運命の子/あるいは大罪人の弟子

幼条葉々

プロローグ

プロローグ①

 二番街から三番街へ。

 大粒の雨に打たれるチェスター通りを駆け抜けて、飛び込むようにして路地裏に入った。完全な闇。それでも記憶を頼りに彼は走る。できる限り入り組んだ道を、しかし決して袋小路に至らぬように。次は右。その次は左。小通りに出たら例の抜け道を使って北へ。闇また闇。追手の気配はいまだ濃く、けれども角を曲がるごとに、小道に入り込むたびに、正答の報酬として猶予時間が延びていく。唐突に笑いが込み上げてくる。及第点すれすれのルートで延命を続ける、なんてノエル・フォーチュンらしい逃走劇なのか。

 凡人。俗人。劣等生。及第点の申し子。運命も呆れる落ちこぼれ。

 入学以来浴びてきた誹りの数々を、彼は今、心の底から受容することができた。全くその通りだった。笑えるくらいの木偶の坊。それこそがノエル・フォーチュンに他ならない。臆病で、欲張りで、器量が悪く、中途半端な幸運に振り回される、愚図の中の愚図。田舎に帰って慎ましく生きるのがお似合いの三流貴族。

 ああそれでも思わずにはいられない。

 ――だからって、どうしてこんな目に……!!

 捨て置いてあった何かに足を取られて、ノエルは盛大に転んだ。激しい雨足は路地裏にも届いており、貫頭衣と一枚布トガに、嫌な生活臭が塗り込まれる。王立第一魔術学校に通う学徒の証。言い換えれば唯一の拠り所。けれど泣き言を言っている暇はなかった。無言のまま立ち上がり、無言のまま駆け出す。

 思えば。

 思えば、運命というやつに助けられたことは一度もなかった。

 いつだって運命というやつは中途半端な幸運を振り撒いては、自分の不器量を嘲笑うのだ。没落貴族。落ちこぼれ魔術師見習い。才気のある人間であれば、それで十分なのだろう。うまく立ち回り、平均以上の幸福を手にすることができるのだろう。自分が恵まれない人間であるとは思わない。そんな風に思うほど落ちぶれたつもりもない。

 けれど、足りない。

 今日だってそうだ。一枚布の下、酒場で買わされてしまった、もとい買ってしまった首飾り。警告色代わりの制服が裏目に出たのか、それとも金銭絡みの憂いが顔に出ていたのか、いかにも訳ありといった風貌の男に目を付けられてしまって。絶対に良い値が付くから嘘じゃないからただおじさんはちょっと今へへへへへ。酒以外による酩酊も感じさせた男がどうなったのかは知る由もないが、現状を鑑みれば本当に価値ある一品なことに疑いようはなく、この儲け話を振られたのが自分でなければ――例えばラッセルやアデールであれば――支払った以上の硬貨や、あるいはそれ以上の成果に換えられたに違いない。

 それが自分の場合はどうだ。

 いつの間にか笑みは引っ込んで、ノエルの頬には雨と泥と涙とか混じり合ったものが伝っている。右右右左。路地裏を抜けるも雨は依然として強く、四番街とを分かつイレモ川は夜目にも荒々しく猛っている。水中に逃げようという算段を捨て、橋を越えて四番街へと渡る。どうにかして宿舎のある二番街に戻りたいが、ノエルと学院の位置関係は、あたかも時計の文字盤と針のように遠のくばかり。

 ――ぐるりと一周してみるか?

 そんな足も体力もないことは百も承知の上、引き返すよりは現実的な選択肢ではないかと逡巡する。追手は複数。少なく見積もって五、六人はいる。すべてを掻い潜って網を突破するなど素人である自分が狙っていい芸当ではないと思う。

 ――本当にそうか?

 差し込まれた疑念に、ノエルは危うく足を止めるところだった。臆病な自分の考えとは思えない、自信に溢れた疑念であり可能性だった。

 つまり、こう思ってしまったのだ。

 国中に名を轟かせる学院の魔術師見習いは素人と言えるのか?

 そもそものところ、追手は逃げなければならないほどの存在なのか?

 もっとも、それは些細な泡沫的思考に過ぎなかった。なぜなら、結局ノエルは足を止めることはせず、先ほどまでと同様、できる限り大きな道を避けて逃げ回ることを選んだからだ。勝手知ったる二番街三番街と違って、四番街ともなるとうろ覚え。記憶を探りながらひたすらに走る、それ以上のことを行う余裕は一厘とてなく、いつしかそんな考えを抱いていたことすら忘れていた。

 そして、そんな風にして全霊を尽くしても、完遂には届かなかった。

 闇に頭をぶつけた。

 物理的な衝撃に、ノエルは頭を抱えてひっくり返った。全速力で激突したのだ。本来であれば悶絶してしばらくは動けないのが道理。しかし、物理的なもの以上の衝撃を精神に感じていたノエルは、それどころではなかった。

 だってそうだ。

 闇に頭をぶつける、などということがあっていいわけがないのだから。

 考えるまでもなく、可能性は二つに一つだ。記憶違いか、道を間違えたか。どちらにせよ、それはノエルの完膚なきまでの失敗を意味した。

 立ち上がろうとして二度転んだ。それでも三度目は成功した。

 頭を真っ白にしながら、ノエルは手あたり次第に角を曲がって進んだ。ズレてしまった現在地と当てにならない脳内地図。狭窄していく視野の中で、四番街の裏道は迷宮の様相を呈していた。希望は天運のみ。一度たりとも好いたことのない、フォーチュンの姓に縋りながら、ノエルは顔をぐしゃぐしゃにして進む。次第に呼吸は荒くなり、足はふらつき、そして、自明の理として壁が現れた。

 行き止まり。袋小路。

 乾いた笑いすらでなかった。ノエルはその場にへたり込んだ。やがて雨音に混じって、いくつかの足音が聞こえてきたが、彼の耳には入らなかった。闇よりも暗い視界の中で、ただひたすらに現実を拒絶することしかできなかった。

 ――ああ、酒場になど遊びにでなければ。

 ――あるいは、男から首飾りを買わなければ。

 ――そもそも、自分などが魔術師を目指したのが間違いだったのだ。

 後悔は半生を遡り、連綿と続いて、やがて一人の少女の像を結んだ。

 ――ごめん、コーディリア。

 目を閉じる。どこかで誰かの声がする。諦めるなと、まだ終わりではないと。世界は広く、可能性は無限大であり、ノエル・フォーチュンはきっと良い魔術師になれると。決まっていた。そんな優しい声を掛けてくれるのは、彼女だけだったから。

 ――ごめんね。

 そして、彼は意識を手放した。

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