第二章 第4話

それから5ヶ月が経ち弟のいる病室へ見舞いに訪れた時、ベッドにいないのに気づいて、スタッフステーションに看護士に尋ねて一緒に探していた。

トイレの近くを通ると中からせる声を上げる音が聞こえてきたので、中に入ると看護士が背中を摩りながら、便器の中に顔を入れたまま項垂れて苦しそうに嘔吐している弟の姿があった。


別の看護士も呼んでくるので車椅子に座らせるように促されて、声をかけながら彼の身体を支えて椅子に座らせた。急に酷い胸焼けのようなものが来て、苦しみに耐えられず居座っていたと話していた。

悪寒も出ていた事もあり身震いも止まらない状態だったが、看護士がかけつけて病室へ連れていき応急処置を取ると、荒げていた呼吸も次第に治まり、鎮痛剤が効いてきたのか仰向けのまま目を細めて私の方を見ていた。


その1週間後、医師から話があると看護士が連絡してきたので、スタッフステーションの並びにある処置室へ案内された。机の上のレントゲン写真やMRI画像を見つめながら医師が口を静かに開いた。


「数日前に念のため検査を行いました。数カ所肺に腫瘍が転移しています。このまま行くと年内あたりには……という感じですね」

「抗がん剤も効かないのですか?」

「はい。あとは類さんの体力次第になってきます。最期まで見守ってあげるよう、努めてください」

「分かりました」


ただ話を聞く事しかできずそれ以上の言葉は思いつかなかった。病室へ入ると呼吸器や心電図の機器が取り付けられて、弟のその表情を見ると更に両目の周りや頬の肉が痩せ落ちて今にも骨が浮き彫りに見える顔で眠っていた。

翌日は仕事が休みだったので午前中から看護に付き添った。看護士から重病化患者用の病室へ移動するので、荷物をまとめてくれと言われ、すぐさま支度にあたり2つ上階の病室へ向かい、中に入った。


2人部屋だったが片方のベッドが空いていたので、せめてものと告げると景色の見える窓側にしてもらった。荷物を専用棚に入れ終わり看護士が出ていくと、弟が私の裾を掴んできて話しをしてほしいと甘えてきた。

私は両親や職場の話をしてしばらく気持ちが弾んでいると、それに反応して彼も微笑んでくれた。やりきれないはずの思いに駆られているのに、不思議とその日は会話がいつもの様に楽しくなっていた。


「姉ちゃん」

「どうした?喉乾いた?」

「忙しいのに……いつも来てくれて……嬉しい……よ」


彼は目に涙を浮かべていた。泣かなくても良い、また家に一緒に帰ってたくさん話をしよう。皆があなたを待っていると話しかけると、綻ぶその表情に私は安堵していた。

しかし、時間は私達の強い絆で結ばれた糸を引き裂くように許そうとはしなかった。


1ヶ月後の春めいた息吹が穏やかに包み込んでいく中、弟は苦しさを見せずに安らかに息を引き取った。


葬儀にもたくさんの人たちが彼のために参列してくれた。49日もあっという間に過ぎて、まるで彼が何かをいたずらするように時間を操って悲しさを忘れてほしいといわんばかりに歳月が経っていった。


───「楠木さん、お電話です」


昼休憩を摂り再び職場へ戻り、次の次に主催する行事に向けて準備を職員らとミーティングを繰り返していた。電話の相手は要介護認定をうけている家族の元へアンガーマネジメントの計画相談をしたいという希望の施設からだった。

専用車に乗り、施設長と会議をしてしばらくすると私のスマートフォンにまた1通のメールが送られてきた。


会議を終えて、職場に戻り退勤時間になり駅へ向かった。車内でスマートフォンを眺めていると先程のメールを思い出して、開いてみた。


「楠木真依さま。三度みたび失礼します。あの公園にある公衆電話が近いうちに撤去されるとの事です。弟さまとお話ができなくなってしまいます。大至急公園に行ってください。」


私は少しだけ血の気が引くような感覚になった。このままではもしかしたら弟と二度と繋がれなくなる。

最寄り駅に到着してから急ぎ早に歩き、地下通路から外に出てバスターミナルへ直通で行けるバスを並んで待っていた。


公園前のバス停で降りて、横断歩道を渡り、敷地内へ走って電話ボックスへ向かった。


──あった。前回に来た時よりも濃くて淡い群青色の光に包まれるようにボックスが照らしていた。

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