恋のほろ苦ブラウニー

望月くらげ

恋のほろ苦ブラウニー

 二月中旬、春が来るにはまだ遠く、肌寒い日々が続く。そんな中を、片野かたの純也じゅんやは白い息を吐きながら自宅とは正反対の方向へと走っていた。

 大学病院と目と鼻の先にある真っ白のマンション、入り口でまだ押し慣れない番号を入力すると『はい』と聞き慣れた声が聞こえた。


「あ、俺だけど」

『俺って?』

「純也! わかってるだろ!」


 つい拗ねたような口調で言ってしまう純也の言葉に、モニターの向こうからクスクスと笑う宇佐見うさみ光莉ひかりの声が聞こえてきた。


「ちょっと待っててね」


 そう言ったかと思うと、目の前の自動ドアが開き純也を中に招き入れた。

 幼馴染みの光莉が入院したのは一か月前のことだった。再発したと聞いて血の気が引いたけれど、昔とは違い医療の進化した今は、大事に至ることもなく無事手術を終えこうして自宅に帰ってきた。


「学校からは近くなったけど、うちからは遠くなっちゃったな」


 エレベーターのボタンを押しながら、純也は一人でぼやく。以前であれば隣の家だったから、すぐに遊びに行くことも何かあれば駆けつけることはできたけれど、再発したことを機に光莉の両親は自宅を売り払い、病院の近くのマンションに引っ越したのだ。何かあった時にすぐ向かえるようにと。

 とはいえ、会いに来られない場所ではない。エレベーターが目的の階に上がっていくのと比例するように、純也の鼓動の速さも速くなっていく。

 七階に着くとエレベーターは音を立てて止まり、扉が開いた。足早に廊下を歩いて行くと、光莉たちの住む七○三号室の前に立った。ドアの横にあるインターフォンを押そうとする――よりも早く、目の前のドアが開いた。


「いらっしゃい、純也くん」

「よお。……鳴らすより先に開いたからビックリした」

「そろそろかなって思って。ピッタリだった」


 両手を合わせて光莉は笑みを浮かべる。その笑顔につられて純也も笑顔になる。


「今日おばさんは?」

「お買い物に行くって。でもあと三十分ぐらいで帰ってくるんじゃないかな」


 いつものようにリビングに向かうと、ローテーブルを挟んで向かい合って座る。ちなみにすぐそこに光莉の部屋があるけれど、基本的にリビングにいる。光莉の母親がいるときであれば入ることもできるけれど――。

 引っ越して来た当初、うっかり「光莉の部屋見てみたい」と言ったとき、背中に突き刺さるような視線を感じて慌てて撤回したのを思い出して苦笑いを浮かべてしまう。


「俺、おばさんに嫌われてるのかな」

「どうして?」


 テーブルの上に教科書を並べながら光莉は首を傾げる。純也も同じように鞄から取り出した教科書とノートを並べていく。


「や、だって俺が光莉の部屋入ろうとすると凄い勢いで睨んでくるし」

「そんなこと。違うの、あれはね」


 光莉は何かを思い出したかのようにクスクスと笑う。


「お母さんったら純也くんのこと『いつまでも小さな男の子じゃないんだから!』って。意味わかんないよね、純也くんは純也くんなのに」

「は、はは。まあ、そうだね」


 相変わらず男扱いされていないことを嘆いた方がいいのだろうか。けれど、男扱いされて家にも入れてもらえなくなるのも困る。

 本来ならこの場所にいるのは純也のはずではなかった。優しそうな顔をして、純也にだけは大人げない態度を六年前からとってきたあいつがいるはずの場所。でも、今ここにあいつはいない。それなら。


「俺たち、姉弟きょうだいみたいなもんなのにね」

「でしょ。お母さんったら心配しすぎだよね」

「だよな」


 だから、今はまだこのポジションでいい。ゆっくり距離を縮めて、それでいつかは自分のことを男として見てもらいたい。今はまだきっとその時じゃないから。


「よし、じゃあ始めようか」

「そうだね」


 数学の教科書を広げながら明るく言う光莉に相づちを打った。年下の幼なじみの顔をして。



 時計の針の音だけがリビングに鳴り響く。三十分ぐらいで戻る、と言っていた光莉の母親はまだ帰って来ない。


「んー、疲れた! ちょっと休憩!」


 開始から四十分を過ぎた頃、光莉は手に持っていたシャープペンシルを置くと大きく伸びをした。


「結構進んだな」

「ね。これなら受験もなんとかなるかな」


 三年の一月二月なんて授業で新しい内容を習うことなんて殆どなくて、ただ受験に向けて過去問や頻出問題を解く練習をするだけだった。そのおかげで光莉もこの時期に休んでいても授業に遅れることはなかったけれど、どうしても一人では解ききれない問題もあるらしく、純也が一緒に勉強する役目を買って出たのだ。

 光莉と一緒に過ごせることが純粋に嬉しいし、役に立てることはもっと嬉しかった。以前もこうやって一緒に勉強をしたかったのだけれど、そのときは純也が教えようとするよりも先に、別の人間が光莉の世話を焼いていたから。

 ――もう、あいつのことは。


「純也くん?」

「なんでもない」

「そう? あ、私ちょっとお手洗いに行ってくるね」


 光莉は立ち上がって、廊下の奥に消えていく。純也も「ふう」と息を吐いた。

 子どもの頃ならいざ知らず、家主のいない家というのはどうも居心地が悪い。視線を彷徨わせていると、光莉の座っていた場所に、教科書の下敷きになるようにして置かれた一冊の本が目に入った。


「……バレンタイン?」


 悪いとは思いつつも手を伸ばすと、それはピンク色の表紙に様々なチョコレートの写真が並べられたバレンタインの手作りチョコ特集と書かれた雑誌だった。

 パラパラと捲っていくと、折り目の付けられているページがあった。それはどれも紅茶の葉を使ったものだった。

 そういえば、忘れていたけれど明日はバレンタインだ。


「朝人にあげたいって、思ってんのかな」


 自分自身の思考に胸が苦しくなる。今も光莉が朝人のことを思っているのは知っている。ああやって別れを選んだのが朝人のためだということも。


「きゃっ!」

「え? わっ」


 物思いにふけっていたせいで、光莉が戻ってきたことに気付くのが遅れた。気付くと、光莉は純也の手から雑誌を取り上げていた。


「な、なんで見てるの!」

「や、そこにあったから気になって」

「べっ、別に誰かにあげるとかそういうんじゃないんだから。ただちょっと、気になって買っただけで」


 聞いてもいないことを話す光莉に苦笑いを浮かべてしまう。頬を赤く染めて雑誌を抱きしめたままそんなことを言っても、何の説得力もない。けれどここで話を振るのが自分にプラスにならないことはわかっている。


「そっか、ちょうどバレンタインシーズンだもんね。気になるよね」


 だから純也は気付いていないフリをして光莉に話を合わせた。そんな純也の態度に、光莉は安心したように「そうなんだよね」と笑みを浮かべた。


「ねえ、光莉」


 勉強を再開しようと、向かいの席に座った光莉に純也は声をかけた。


「なに?」

「俺さ、チョコ欲しいな」

「え?」

「だからさ。光莉のチョコ、欲しいんだけど。駄目かな?」


 さりげなく言えたと思う。緊張してるとか本当は心臓がうるさいを通り越して痛いぐらいに鳴り響いているとか気付かれることなく、何の気なしにサラッと言えた、はずだ。

 その証拠に光莉は困惑はしているものの、慌てたり驚いたりはしていなかった。……それはそれで寂しいものがあるけれど。

 けれど、そんな純也の取り繕うような態度は、光莉の言葉で一瞬にして崩壊した。


「んー、いいよ」

「え!? いいの!?」

「欲しいって言ったのになんで驚いてるの?」

「や、だって本当に貰えるなんて思わなかったから」


 おかしそうに笑う光莉に、慌てて笑顔を浮かべるけれどどこかぎこちないのは、動揺を必死に押し殺そうとしているせいだと思う。


「好きなチョコとかある?」

「えー、あ、前に光莉が作ってくれたやつが好き! ブラウニーだっけ?」

「ブラウニーだね。そしたら、明日取りに来てくれる? 放課後までに作っておくから」

「わかった! 学校終わったらすぐに来る。むしろ終わらなくても来るから」

「もう。ちゃんと学校が終わってから来ること。じゃないとあげないんだからね。わかった?」


 その言い方があまりにも可愛くて、思わず言葉を失った。

 負ける戦いはしない主義で。絶対にまだ自分に気持ちがないのをわかっている状態で、好きだなんて伝えても無理だってわかっている。それでも、こんな態度を取られたら、理性を感情が乗り越えてしまいそうで。


「純也くん?」

「え、あ、ああ。うん、わかった」


 口をついて出そうになる『好き』の二文字を押し殺すのに必死で、そう答えるだけで精一杯だった。



 翌日は、学校の授業なんて全く頭に入らなかった。クラスメイトの女子が何か言ってきていた気がするけれど、よく覚えていない。途中で友人に頭を小突かれたことだけは覚えているのだけれど、いったい何だったのか。とりあえず全てのことは後回しで、ただ放課後、光莉のところに行くことだけを考えていた。

 いっそ今日は午前授業だったことにしてしまおうか。午前は駄目でも五時間目で終わりだったとか。でも、万が一光莉に知られたときに幻滅去れるかもしれない。それだけは避けたい。

 帰ってしまいたい誘惑になんとか打ち勝ちながら、どうにか六時間目までの授業を終えた。ホームルームが終わると、急いで教室を飛び出した。早る気持ちが抑えきれず、信号に引っかかったときには青に変わるまで足踏みをしてしまうほどだった。

 ようやくたどり着いた光莉の住むマンション。息を整えると、光莉の部屋の番号を押した。


『はい』

「あ、俺。純也だけど」

『はーい、ちょっと待ってね』


 いつものように光莉の声が聞こえ、中に入る。エレベーターが最上階にいて下りてくるのを待っていられず階段を駆け上った。

 光莉の部屋の前で息を整え、ふうと一息吐いてからチャイムを鳴らした。


「はーい」


 中から光莉の声が聞こえて、ドアが開く。平静を装う純也に、光莉は優しく笑った。


「走ってきたの?」

「ど、どうして? 普通に来たよ?」

「ホント? だって、こんなに寒いのに凄く汗かいてるよ。ちょっと上がって待ってて」


 パタパタとスリッパの音を立てながら部屋の中へと向かう光莉を見ながら、純也は言われた通り玄関に入りドアを閉める。額を拭うと、たしかに汗をかいていた。


「はず……」


 思わずその場にしゃがみ込んでしまう。そんな純也の頭に、柔らかい布が被せられた。


「これで汗拭っておいて。じゃないと風邪引いちゃうよ」


 笑いながら言う光莉の顔が見られない。結局、どれだけ年齢が近づいたって背が光莉より大きくなったって、光莉にとっての純也はいつまでも六歳年下の小さな男の子のままで。どうしたって朝人のように頼ってもらえたり対等に並ぶことはできないのだと、こういう小さなことで思い知らされてしまう。


「純也くん? どうかした? 具合でも悪い?」

「別に……」


 ついむくれたような声を出してしまう。こういうところが――。


「もう。純也くんってば相変わらず可愛いなぁ」

「可愛いって言うな!」

「えー、だって可愛いんだもん」


 純也の頭をタオル越しにポンポンと叩くと、光莉はリビングの方へと戻っていく。こんなふうに子ども扱いなんてされたくない。

 ――もうあの頃の、ガキだったころの俺じゃないんだから!


「……っ」


 気付くと純也は後ろから、光莉のことを抱きしめていた。


「な、え、じゅ……」

「いつまでもガキ扱いするな」


 腕を回した光莉の身体は、いつの間にこんなに小さくなっていたのだろう。治療のせいもあるのだろう、痩せて細くなった肩、背伸びをしても届かなかった光の頭に、今ではこうやって顎を乗せることさえできる。

 大好きで仕方がなかった年上の幼なじみが、好きで好きで誰にも渡したくなくて自分だけのものにしたいと思うようになったのは、いつからだろう。

 光莉を抱きしめる腕に力を込める。その瞬間、純也の腕の中から、光莉の震えるような声が聞こえた。


「や……っ」

「あ……」


 気付けば光莉の身体は小刻みに震えていた。腕に込めていた力を抜くと、光莉は自分の身体を抱きしめるようにして廊下の壁にもたれかかった。

 やって、しまった。

 いっそ『本気だから』と言ってしまえればどれだけ楽か。けれど、気持ちを伝えて光莉のそばにいられなくなるほうが嫌で、本音を伝えることもできない。

 俯いたままその場に立ち尽くしていると「しょうがないな」と光莉が呟くのが聞こえた。


「ごめんね、私が子ども扱いしちゃったから」

「ちがっ、光莉は悪くないよ!」

「ううん、私にとって純也くんはいつまでも小さな頃のままだけど、そうだよね。大きくなってるんだもんね。子ども扱いされたら怒るよね」

「ちが……わない、けど。でも、やっぱり俺が悪い。怖がらせて、ごめん」


 頭を下げる純也の耳に、光莉が優しく「もういいよ」と言う声が聞こえた。情けない。結局、光莉にお膳立てしてもらわなければ謝ることもできないなんて。

 こういう時、朝人ならきっと――。


「ほら、いつまでもそんなとこいないで。中入って。今ね、ちょうど焼けたところなんだ」

「焼けたって……?」


 そういえば、気付かなかったけれど玄関まで薄らとチョコレートの匂いが漂っている気がする。光莉に連れられるようにしてリビングに入ると、そこは甘い匂いに溢れていた。


「ちょっと待ってね、今ラッピングしちゃうから」


 キッチンに入っていく光莉の姿を視線で追いかける。何かを箱に入れてリボンをかけているけれど、あれが純也のチョコレートだろうか。


「ん?」


 それとは別に、ラッピング前のチョコレートが小さな箱に四つ入っているのが目についた。


「トリュフ?」

「あっ、それは」


 カウンターの上に置かれたそれを、光莉は慌てて手に取った。『誰にあげるの?』なんて聞かなくてもその表情を見れば一目でわかった。


「……朝人に渡すの?」

「ち、違うの。渡せないのはわかってるの。でも……」


 手の中の小さな箱をギュッと握りしめると、光莉は寂しそうに笑った。


「やっぱり、変、だよね」

「あ……」

「ごめん、よければこれ食べちゃって。その間にラッピングしとくから」


 純也に小箱を押しつけると、光莉は再びラッピングへと戻る。手の中のトリュフと光莉を思わず見比べる。


「これ、残ったらどうするの?」

「んー、お父さんにでもあげようかな」

「ふーん。じゃあいいや。どうせなら、今ラッピングしてる方を食べたいし」


 同じものでもせめて自分のために作ってくれたものを食べたい。たとえ純也がリクエストしたものじゃなくても、朝人のついでに作ったものだとしても、それでも光莉が自分にくれたということが嬉しかったから。

 けれど、小箱をカウンターの上に置く純也に、光莉は首を傾げた。


「それとこれは違うよ?」

「え? あいつのついでに作ってくれたんじゃないの?」


 朝人宛のチョコレートを見た瞬間に、胸が苦しくなった。光莉にバレンタインチョコを貰えると思って喜んで来たのに、朝人のついでに作られただけだったんだって。それでも貰えないよりはずっといい。そう思い込もうとしていた。でも――。


「そんなことするわけないでしょ。純也くんが食べたいって言ったから作った純也くんのためのチョコレートだよ」


 そう言って光莉が見せてくれたのは、ブラウニーだった。


「これって……」

「食べたいって言ってくれたでしょ?」

「俺のために……? ホントに……?」

「久しぶりに作ったから自信ないけど」

「絶対美味しいに決まってるよ! 光莉が作ってくれたんだから、美味しくないわけがない!」


 純也の言葉に光莉は照れくさそうに笑って、それからトリュフに視線を落とした。

 受取人不在のトリュフ。寂しそうな視線を向けるぐらいなら、最初から作らなければいいのに、という言葉は継げることなく呑み込んだ。


「……やっぱり一個貰ってもいい?」

「え、あ、うん。一個と言わずに二個でも三個でも」


 箱の中から一つ指で摘まむと口に放り込む。


「……あま」

「純也くんは甘いの苦手だもんね」


 言外に、朝人は甘いのが好きだったと言っているように聞こえて胸の奥が苦しくなる。そんなにも好きなら別れなかったらよかったんだ、とは口が裂けても言えない。その決断をするために、光莉がどれだけ苦しんで涙を流したか知らない純也ではなかったから。


「やっぱりこれも貰う」

「え、いいよ。無理しなくても」

「これぐらい甘い方が勉強してるとき、目が覚めそうだから」

「何それ。……でも、ありがと」


 純也の答えに呆れたように笑うと、小さな声で「優しいんだから」と呟いたのが聞こえたけれど、気付かなかったふりをした。



 光莉からラッピングされたブラウニーを受け取ると、ちょうど光莉の母親が帰ってきたので帰ることにした。また明日、勉強を教えに来るとだけ伝えて。

 マンションを出た純也の足は、自然と朝人の自宅へと向かっていた。小さな頃、光莉をかっ攫っていく朝人のことが大嫌いで、何か弱みを見つけられないかと思って跡を付けて知った自宅。まさかこんなことで役に立つなんて思わなかった。

 近くまで向かうと、タイミング良く朝人が正面から歩いてくるのが見えた。


「え……」


 純也の姿を見つけて、朝人は驚いたように声を上げた。こうやって顔を合わせるのは、光莉が朝人と別れたあの日以来だった。


「……久しぶり」

「どう、したんだ。こんなところで」


 戸惑うように朝人は言うけれどそれもそうだろう。朝人の家は純也の自宅とは中学校を挟んで真反対にあるのだから。


「別に、たまたま通りかかっただけだよ」

「そっ……か。あの……! いや、なんでもない」


 朝人は純也を見ながら、何か言いたそうに口を開けては、けれど何も言えないままギュッと唇を結ぶ。何を聞きたいかなんてわかっていた。けれど、わざわざ先回りして教えてやるほどお人好しじゃない。


「もうすぐ日が暮れる。気をつけて帰れよ」


 子ども扱いするかのような朝人の態度に苛ついた。けれど、それよりも切なそうに微笑む光莉の姿が思い浮かんで――。


「なあ」

「え? わっ、な……」

「貰いすぎたから、お裾分けしてやるよ」


 呆けたように開けた朝人の口に、光莉から貰ったトリュフを一つ放り込んだ。

 戸惑うように、それでも口に入れられたトリュフを頬張ると、朝人は驚いたように目を見張った。


「紅茶の、トリュフ……」

「え?」

「いや、昔……光莉も作ってくれたなって。俺が好きな紅茶を使って――。え、まさかこれって……」


 朝人は口元を押さえて、何かを思い出すように瞬きを繰り返す。


「…………」


 そんな朝人に背を向けると、純也はその場をあとにした。


「純也! 待て! これって……!」


 背中に聞こえる朝人の声には聞こえないフリをして。



 帰り道、鞄に入れていたラッピングされた箱を取り出すと、蓋を開ける。そこには純也が食べたいと言ったブラウニーが並んでいた。

 一つ摘まんで口に放り込む。

 甘さ控えめのそのブラウニーはほろ苦くて、でも幸せな、実らない恋の味がした。

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