【短編集】コップ一杯の雨【全10話】

冬野ゆな

第1話 コップ一杯の雨(現代ドラマ)

 ぴちょん。

 音がした。目を覚ます。コップの底に水が溜まった音だ。

 古びた布団から上半身を起こそうとして、おっくうになってやめた。部屋の中は暗く、夜なのかどうかすぐには判別できなかった。外からはざあざあと僅かに雨の音がする。湿気のせいか、古びた畳からはかびた臭いがむっと漂ってくる。だが、それでも起きる気にはなれなかった。もうこんなのは慣れっこだ。

 ぴちょん。

 パートの仕事をくびになるのが何度目なのか、もう数えるのも辞めてしまった。白髪ばかりか、縮れた髪をかろうじて結んでいるような化粧すら満足に出来ないオバサンなどどこも雇いたくないのだろう。結婚していればまだ道はあったのだろうが、残念ながら世間的にアラフィフと呼ばれる年代になるまで相手すらできなかった。売れ残りなどという言葉ではもはや言い表せない。だが熨斗をつけるだけの貯蓄も無い。無い無い尽くしだ。

 ぴちょん。

 私の人生は最初からこんな物だ。いったいいつから足を踏み外してしまったのだろうか。思い返せば大学を卒業し、新卒というある程度無能でも許される期間を逃してからか。大学でなんとなく過ごした私はなんとなく就活をして結局失敗した。いや、それとも高校で友達もいないまま一人で過ごしていたからか。偏差値は悪い方では無かったが良くもなく、イジメも無い代わりに誰も私を気にしなかった。同窓会の手紙すら最初の一度目以降は届かない。あったのかさえわからない。中学ではなんとか友人と呼べる人たちはいたものの、卒業で「また連絡しようね」と言ってそれきりだ。彼女らはいまどうしているのだろう。二十代に結婚できていたのなら、きっと子供たちの成人を祝福したばかりだろう。小学校から一緒だった子もいるのに、薄情なものだ。そういえば幼稚園で給食を食べられず、午後の時間まで残されていたこともあったっけ。

 ぴちょん。

 溢れそうな音がする。そろそろ起きないといけない。時計を見たくない。きっとパートの仕事をしていた時よりもずっと遅い時間に決まっている。だけど私の体は起きたくないと言っている。これがまだアパートならば救いはあったが、両親がかろうじて残した一軒家なのだから笑えない。父はこの家を祖父から受け継いだ立派な家だと思い込んでいた。最期までそうだった。だから絶対に誰にも売らなかったし、出ていくつもりもなかった。私にも結婚していないのだからここに住めばいいと言った。実際は木造とコンクリートのボロ家に過ぎず、そもそも祖父だって田舎から出稼ぎに出てきただけの一般人だ。小さな商店をやって社長と呼ばれた事もあったが、店も一代で閉めた。父もただのサラリーマンなのだから、受け継ぐというほど大層なものじゃない。だが家を建てた田舎人の見栄はカビのようにこびりつき、父をそういう風に教育してしまった。きっと父の代ではまだこんなにカビ臭くなかったし、壁だって剥がれたりはしていなかったのだろう。いくらなんでも何十年もそのままでいられるものか。

 ぴちょん。

 音がする。どうせなら今ここで、火でもついてくれないものか。地震でも起きてすべて壊れてくれないものか。首をくくるだけの気力も飛び降りるだけの度胸もないのだから、どうせなら全部、全部、壊れてくれないだろうか。それだったら私は何もしないまま楽になれる。いや待てよ。その前にせめて過去の異物くらいは整理させてほしい。いまだ額縁に飾ってある小学校の頃の絵や、気の迷いで買ってしまった資格の勉強用の本も。結局は何も出来ないままここまで来てしまった。私は一体何をやっているのだろう。やり直すこともできないまま、こうして布団の中で沈んでいることしかできない。

 ぴちょん。

 ぴちょん。

 ぴちょん。

 視線の先で、天井から水滴が落ちたのを見た。

 この家はどうしても私を寝させてくれないようだ。私はのそのそと起き上がった。暗い部屋の中では、手の甲の細かな皺さえ見えない。穴の開いた、子供っぽい色のカーテンを少しだけ開ける。少しだけ明るくなったが、空はどこまでも灰色だった。雨の中を、車が勢いよく走り抜けていく。あの人たちは行くところがあるのだろう。羨ましい。いつまでも窓の近くにいることもできない。こんな花柄のパジャマを着たおばさんが突っ立っていたら、ひどく笑われることだろう。このパジャマもずいぶんとくたびれてしまった。買い換えなければ。でも、どんな色のパジャマを買っても自分には似合わなかった。どうしようもない。似合わないと思っているうちにこんな年になっていた。

 ぴちょん。

 ああ、もう、わかったから。

 ぴちょん。

 振り向くと、くすんだコップに溜まった茶色い色が見えた。雨漏りだ。父はこんな小さな雨漏りさえ、どうしようともしないままこの家を残して逝ってしまった。拾おうと手を伸ばすと、ぎちりと腰が痛んだ。

 ぴちょん。

 天井を見る。シミが広がり、天井裏の汚れが染みて黒くなっている。これを飲めば何もかも終わるだろうか。そっとコップの端を口元に近づけてみるが、急にばかばかしくなって口を離した。私はどこまでも常識人の枠から逃れられないのだ。いっそ私に常識外に振る舞うだけの気力があったなら。私は急いで、替わりのコップを取りに行く。もうバケツでも置いておいた方が早いかもしれなかった。

 ぱたり。

 天井からの雨漏りが畳に落ち、じわりと染みこんでいった。

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