第2章  信じる

第6話 巨体

 5月4日 みどりの日


 貴重な連休が、今も無駄に消耗されていく。


 「わ、私にできること、ないですか?」


 「小毬ちゃんは大丈夫だよ。駆を信じて待ってみてよ」


 「信用できないです」


 「あっははは! 言われてるよ! かける~!」


 俺に対してだけ堂々と嫌悪を表すチビ女と、相変わらず放任主義のクズ雇用主。ワ

イヤレスのマウスを地面に叩きつけてしまったせいで、反応しなくなった。


 「壊れた、弁償してくる」


 ボランティア活動を探してるのに、こいつらの声が入ってくると他人に尽くす余裕

もなくなる。善行を積むどころじゃない。


 「自腹だからな~」


「ふざけんな、経費で落とせ。つーか針本、お前に頼むことなんてねえから早く消え

ろよ」


 「ひっ!? そんな言い方…」


 ドアを閉めて冴えない女の声を断ち切った。






 「あちゃ~、怒らせちゃった」


 日常茶飯事の喧嘩をしてしまったような気軽さで神原さんが笑い飛ばした。


 「すみません」


 「いいのいいの! 小毬ちゃんはなーんも悪くないよ。ああいうところは、まだま

だ未熟だな。駆には俺と『対等』になれる素質があるのに、もったいない」


 スマホゲームに興じながら、残念そうに眉を吊り上げておどける。お気楽な人だ

な。


 足利駆があんなに怒ってても、動じていない。こっちは心臓がドクドクと忙しいの

に。


 「あ、小毬ちゃんにあげる仕事ができたよ!」


 「本当ですか?」


 前のめりになって聞いてしまったことを後悔した。


 「俺、今からトイレ行くから。大きい方ね。だからその間にお客さんが来たら接客


しといて」


 「え」


 耳の中に音の振動が届き、脳が処理した瞬間に、鳥肌が立った。


 「あ、は、はい。分かりました」


 拒否なんて出来なかった。がっかりされる顔を見られたくなくて。この人も、足利

駆みたいな顔で私を見たらどうしよう。


 「ソファーに座らせて、『神原はあと5分くらいで戻ってきます』って言えば大丈


夫だから」


 「あ、ええと、は、はい!」


 視線をさまよわせてボールペンと紙を探す。というか勝手に使っていいのだろう

か、メモをしたいので貸してくださいと頼まなきゃ。あ、でも、神原さんは今からト

イレに行くし、生理現象を私の都合で止めて良いんだろうか。いや、でも、ソファー

に座らせることを忘れて、神原さんの伝言も忘れてしまったら。


 「じゃ、サクッと出しちゃうよ。昨日の肉じゃがを」


 「あっ」


 私から漏れるSOSを微塵も感じ取ってくれることなく、神原さんは目的地へと入り

込んだ。


 ああ、どうしよう。


 お客さんが来たら、まずは神原は5分くらいで戻ってくる、って言わないと。お客

様に向けて使う言葉だから『神原』って呼び捨てにしていいんだろうけど、なんか怖

い。申し訳ない気がする。でもそうしないと、お客様よりも神原さんの方が立場が上

だってなって、無礼に当たるし。それに、万が一、お客様に私の身体が触れてしまっ

たら…。


 悪い考えが、悪い考えを呼ぶ、その繰り返し。


 磁石のようにくっつけた両手を額に押し当てる。このまま数秒待った。早く、神原

さん、戻ってきて下さい!


 …。


 大丈夫。


車の音も聞こえない、ここは静かな町。


お客様なんて、そう簡単に来てくれない。


今だって、こうして待っている間にも、足利駆だって帰って来てくれるし。


健次郎さんとLINEでお話でもしようかな。健次郎さん、お仕事かな。でも、ちょ

っとお話したいな。


優しかった健次郎さん。昨日は、青島へ行ったこと、すごく心配してくれた。同行し

たのが年ごろの男の子だから心配したのかな。だから言えなかった、昨日の暴力の一

件を。


足利駆も黙っててくれた。もちろん、自分にとって都合が悪いからだろうけど。一応

あの人も、仕事としてやってくれてる。頬を張ったことだけは謝ってあげようかな。


チラリとガラス張りのドアを一瞥した、その時だった。


大きなシルエットが、正確に言えば、大きな生き物が、ぬっ、とたたずんでいる。


そしてその巨躯にピッタリな、大音量の重低音が鳴り響いた。


「おーい!!」


 自分よりも圧倒的に大きな生き物を見たのは、小5の時、健次郎さんに連れてって

もらった水族館でジンベイザメを目の当たりにした時以来だ。


 「駆ー! 神原さーん! いねえの?」


 遠慮なくドアを開けて入ってきた巨体。ボタンの外れた学ランから覗く朱色のシャ

ツ。首には、歯のような形をした白い装飾品のアクセサリー。とさかのような形の金

髪を逆立て、横の刈り上げた部分には一筋の傷跡。


 その頭髪を支えるのは、見る人を常に威圧するような顔面。岩のように隆起した

眉。獣のような切れ長の目つき。臭くはないが、独特な体臭。


 「アレ? 2人ともいねえの? 留守にしてるなら戸締りはきちんとしねえと。逆

にこっちが盗んじまいそうだぜ」


 身長が180センチ後半はあるだろう彼は、未だに小さな私に気付かない。


 声を出さないと。


 神原さんがすぐに戻ってくることと、ソファーに座ってもらうこと。このまま黙っ

てたら、私に気付かないまま外に出てしまう。神原さんの仕事を台無しにしてしま

う。


 勇気を出して、冷静に、「あの」から切り出せ。


 目が合った。


 せっかくでかかった声は、締め付けられたように閉じた喉を通過できず、腹に戻っ

た。


 足の震えが止まらない。地元でもこんな人、見たことがないけど、この人は凄まじ

い暴力と残虐性を持っているに違いない。本能的に危険を直感する


 「あんたもお客?」


 怪訝するように、値踏みするかのように顔を近づけてジロジロと覗き込むように凝

視する。


 「た、たべないで」


 「なんだそれ?」


 目の前の巨大な外見が、まともに会話をさせてくれない。


 目の辺りが緩くなるのを必死にこらえる。しかし、依然として脳が言葉を作ってく

れない。


助けて、健次郎さん。


「来ても無駄だっつったろ?」


 全く望まない助け舟が階段から上がってきた。


 「よお、駆! 久しぶりだな!」


 巨体が声に振り返り、パッと明るい表情を作った。


 「2週間前に会ったろ」


 うんざりしたような顔でおざなりに巨体を見上げて対応する足利駆。


 「喧嘩ならやらねえぞ。俺だって暇じゃねえんだ。そこのチビの案件を片付けなき

ゃいけねえ。面倒だよ、依頼も依頼人も」


 「今日は喧嘩じゃねえ」


 急に真面目な顔を作る金髪の巨体。得体が知れないけど、今はそんなことどうでも

よかった。


 「やっぱりヤなやつですね」


 意図的にも思える不愉快な失言を見逃さず、言葉の針を刺して仕返ししてやろうと

試みた。


 「おどおどして満足に言葉も出せないやつよりかマシだけどな。なんだっけ? 

た、たべないで~、だっけ? ビビりすぎだろ!」


 効果なしどころか逆効果。顔立ちだけは整った男の爆笑で、全身の血が沸騰するよ

うに身体が熱くなった。


 「見てないで助け…! 誰だって初見なら危機感覚えると思いますよ。人間に備わ

っている防衛本能ですから!」


 「防衛本能だとあんな不細工な顔になるんだな。勉強になった」


 典型的な、ああ言えばこう言うタイプの男。


 この男の減らず口を横に果てしなく切り裂きたい。



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