四章(一)

 お前の人生とはなんだったのか。

 もう一人の僕が僕に聞く。

 これは、夢なのか現実なのか。暗闇の空間に僕はいる。

 もう一人の僕は、何かが写されたフィルムテープを暗闇に漂わせている。

 僕はそれをただ見ている。そこに写されているのは僕の記憶だった。


 

 あの人は、僕が小さいときは優しかった。手を引いて幼稚園まで送ってくれたり、バスに乗るときは一緒に待ってくれたり、僕が帰ってくるのを玄関で待ってくれたりしていたのを覚えている。

 確か、幼稚園の卒園式のときだったと思う。制服がない幼稚園だったので、あの人は、白いシャツにベスト、その上にジャケット。下は、光沢のラインが入ったスラックスを用意してくれていた。初めて着るタイプの服だったので、あの人は手伝ってくれた。僕は初めて触るベルトに興奮して、金具をカチカチといじったり、振り回したりして、あの人を困らせた。

「こら、ジッとしてなさい。」

「いやだ。」

 意地悪そうな笑みを浮かべながら、あの人の顔を見た。初めて着る服、初めて身に付ける小物に高まる高揚感を抑えきれずにいた。

「ジっとして。テレビ見てていいから」

 そうすると、あの人は、テレビの電源を入れ、僕がその頃、気に入っていた子ども用の教育番組を流した。僕は、ソファーに座ってその番組を見ていた。あの人は僕に、ベストを着せようとしていた。

「これなに」

「ベストっていうのよ」

 そういいながら、ベストのボタンを閉めた。そして、ネクタイと蝶ネクタイを用意し僕の首元にそれぞれ合わせた。「一回つけてみようか」と良い、ネクタイを一度自分の首に合わせようとしたが、長さが足りず、「そりゃそうか」と恥ずかしそうに笑った。

 そして、私、人に付けるのは苦手なんだけどなと笑い、僕の細い首にネクタイをかけた。ここをこうして、長い方を下からと呟きながら、ネクタイを結んだ。

「どう、苦しくない?」

「くるしいよ、これいらないよ。」

 そういい、僕はネクタイに指をかけ、解こうとした。

「はいはい、じゃあこっちはどう?」

 ネクタイを慣れたように解き、蝶ネクタイを僕の首に結んだ。

「いいよ、くるしいし、これはちょっとじゃまだよ。」

「そう、じゃあ無くてもカッコいいし、これでいいか。」

「ほんと?ぼくかっこいい?」

「カッコいいよ、じゃあ立って。」

 あの人は、ジャケットのしわを伸ばし、シャツの襟元を正した。そして、二階へ「あなた、時間よ」と声をかけ、あいつが下りてくるのを僕の手を握って待った。あいつは、耳元に当てていた、いまでいうガラケーを外し、画面を一目見てから、それを閉じた。

 僕と、あの人、あいつの三人で玄関をバックに、写真を撮ろうとあの人が声をかけた。あいつは、「俺はいい」といって、カメラを家から用意し、僕とあの人の写真を撮った。あの人がせっかくだからと、三脚を用意しタイマーをセットした。

 あの人は「あそこを見てればいいのよ」といって、僕の身長に合わせるため、しゃがんで僕の肩に右手を置き、左手でレンズを指さしていた。その瞬間がカメラによって切り抜かれた。 あの人は僕の顔を、僕は緊張した面持ちで、ピシッと気を付けをして正面を見ていた。あいつは、レンズの向こう側を見ているような、焦点の合ってない目で写真に写っていた。


 これが最後の家族写真になった。

 あいつが家から出て行ったのは、卒園式から二日後のことだった。


 原因はあの人から詳しく聞いていないが、今なら分かる。

 卒園式があった次の日の夜、あの人とあいつが言い争っている声が聞こえ、僕は起きてしまった。聞いたことも無い声だった。僕は、掛け布団をどけ、暗闇の中手探りで、上着を探し、スリッパを履いた。階段を手すりにつかまりながら一段ずつ降りていった。一段一段降りていくごとに二人が言い争う声がだんだんと大きく、一音一音がはっきりと聞こえるようになっていた。

「あなたは、騙されている。」

「あの子には、俺が必要なんだ。」

「繁にも、あなたは必要よ」

「繁には君がいるだろう」

 僕はもう、扉越しに立っていた。自分の名前がいわれたことに気付き、少し背伸びをしてドアを開けた。

「ぼくがなに?」

 二人は僕の方を見て、しばらく固まっていた。「え?」と僕が首をかしげると、あいつは「はぁー」と大きくため息を吐き「繁には関係ないことだよ」と、貼り付けたような笑顔で僕に語りかけた。あの人は、あいつを一度きっとにらんだ後で、僕に「もう、寝なさい。お化けが出る時間になっちゃうよ。あ、布団に戻る前にトイレへ行っておきなさい。」と赤く充血した目で、僕の視線の高さまで膝を折り、腰を曲げ、僕の顔を覗き込んだ。そして、僕の小さな肩を、わなわなと震える細い腕でつかみ、微笑みながら優しくささやいた。

「ぼくのことはなしてたんじゃないの?」

「違うわ、ほらもう行きなさい。」

 あの人は、僕の体を持ち上げ、反転させ背中を押した。

「ほんとうに?」

「うん。」

 僕の頭に、冷たいものが落ちた感覚があったが、あの人が柔らかく、温かい手で優しく撫でてくれたので、その感覚を忘れ、トイレに行ってから、布団へと戻った。 あの人が優しく触れてくれた、頭や肩、背中にほのかな温もりを感じながら僕は眠った。

 次の日の朝、あいつは出て行った。もう二度と帰ってくることは無かった。

「お母さんがいるから」

そういってあの人は、朝起きてきた僕の寝癖がついた頭をなでた。



 それから、あの人は少しずつ変わっていった。僕がわがままをいうと怒鳴ることが多くなった。僕が、ゲームをしたり漫画を読んだりしていると無理やりやめさせようとすることもあった。

 あの人は、親の反対を押し切って結婚をした。だから、あいつが出て行ってから一人で僕を育てた。

 そして、この頃から、ある口癖ができた。「あいつらを見返さなければいけない。」そうよく呟くようになった。ほかにも、説教をするときの言葉に「母子家庭だからといって」という枕詞がよく付いていた。

 あの人は、僕に制限をした。友達との交友は月に一回、ゲームや漫画は週に一時間、勉強を第一優先に考える。これらが、主なルールだった。これらを破ると決まってこういわれた。

「お金持ちの家庭はもっと、厳しいことを子にさせている。繁はまだ楽な方よ。」 最初は僕も、あの人のいうことを聞いていた。だが、段々と過剰になっていった。


 五年生頃にあったテストで僕は、初めて七〇点台を取った。少し体調が悪く、最後まで問題が解けなかったのだ。僕があの人にそのテストを渡すと、あの人は、みるみるうちに表情を変え、激昂した。

「何なの、この点数は」

「体調が悪かったんだ。だから最後まで解けなくて。」

 僕は正直に答えた。

「そんなことは、聞いてない。こんな点数をとったらどうなるか分かってるの?」   

 どうなるかと言われても分からない。僕は首を小さく横に振った。

「母子家庭だから、勉強をちゃんとさせていない親なんだと思われるのよ。」

 意味が分からなかった。あの人は、僕に勉強を教えることは無かったが、勉強する時間はたくさん与えていた。そして、僕はそれに応えていた。それなのに、母子家庭ということだけで、そのことを否定されることが理解できなかった。

「それに、あなたさっき体調が悪いっていった?」

「え、そうだよ。本当に悪かったんだ。」

「それは、先生にいったの?」

 僕は、怒りながらもあの人は、僕のことを思ってくれていると感じた。息子は体調が悪かったと担任に抗議してくれ、再テストができるかもしれないと期待した。僕は大きく首を横に振った。

「絶対に言わないで。私が、まともな食事をあなたに与えていないから体調を崩したと思われるから。それに、私しか働いてないから経済的に苦しいと思われてしまう。」

 僕の期待は泡となり消えた。あの人は、僕のことを強くにらんでいた。

 あの人の身に何が起きたのか、どんな心情の変化があったのか、僕は当時知らなかった。

 それから、僕は今まで以上に勉強に励んだ。友達の誘いも全て断り、ゲームや漫画なども自分で捨て、学校の休み時間も、帰宅してからも、自分の全ての時間を勉強に注いだ。もう怒られたくは無かった。優しかったあの人にあんな顔をさせたくなかった。その一心で勉強をした。

 僕は小学校を卒業した。ブレザーにスラックス、そして首元にはネクタイという中学校の制服をきて卒業式に参加した。ネクタイは、インターネットで動画を探し、それを見ながら自分でつけた。

 あの人は、僕の首元に不細工に結ばれた、ネクタイを見て、「やりなおしなさい。」と低い声で一言かけた。僕は黙って頷き、鏡の前に立ち何度もやり直した。動画に近い形になるのに三十分かかった。卒園式とは違い、卒業式では一枚も写真を撮らずに帰った。

 帰りの車の中、あの人は何かをぶつぶつと呟いていた。

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