日常

菅原 諒大

日常

 そうだ。やっと思い出した。


 今日の朝から、ずっと頭に鳴り響いて離れなかった曲。その正体を、私はようやく思い出すことができた。


 でもまさか、それがこんなタイミングだなんて……。


「何だい、君。この子の知り合い?」


 と、眼鏡をかけた小太りの中年男性が、私に尋ねた。その隣には、いかにも大人しそうな、緑の黒髪を長く伸ばした、小柄な女子高生が立っている。


「いえ、他人です」


 私がそう言うと男性は、

「そうかい。だったら放っておいてくれ。私たち親子の時間をつぶさないでもらえるかな」

 と、私に向かってそう言った。


 ――親子? じゃあ、この子は彼の娘ってこと?


 そう思いながら、私は女子高生の方にふと視線を向ける。女子高生は私を見て、何か物言いたげな、そわそわとした視線を私に送った。


 23時のJR神田駅。その東口から出て目の前、車道をはさんだ向かい側に、様々な居酒屋やカラオケ店が軒を連ねる一角がある。


 めまいが起きそうなほど眩しいネオンに囲まれ、客引きの声やら流行りの歌やらが妙に夜風と混ざり合ったその場所で、私はいま、女子高生に「余計なお世話」をしようとしている。


 カラオケ店の入り口の前に立つ私たち三人の横を、道行く人たちが、物憂げに呆れた顔をしながら通り抜けていった。


「あの、本当に親子ですか」

 私は男性にそう尋ねる。


 図々しいと自分でも思う。でも私は、彼と女子高生が、どうしても血縁関係にあるとは思えなかった。


 ただ、本当の親子である可能性も捨てきれない。だから私は賭けに出ることにした。それが私の「余計なお世話」だ。


「だからそうだと言ってるだろ。私はこれから、娘と一緒にカラオケの約束をしているんだ。分かったなら早くどっかに行きなさい」

 男性は少し怒っているのか、さっきよりも荒い口調で私にそう言った。


「その子に変なことするつもりじゃないですよね」

 私は男性にそう尋ねる。自然と、私の声も少し大きくなっていたかもしれない。


「君もしつこいね。君には関係のないことだろ。何でそんなに突っかかって来るんだい」

 男性はついに堪忍袋の緒が切れたのか、瞬間的に声を荒げて私にそう言った。


 その声を聞いた、周りを歩いていた人たちが一瞬だけ私たちの方を向き、そしてまたすぐに歩き去っていく。


 ――どうしてみんな見て見ぬふりをするんだろう。


 男性が声を荒らげた後の、束の間の静寂で気づいたけれど、私と男性の声は、かなり大きく響いていたのに――。


 ああ、そっか。みんな忙しいからだ。


 この国は先進国の中でも残業が多いそうだから、きっとみんな忙しすぎるんだろう。


 それで他人に構っている暇なんてないから、見て見ぬふりをしているんだ。そういうことに違いない。


 それに引き換え、私は就活浪人だ。時間だけは有り余っている。だから私しか、この男性を相手にできる人がいない。きっとそういうことなんだろう。


 大学時代、この国にあこがれて留学して、卒業したらこの国で職を探そうと思っていた。


 でもこの国では、大学に通いながら職を探すのが普通で、そうして採用された新卒に重きが置かれている。


 私の国では、大学を卒業してから職を探すのが普通なのだけれど、それを知らなかった当時の私は、自分の国の感覚で大丈夫だと思い込んでいた。


 でもなかなか採用されず、そのとき私は、郷に入っては郷に従えという言葉の意味を、こういうことかと痛感した。


 そんな気分のまま乗った電車の中で、私はこの男性と女子高生を見かけた。


 確か、乗降ドアの近くにその二人はいたと思う。


 壁際の女子高生を、男性が覆いかぶさるような形で、男性が女子高生に、にやにやしながら話しかけていた。女子高生はおどおどした様子でいたけれど、次の駅で、その男性と一緒に降りて行った。


 そのとき私は、女子高生が男性に半ば無理やり連れていかれたように見えたのだ。


 就活のストレスのせいで、頭がどうにかなっていたのかもしれない。気が付けば私は、電車から降りて二人の後を追っていた。そこが神田駅だと私が気づいたのは、改札を出てからすぐのことだった。


 そして私は見てしまった。女子高生が、男性にカラオケの中へ連れ込まれようとしているところを――。


 もしかしたら、彼女の日常がこれで壊れてしまうかもしれない。


 そう思った直後、私は考えるよりも先に、

「あの、何してるんですか」

 と、男性に声を掛けていた。


 そのとき、カラオケ店の入口から、とある曲が流れてきた。その瞬間、私はやっと思い出したのだ。


 今日の朝から、ずっと頭に鳴り響いて離れなかった曲。その正体が、私の好きなアニメのエンディングテーマで、しかもそのフレーズが、その曲のアウトロだということに――。


 そしてそれは、カラオケから聞こえてきた曲とまったく同じ「日常」というタイトルの曲だった。


「とにかく、私も早くカラオケに入りたいんだ。そろそろ入れてくれるかね?」

 私が数秒の間そんなことを考えていると、いくらか落ち着きを取り戻したらしい男性が、ため息交じりに私にそう言った。


 そして女子高生の肩に手を置きながら、カラオケの入口の方へと向き直る。ふと私は、女子高生の方に視線を移した。


 女子高生は両手を後ろに組んだまま、男性に促されつつ、おどおどしながら自動ドアの内側へと向かっていく。その後ろ姿を見て、私は思わずぎょっとしてしまった。


 女子高生が右の手のひらを見せた後、「4」を表現するときのように親指を曲げると、それを包み込むように残りの指を全部曲げて、握りこぶしを作ってみせたのだ。


 ――「Signal For Help」のハンドサインだ!


 そう理解した瞬間、私は女子高生の背中を押していた男性の左手の手首を掴み、

「その子を離してください」

 と叫んだ。


 そして私はそのまま、男性の手首を外側へと反らす。


 男性は痛がりながら、私に掴まれた左手を振りほどこうとして、

「何をするんだね、君。放しなさい。これ以上何かするようなら警察を呼ぶぞ」

 と、声を荒げて私に言った。


 女子高生は内股になりながら、両手で口を覆って、私と男性のことを小動物のような目で交互に見ている。


「ええ、どうぞ」

 と言いながら、私は自分のスマホを男性に見せる。その瞬間、男性はぎょっとしたような表情を浮かべた。


「神田駅を降りたときから、後をつけてカメラで録画させていただきました。警察にこれを見せたら、逮捕されるのはあなたの方ですよ。そうしたら、あなたの会社にも連絡がいくはずです。そうなったら、あなたはいったいどうなるのでしょうね」

 私は顔面に絶望を浮かべた男性を前にそう言った。


「あの、どうかなさいましたか」

 と、カラオケ店から店員さんが出てきて私たちに尋ねてきた。


「すみません、この人なんですけど……」

 私がそう言った瞬間、男性が私の手を振りほどき、そのまま一目散に駅の方へと逃げていった。


「あ、やっぱり何でもないです。お騒がせしました」

 私がそう言うと、店員さんはぽかんとした表情で「はあ」と言いながら、またカラオケの店内へと戻っていった。


 私はふと、女子高生の方を見る。女子高生は私と目を合わせた瞬間、びくりと体を少しのけぞると、私を凝視したまま固まってしまった。


「だ、大丈夫?」

 私が女子高生にそう言うと、女子高生はこくこくと小さくうなずく。


 すると女子高生は、私の方をじっと見始めたかと思うと、背筋をぴんと伸ばし、私に向かって深いお辞儀をした。


 そのとき、カラオケ店の入口から、「日常」のアウトロが聞こえてきた。


 ストリングスの柔らかいメロディが、耳の中をすっと通って、頭の中で調和する。


 最後の跳ねるような三つの音が、ちょうど私の耳に届いたとき、女子高生は下げていた頭を上げてから、神田駅の方向、でも男性が逃げた方向とは別の方へと、小走りで帰っていった。


 ――彼女の日常は、これで守られた。


 そういう風に、私は思いたかった。


 私はふと右腕の腕時計を見る。時刻は23時30分を過ぎていた。


 やばい、バイトに遅刻する!


 そう思った私は、すぐに神田駅の改札へ向かって走った。改札を抜けて、高尾行きの中央線快速に飛び乗る。


 新宿駅で京王線に乗り換えて、一つ先の笹塚駅で降り、近くにあるバイト先のコンビニに着くと、すでに出勤時刻の0時を過ぎてしまっていた。


 その後の私は、いつも通りに夜勤のバイトをこなした。


「これだから外国人は……」と、裏で陰口を叩かれながら――。

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日常 菅原 諒大 @r-sugawara

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