第40話 海、帰り。車内にて

「…………」


 帰りの車にて。冬弥は窓の外を見ながら、海の余韻に浸っていた。なお、エマは隣で爆睡している。──こいつが寝るだけで、こんなにも静かになるものか。


 また、灯織と交代で助手席に座った薫も、寝息を立てて爆睡している。砂浜でも寝ていた(気絶していた)のに、よく寝る奴である。


「ね、冬弥」


 すると、 左隣に座る灯織がこちらに振り向いた。その手には一眼レフがある。──今日撮った写真でも見返していたのだろうか。


「どうした? 家から水着を着てきたせいで、現在は中に何も着ていない灯織さん」

「それ以上言わないで……!」


 灯織は顔を真っ赤にして言った。服装はTシャツとショーパンだったが、その下に何も履いていないことを考えると、冬弥もさすがに少しは意識してしまう。


「そ、それより、なんだ?」

「……いや、その」彼女は何かを言い淀んでいるようだったが、やがて意を決するように口を開いた。


「……海、楽しかった?」

「えっ」


 冬弥は思わず聞き返す。


「どうしたんだよ、そんな当たり前のこと聞いて」

「いや、なんて言うか……ほら、冬弥はこっちに来てからずっと忙しかったでしょ。店の手伝いとか、学校の行事とか……」

「まぁ、そうだな」


 冬弥は苦笑いしながら答える。たしかに北海道に来てから今日に至るまで、実に大変な時を過ごしてきた。友人関係もガラッと変わって、学業や店の手伝いに追われる毎日である。


「だから、今日ぐらいは思いっきり楽しんで欲しかった、っていうか……ごめん。なんか上から目線みたいな感じになって」

「いや、大丈夫だ。俺は──」冬弥は少し間を置いて、それから答える。


「楽しかったよ。水着もエロかったし」

「そう……いや」


 しっかり灯織は殴った。


「冗談だ。楽しかったよ、めちゃくちゃ」

「ふん。なら良かった」


 灯織は胸に手を当てると、安堵の表情を浮かべる。緑色の瞳が、いつにも増して優しく見えて。


 冬弥は慌てて目線を正面に戻すと、そのまま口を開いた。


「そういう灯織は楽しめたのか?」

「うん。もちろん、楽しかったよ」

「よかった。こんな晴天の下で、めいっぱい泳げる機会なんてそうそう無いもんな」

「そ、それもある……けど」

「けど?」


 灯織はそこで言葉を切った。海塩混じりの前髪をかき分けると、ゆっくりと口を開く。


「やっぱり一番は、冬弥と一緒に来られたことかな」

「────」


 その言葉に不意を突かれ、冬弥は灯織の方に振り返った。


 いつものようにからかってやろうと思ったけど、何故か今だけは言葉が出なくて。


「あ────」


 冬弥は灯織の顔を見つめたまま、固まった。いつも素直じゃない彼女だからこそ、その言葉は身に染みるものがあったのだ。


「……ふふ」


 灯織は悪戯っぽく笑うと、また窓の方へと視線を向けた。冬弥はその姿を見て、何故だか胸がキュッとなって。


「かわ…………」


 そう言いかけてから、冬弥は慌てて口を噤んだ。


「え?」

「いや、なんでもない……」


 冬弥は首を振ると、目を閉じた。──危ないところだった。もしその言葉の続きを口にしていたら、この場で大惨事になっていただろう。


「…………」


 冬弥は無理やりにでも眠って、誤魔化そうと思った。しかし、瞼の裏には先程の灯織の笑顔が焼き付いていて、なかなか眠りにつくことができない。


「ん……ふわぁぁ」


 すると、隣でエマが目を覚ましたのか、大きな欠伸をした。気づかれないように、冬弥は寝たフリを続ける。


「エマちゃん、おはよう。まだ着かないから、寝ててもよかったのに」

「あれ……灯織……起きてたのね」


 エマは海で遊び疲れていたのか、寝ぼけ眼で答える。


 一方、冬弥は冷や汗を浮かべた。そもそもどうして俺は寝たフリなんかしているのだろう──その理由もよく分からないままに、冬弥はじっと目を閉じていたのだ。


「うわコイツ、気持ちよさそうに寝てるじゃないの……」


 エマはそう言うと、冬弥の頬を指でつついた。


「────」

「ちょっと。冬弥が起きちゃうでしょ」


 灯織は軽くエマを注意した。冬弥は気付かないふりをしながら、目を閉じる。


「ごめんなさいね。つい触りたくなっちゃって」

「まぁ、気持ちはわかるけど……」


 エマはニヤリと微笑むと、そのまま冬弥の顔をまじまじと見つめた。


「ねぇ、灯織。あとちょっとだけ触っても」

「ダメ」


 灯織は食い気味に答えた。


「即答!? なんで!?」

「それはその……とにかく、ダメなものはダメ」

「ちぇっ……」


 エマは不満げに呟いたが、それ以上何かをしてくることは無かった。


「…………」


 冬弥はホッと胸を撫で下ろす。これでもう、寝たフリがバレることも無くなった。


 もう、ここまで来たら寝てしまおう。そう思い、冬弥が小さく息をついた瞬間。


「……!」


 すると、唇に柔らかい感触が訪れた。──冬弥は有り得ない、と思った。しかし、その感触は確かに人肌のような温度で、自分の唇を微かに湿らす。


 いやいや──嘘だ。仮にキスをしてくるならエマ、もしくは灯織のどちらかだろうが、そんな訳が無い。


 冬弥はそう思いながらも、ゆっくりと目を開ける──。


「…………」


 それは唇ではなく、こんにゃくだった。


「おはよう、トウヤ!」

「こんな最悪な目覚めがあるか!! わざわざ人肌に温めやがって!」

「もしかして期待しちゃったのかしら〜? 百年早いわよ!」

「くっ……!! 純粋無垢な男子の心を弄びやがって!」

「…………」


 二人がギャーギャー喚くのを、灯織は呆れながら見ていた。


 ──どうやら、わたしたちはまだまだ子どもらしい。そう思いながら、シャッター音をパシャリと鳴らす。


 夕焼けを背にして、頬を引っ張り合う二人の写真。先ほどの冬弥の間抜けな顔と一緒に、夏のアルバムに入れてしまおう。きっと、大事な一ページになる。

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