。

 それともこの風のように爽やかな色がいいか。

 彼女は風に吹かれた髪を耳にひっかけながら、贅沢な悩みに沈んだ。


 数日後、すっかり準備の整った糸を店先に取りそろえ、彼女は店の前に一枚のポスターを貼りだした。


 『春の糸、入荷しました』

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