第4話 呼び捨て

 あれほど激しかった耳もとの雨音が、ふたり以外に誰もいない家のなかでは、遠くにしか聞こえない。


 苦しい。苦しい。息が。心臓が。


 ──でも、それよりもっと、別のなにかが、槙のなかで苦しい。


「うわー……槙くん、すっごい、濡れたねえ」

 今、そのことに初めて気づいたみたいな、すっとんきょうな声を、優一があげた。


 突然、笑いの波がやってきたのはそのときだった。

 別におかしいことなんか、何もないはずなのに、槙と優一は、どちらからともなく顔を見あわせて笑いだした。


 激しい雨の中を走り抜けた強い興奮が、体じゅうに満ちている。

 服から、髪から、しずくをしたたらせながら、二人は声をあげて笑い続ける。


「蓮見さんこそ、濡れてるよ、びっしょびしょだよ……」

 笑いすぎてきれぎれの声で槙が言うと、優一のほうも「だよね」と続けて、ふたりでもっと笑った。


「タオルで拭かないと」

「うん」

「……来て、蓮見さん。こっち」


 その必要はまったくないのに、年上の彼の手をとった。

 バスルームの脱衣室に連れて行く。そこにタオルがしまってあるから、それを出して、拭かないと、と思ったのだ。


「拭いてあげるよ」

 さっきの大笑いの興奮の続きのような気持ちで、クリーム色の大きなバスタオルを取り出して、槙は、ふわりと優一の頭からかけてやった。 


「うん。拭いて?」

 優一の、やけに従順な答えを聞いて。


 槙は、今さっきの自分の言葉づかいが、兄の友人に対するものではなくなっていることに、ようやく気づいた。


 けれどもそれを、正さなかった。

 そのまま黙って、彼と向かい合って立った。


 自分よりも小柄な年上の彼の頭を、タオルで包みこんで拭いてやる。

 ごしごし、手を動かして、それに集中する。


 潮がしずかに引いていくように、ふたりのなかから、笑い声が消えていく。

 タオルで優一の顔は隠れているのに、向かいあう体がひどく近い。


 その体から立ちのぼる熱や匂いも感じられそうなほど。

 濡れた制服がじっとりと自分の体にはりついていて、それが不快だと、つよく意識した。


 そのとき、優一も同じことを感じたように。


「槙」

 あ。……呼び捨てにされた。

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