第10話 渾身の成敗

 「働けよ! バカ親父!」


 「うるせえ!」


 父と兄の怒号が飛び交う家で、小学3年生の私は拓海を抱えて遠くの部屋へ非難し

た。早くお母さんが仕事から帰ってきてほしいと願いながら。


 父は、私と拓海には優しいが、兄にはとにかく厳しく、暴力を振るう日もあった。

兄もやり返すから、泡を吹いて気絶した日もあった。


 父に勝てないストレスからか、とばっちりは私の方へ来る。私の分のお菓子を勝手

に食べたり、終わらせた算数のプリントに油性マーカーで落書きをしたり、とにか

く、事あるごとに嫌がらせをしてきた。


 学校でも、私の頬を張って、泣き顔を持ち上げて廊下を徘徊したり、私の同級生に

も乱暴をしていた。


 あんなバカ親父よりも俺の方が強いんだ、と学校でも関係なしに言って回り、教師

や違う学年の保護者までもが兄を問題児と呼んだ。


 そんなある日。私は兄から、河原に呼び出された。兄の分の漢字練習帳の宿題を、

忘れていたから。


 たったそれだけで、私は頬を張られた。父と肩を並べるほどの背丈から放たれる手

の平は、言わずもがな、痛い。


 お前は何もできないくせに。


 イジメられてるのを守ってるのは俺なんだぞ。


 呪いの言葉だった。俺はあげてるのに、お前は返さない。満足に借りを返せない。

それを突きつけられると、私は身動きが取れなくなる。


 何も持っていないから、私には誰も味方がいない。


 兄の罵声を受ながら、誰かに助けを求めていた。


 そして、願いが届いた。


 希望の薄い願いだった。


 私よりも身体は大きいけれど、兄と比べれば、小さく薄い身体。喧嘩に勝つどころ

か、傷一つ付けることが叶わないような、頼りない痩身。


 「やい! そこのデカいの!!」


 高らかに声を上げた。


 同じ学校の人間なら、体格を見ただけでも怯むのに、凄まじい剣幕で睨まれても視

線をそらさない。ただ、目の前の敵を睨み返している。


 あの人は、確か。


 「なんだお前? ああ、足利駆か。5年のガキが、なんか用か?」


 兄は6年生で、5年生の教室と近いので、何度か顔や名前を見聞きしたことがあ

る。


 私も知っていた。足利駆。弟が子役でテレビドラマに出演し、彼の兄は中学受験で

有名私立大学の付属中学に首席で合格した。父は県会議員で吹上市の経済に貢献し、

母は数多くの料理本を出版する兼業主婦。


 しかし、彼そのものは、特に何もない。


 生まれながらに呪われたようなエリート一家の次男。


 持たざる者の彼に、なんの期待もできない。


 どうするんだろう。度胸だけは一人前の彼が、ゆっくり歩み寄るなか、私は、この

人の命だけは助かってほしいとだけ願っていた。


 「ずっと前から成敗してやろうと思ってた」


 成敗、なんて言葉を、アニメや漫画以外で知覚するのは初めてで、なんか気持ち悪

かったが、彼は何の恥ずかしげもなく、胸を張って、大きな標的を見据えた。


 「成敗、か。ほら、やってみろよ。少しは手加減してやるよ。クソガキ」


 兄も完全にナメきっていた。河原の風を感じるように両手を広げて天を仰ぐ。


 「ほら、一発だけ待ってやるよ。6年生のハンデだ」


 体格によるハンデも与えてやってもいいのに。私は完膚なきまでに打ちのめされる

であろう足利駆を憐れんだ。


 「いいの? じゃあ、お言葉に甘える。すっげえのお見舞いしてやるから、そこで

突っ立ってろよ!」


 足利駆は、親にいたずらを仕掛ける幼児さながら、満面の笑みを作り、その場にし

ゃがみ込んだ。


 「ははは! 楽しみだな」


 優雅に笑い、空に視線を移したままの兄。


 「え」


 私は、思わず声が漏れた。


 兄から距離を取る。動物の、防衛本能というものをこの身で初めて体感した。兄か

ら乱暴されるのとは、全くもって違う、より根底的な危機回避の意識。死を感じた。


 見たところ、直径20センチはあるだろう『それ』を、足利駆はラグビー選手のよ

うに抱え、兄のもとへと走り出す。


 「これが俺の、渾身の成敗だ!!」


 彼は、兄と手が触れそうな距離まで詰め寄り、助走の勢いはそのまま、河原にあっ

た大きな岩を、ゴリラのような顔面に投げつけた。


 瞬間、兄は天を仰ぎ見た視線を足利駆に戻したので、あごに当たるはずの岩は、口

元に直撃した。


 「ぐっ!?」


 初めて見る光景だった。


 兄が、自身と同じ同じ小学生、それも年下の、普通の体格の男子に、地面に伸され

るシーン。


 「どうだ! 参ったか!」


 異常だった。


 乳歯が数本折れ、血の混じった泡を口から噴き出す巨躯を上から見下して、罪悪感

で言葉を失うどころか、むしろ勝ち誇るように笑う足利駆。


 異常だった。


 それを見て、嬉しさの余り泣いてしまう私。このまま兄に死んでほしいと願ってし

まう私。


 この一件があって以来、兄は私に乱暴しなくなった。


 そして。


 「駆、今日も遊ぼうや! んでリベンジさせろや!」


 足利駆が、私たち兄妹の生活の一部になった。


 「嫌だっつってんだろ! 同級生と遊べや!」


 「お前しか友達がいないんだ」


 「俺もお前の友達じゃねえ!」


 兄は本当に楽しそうだった。私も兄には軽口を聞けるようになった。


 全て、足利駆のおかげ。


 彼のことを好きになってしまった。それに気づいたのは、駆くんが卒業する日。


 いつもみたいに遊べなくなる。彼が、兄と同じように、中学生という、なんだか小

学生と一線を画したような存在になってしまう。


 胸中でじんわりと滲み出た喪失感が、床にこぼれた液体のように大きく広がってい

く。


 それでも私は、バレンタインの日にはいつも義理チョコだと誤魔化して、幼馴染と

して茶化すだけで、それ以外は何もできなくて、気付けば彼に、彼女が出来た。


 彼女も優しい人だった。でも、その人は私に対して、どこか勝ち誇っているように

振舞っていて、それが鬱陶しかった。


数か月が経つと、駆くんは彼女と別れたことを、兄に知らされた。


そのことを知った直後の帰り道は、信じられないくらい足取りが軽かった。上り坂の

多い帰路が、下り坂のように楽な道のりだった。


 でも、知っている。


 地獄のような日々から救い出した駆くんは、私のことなんて何も見えていないこと

を。


 駆くんが兄にもしばらく会わなくなってから、兄はよく喧嘩をするようになった。

正確に言えば、自分の恵まれた体格を生かし、暴力で弱者を守る。悪い人間を『成

敗』する。足利駆へのリスペクトから生まれた正義感。


 「海莉ちゃん、ごめんね」


 ずっと仲良しだった友達が、兄の評判のせいで、私の前から去っていく。


 拓海が目を赤く腫らして帰ってくる日もあった。


 全部、兄のせい。


 「喧嘩しないでって言ってるじゃん!」


 私に暴力を振らなくなった兄に、何度も強く言おうとしたが、兄は見向きもしてく

れなかった。


 だから私は…。


 SNSで知り合った男。


 バーで働いている大人の男の人が、解決してくれる。


 兄に挫折を教えてあげると言ってくれた。


 今日、それを決行する。


 私と拓海の苦しみにも気づくことができない兄に、二度と喧嘩が出来なくなるくら

いの恐怖を与える。

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