カノンの檻の破れ

カノンの檻の破れ


 例えば、我々の肉体の形態をこのように規定し、これを形作る言語は、どのようにして綴られているのだろうか?

 上と下とを取り決め、頂上には脳を配させ、その脳を左右に区画し、区画するばかりかその役割も画定し、心臓は左に、肝臓は右に、皮膚は外界との境を自ずから見出してそこに留まるよう個を形作らせ、形作られた個は己を認知し、その表象的イメージを自我と呼ばわしめる。かような形態を表現する主体、記述の内容とは、本源的に何であり得るのか。

 科学の教えるところに依れば、人体の構造はDNAによって記述されているという。DNAは4つの塩基により成り、一組の塩基対を2ビットの情報に換算すれば、約30億組の塩基対から成るヒトゲノムの総情報量は750MBということになる。たった750MBの、純粋な情報の羅列、4つの塩基の重なりによって表現される何らのコンテクストも持たないかに見えるこの有機による無機的なテキストに、上下や前後ばかりではなく、左右や境界を定義するに足るハイコンテクストなニュアンスが含まれているというのは、信じがたい事実である。

 一方で、これら4つの塩基が、これらもまた複雑な化学式で表現され、一つ一つの原子は、素粒子の分配によって定義され、ある素粒子の振る舞いはまたべつのある素粒子との関係によって、"くりこまれ"、表現される。人間的存在論は、医学や化学や物理や数学の学問的存在論がそうであるように、互い同士を規定する基礎概念の響き合いによって、一見再帰的に規定されている。しかし、量子論のくりこみ理論的な手法を個の再帰の波の震源と捉えることは当然本質的ではない。あらゆる学問的解釈によってそれをしようとすることもまた、本質的ではない。同断に、存在に就いての言及が為される場合に、存在者と彼のする存在への問いの再帰的な自己言及性を論うことは建設的ではない。

 再帰的論法の不毛性を論うてそれの確かさを指弾しようとも、存在者が確固として自立的に存在していることの自明性を損なうことはできないし、なによりもその自明性のために、再帰的方法論は一つの解釈にすぎず、それは逆説であり、況しては公理ではなく、いはば定理のもつれとでも呼ぶのがこの場合穏当である。存在論的循環論法にしても、学際的共鳴関係にしても、組み込み理論にしても、あるものがあるものによって規定されているというのは、確かにひとつの事実であり、世界を成す各元の描く諸相ではあるけれど、その様相自体に意味を付するというのは、それ自体かような論理の響き合いに無為に参与することを志すだけで、つまりは、それ以上は何も生み出さない。

 量子論の持つ再帰的宇宙観を、人間の認識に於ける存在論的再帰性に引き比べることは些か強引な観を否めないが、量子論的問題も、結局は学問的問題であり、存在論的自己言及性は人間の認知の仕方に於いては学問的諸相にもまた適用できるのだから、人間的存在論を学問的問題に引き比べてこれらを論及することは効果あることである。このようにして考えたとき、我々が当面するもう一つの現実は、かような相互参照的万物の縁の世界にあっても、それを飛び越えてしまうという感じ、つまり、止揚というのでもなく、なんら意識的な、現存在的な介入を待たず、再帰が作る檻が自ずから破れてしまうというあの尋常ではない、不意を突かれたような感じである。

 最初に述べた、DNAと人体の関連がそのひとつであろう。ある種ゲーデル数的なトランセンデンスが、塩基の重なり合いによって、現に今我々の肉体として有り得ているのである。音の高低の秩序立ったまとまりが一旋律を奏するときのように。

 この表現の支配性はちょっと暴君的でさえある。例えば我々の用いる言葉が、言葉の無い意識裡から自ずと浮かび上がってきて口を衝くあの感じは、再帰の破れから精神に吹き込む隙間風のように感ぜられる。ここに我々は、ある種の他者感、己が裡の己ならざる何者かを予感するのであるが(或いは外界に在る己らしき何者かを予感するのであるが)、我々はそのとき、枠を飛び越えている(投げ出されていると言った方が妥当だろうか?)。

 枠を飛び越えることに、あらゆる事物の意義がかかっていると言っても言い過ぎではない。単調な再帰的アルゴリズムが、具体的な事物を抽象的な観念にエレベートし、また別の具体として引き下ろすという人工知能の例を、我々は知っている。

 芸術とは、つまりこれはこの"飛び越え"の純化された形式であり、カノンの檻の外で他者と際会し他を己としようとするひとつの外界侵犯の戦略であるが、そのようにして拡張された自己を自己として認識することは難しい。自己同一の不確実性はあらゆる不安症の病因でもあるが、我々は自己を自己たらしめるために、つまりは生きているという感じのために、自傷したり、さらには自殺したりもする。芸術することが生きることそのものと同一視される傾向も、ここに所以している。

 外界の不可能性を構造主義的無意識と同一視することは、権威に手懐けられた見方で、構造もまた再帰的連関によって互いに響き合っているのに過ぎないし、これはまた完全と不完全が微妙なバランスで補完し合っているシステムの各時点における習慣に過ぎない。

 我々が自己と呼ぶものは(つまりは安心して我は我なりと呼び領することのできる認知の範囲は)、通いなれた土地、手懐けた不可能に過ぎず、分明に自己であると称することのできる領分はどこにもない。いつ飼い犬に手を噛まれるとも知れないのが実際のところで、そのような意味で、我々の存在は、本来我々の肉体や精神の規定する者からは常に飛び越えており、その飛び越えの仕方を、例えば個性と呼んでいるに過ぎない。我々が自己と呼ぶものは、常に不帰順地帯の荒野を彷徨う形の定まらない亡霊である。

 750MBの譜面の鳴らすノイズが、偶さか天球の音楽の節々に相当する響きを得た束の間の超越(共鳴)が、我々が我々と呼ぶものの実相である。

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不可能、形態、能力 坂本忠恆 @TadatsuneSakamoto

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