第10話 雨の標本(現代ファンタジー)

 それは、しとしとと雨の降る日のことだった。

 男はまぶたに当たった雨に少しだけ顔をしかめた。


 ――しまったな。傘を忘れていた。


 朝の天気予報では降水確率は五十パーセント。どうせそれなら降らないだろうと思って傘を持たずに出てきたのだ。外回りの営業を仕事にしている男は、その日も一日、外を歩き回る予定だった。降っているのは細い雨。どこかで一服しようにももったいない。とはいえ、この雨を浴び続けてはスーツが乾くまでに濡れてしまうかもしれない。お客様の前に出るには少々心許ない。


 ――せめて近道でもするか。


 男はそう思って公園の中に入り込んだ。少し大きめの公園で、普段はランニングをしている人がいたり、中央の芝生では親子連れがピクニックをしているような公園だ。ここをまっすぐに突っ切れば近道になる。

 公園はこの雨もあり、人はいなかった。


 急いで公園を突っ切ろうとした時、天に向かって何かを持ってじっとしている少年の姿に気がついた。

 こんな時間に公園に子供がいるなんて。

 それにしても、いったい何をしているのだろう。男はあまりに少年が動かないので、不審に思った。あまりに変な事に足を突っ込んでも碌なことは無いと思ったが、それでも大人として気にしないわけにはいかなかった。


「何をしているんだい?」


 男はそっと声をかけた。

 少年はその綺麗な青色の瞳で見上げると、にこりと笑った。


「ああ、これは標本を作っているんです」


 少年はそう言って、手に持ったものを男に見せた。


「標本だって?」


 男にとって標本といえば、すぐに思い浮かぶのが虫の標本だ。学校の理科室によくあるようなものを思い浮かべる。四角いケースの中に入れられたものであり、硝子の向こうにピンで留められた虫たちが入っているようなもの。

 しかし少年が見せてきたのはそれとは違い、ごく普通の試験管のようなものだ。

 試験管の中には何かの液体が入っているようだが、水ではなさそうだ。


「虫の採集をしているのかい?」

「いいえ。虫の標本を作っているわけじゃないんです」

「じゃあ、こんなものでいったい何を標本にしようというんだい」

「雨の標本を作ってるんですよ」


 ますますわからなかった。

 雨の標本だって?

 男は少年をまじまじと見た。格好は短い吊りズボンに真っ白なシャツを着込んだ、ごく普通の、ともすれば少し良いところの少年だ。自分の想像で遊ぶには大人びている。


「ますますわからないな」

「見てみなければわかりませんよね。ほら、見ていてください」

「はあ……」


 少年は手にした試験管を空に向けた。

 こんなことをして何になるというのだ――とはいえ少年の想像に付き合うのも悪くはない。このまま警察に引きとってもらえばいい。そんなことを思っていたそのときだった。

 うまく試験管に入り込んだ雨粒が、試験管の液体の中で固まった。

 少なくとも男にはそう見えた。

 驚きで、まじまじと試験管を見た。


「何が起きたんだ? これはなんの手品なんだ?」

「手品じゃありませんよ。雨の標本です」


 細くきらきらと光る結晶は、窓をひっかいた雨のようだ。

 透き通った水晶の欠片のようでもある。


「今日の雨は細いですから、こうなるんです。雨粒が大きければ、もっと太くて、ペンダントにも良さそうなものができますが、ああいうのはなかなか綺麗な形にするのが難しいんです」


 少年は後ろのベンチに置いてあった茶色い大きな鞄を開けた。

 鞄の中には、いろいろな形の瓶や試験管が入れられていた。奇妙な形の装置や、何かの液体が入った茶色い瓶も入っている。鞄の内側にも、いろいろな試験管がくくりつけられていた。その中には青や水色、あるいは透明な結晶が様々な形で浮いていた。


「雪の標本はもっと面白いものができますが、僕は雨の標本の方が好きなんですよ」

「それを……作って、どうするんだい」

「もちろん、お売りするんです」


 少年は当然のように言った。

 それから並んだ試験管のうちから一つを取り出すと、男に向き直って差し出した。


「一つあげますよ。こいつは少々小さくて、売り物にならないと思っていたんですが、なかなか綺麗でして」

「はあ……」


 男は差し出された試験管を手にした。

 試験管の中にはやや青色がかった滴型の結晶が何かの液体の中で浮いている。売り物にならないというだけあって、確かにその形は歪だ。しかしその表面はつややかで、透明度も高い。

 男は目を丸くしたまま試験管の中身を見ていた。

 自分が雨に濡れているのもすっかり忘れて、男はしばしその色合いに心奪われた。


 そうしているうちに、少年がベンチに置いた荷物をまとめていた。

 雨の勢いも次第に小さくなっていく。


「雨があがってきましたね。それじゃあ、僕はお先に失礼します」

「あっ……」


 少年はにこにこと笑いながら、一礼をした。

 男は手の中に残された試験管と、その後ろ姿を見比べた。


 あれからしばらくあの公園を通ってみたが、少年の姿は見つからなかった。あの透き通るような青色は、雨を思わせる。

 キツネか狸にでも化かされたのだろうか。それこそ馬鹿馬鹿しい話だ。

 だが、持ち帰ったあの試験管はまだ家にある。


 雨の標本は宝石のように輝き、雨の日になると妙につややかになった。

 それはいまにも降り出しそうな空に、よく似合った。

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【短編集】コップ一杯の雨【全10話】 冬野ゆな @unknown_winter

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