二十五 致命的な手違い

 巨勢博士は言葉をつづけた。

「土居先生の到着即日から犯罪が行われるということは、当家にただ一人の新参者である同氏にとって最も有利な条件となることを忘れてはなりません。のみならず、土居先生のみは、あやか夫人の憎悪にみちた指定によって、同じ階上に住むことを拒否され、階下の和室に一室を与えられることとなりました。これも亦、メンミツに計画された要件の一つでありましたのです。先ず望月先生を殺すに当りまして、眠り薬を与えた上、刺殺するという方法がとられましたが、王仁先生は腕力ある巨漢ですし、御婦人との交渉も多く、これを防ぐには先ず眠らせることが必要であり、然し眠り薬一方ではあやか夫人に疑いのかかる怖れがある、以上の理由から、眠り薬を与えた上での刺殺という手のこんだ方法がとられたものと思われます。さて、ゲンノショウコに眠り薬を入れる段となって、一つの手違いが起った。この手違いが、結局、致命的な手違いとなり、千草殺し、ひいては内海殺しの必要をもたらし、御両名をはからざる苦境に追いこんだのでありました」

 ピカ一は、もはや我関せず、という様子であった。

「さて、ゲンノショウコが煎じられていたとき、調理場ではオソバを打っていましたので、ツボ平御夫妻をはじめ、見学の宇津木秋子さんなど、それに、千草さんとあやか夫人がおられた時です。あやか夫人のみは一人離れて肉パイをつくっておられ、そこはゲンノショウコの煎じられつつある近所であり、他の一団の人々はその反対の離れた場所におられたのです。そのとき、かねての計画通り、土居画伯が一間ほどの青大将をブラ下げて、食堂の窓の下を通られ、ニワトリをのんだ大蛇を退治た、腹をさいて晩メシのオカズを出してやろうと仰有りながら賑やかに登場致されたのです。計画は図に当り一同は窓から首をだして眺める、蛇ずきのツボ平さんは窓からとび下りて行くという協力ぶりで、あやか夫人が眠り薬を入れるチャンスが構成されたわけでしたが、ここに一人、千草さんというアマノジャクが存在し、土居先生の熱演にフンと鼻もひっかけないお嬢さんが現れたために、この計画は深刻きわまるたんをもたらす結果となった。つまり、ひいては千草殺し、つづいて内海殺しというセッパつまった犯行をつづけざるを得なくなったのであります」

「千草さんが眠り薬投入の現場を見ていた次第ですかな」

 と神山東洋が、あまり興ものらない声で質問した。

「現場を目撃したわけではなかったのです。千草さんは、犯人は珠緒さんだと思っていました。珠緒さんが煎じ薬をフラスコへうつして冷やしたのですから、そう信じていた。ところが、眠り薬はフラスコへ投入されたものではなく、それ以前に、煎じたヤカンに投入されたものだと判り、おまけに珠緒さんが殺されてしまった。そこで千草さんは、ふと気がついた。千草さんは土居画伯の蛇使いにも鼻もひっかけず、もっぱらあやか夫人と向い合った位置にいましたから、煎じ薬に近づいた人が、珠緒さんを除いては、あやか夫人一人であることを見ていたのです。それで私が珠緒さんの絞殺されたことをお知らせ致しました時、テッキリ珠緒さんを犯人と信じていた千草さんはビックリして、どうも変ね、じゃア、いったい、そう叫んで、にわかに考えこんでしまったのです。ここに千草さんが殺されなければならなくなった絶対の必要が生じたのです」

 巨勢博士は至極平然と語りつづけた。

「千草殺しは順を追うて語ることと致しまして、王仁殺しに戻りましょう。その夜の午前一時ごろ、宇津木さんが王仁さんの寝室を訪れたとき、鍵がかかっておりました。その鍵は宇津木さんが偶然王仁さんから預って自分の部屋においた筈のものでした。言うまでもなく、そのとき、土居画伯は王仁さんの寝室におられたのです。恐らくあやか夫人が予定通り盗みだした合鍵を土居画伯の部屋へ置いておくというような方法で入手して、内側から鍵をかけて仕事にかかろうとするところへ宇津木さんが来た。慌てて寝台の下へもぐる。宇津木さんがやってきて、再び戻られた時に、王仁さんの心臓めがけて一撃のもとに刺殺する。短刀の指紋をふき去り、寝台の下を王仁さんの上衣でキレイにふいたのは、ゴミの上に残った足跡で身長などが分る恐れがあったからでありましょう。そしてキレイにふいた上へ、わざと、あやか夫人の部屋靴の鈴の一つを置いてきました。これこそ類い稀れな犯人のこうの手段でありまして、この置き残された鈴一つに、歌川一馬先生を自殺の形で殺す時の用意がこもっていたのです」

 さすが冷静な巨勢博士も、はじめて、いささか顔に感動をあらわした。意味は異るにしても、芸術を味う人の感動に似ていた。

「御承知のごとく、その夜、あやか夫人は一馬先生と一室に寝ておられました。おまけに一馬先生は午前三時ごろまで、机に向っておられた。愛妻はその間ズッと目の前に寝ており、つまり、当夜アリバイのある唯一人はあやか夫人でありました。もとより、このアリバイは夫と妻との関係にある人の証言でありますから、警察当局はこれを疑るかも知れず、その意味に於てこのアリバイは必ずしも成立は致しません。然し、天地にただ一人、一馬先生その人だけは、あやか夫人の歴然たるアリバイを信じて疑うことが有り得ぬのです。しかも一方に、王仁さんの部屋にあやか夫人の鈴がある、しかも、キレイに拭かれた場所におかれてあります。さすれば以前から在ったものではなくて、犯人の作為によって、おかれたものであることはタシカです。何者かが、あやか夫人にケンギをかけようとしている。しかも、あやか夫人は、絶対に犯人ではあり得ない。一馬先生にとってのみは、これを疑うべからざる事実であります。即ち、一馬先生にとっては、あらゆる人が犯人として疑わるべき場合にも、あやか夫人のみは犯人ではあり得ない。この絶対の信頼が、第一回犯行に於て、巧妙に設定せられているのです。即ち、これは最終回の準備のため、つまり、一馬先生を自殺と見せかけて、殺す時の用意のためです。なぜなら、一馬先生は、最後に至って、あらゆる人を疑る時も、あやか夫人を信頼し、恐らく、あやか夫人のすすめる飲み物を疑うことなく飲みほすでありましょう。あやか夫人のすすめる青酸加里を、催眠薬と信じて飲むことも有り得るのです。そして、その予定の如く、一馬先生は毒殺せられたのであります」

「どうして、それを一馬さんに忠告してあげなかったのですか」

 と神山東洋がきいた。巨勢博士は顔をゆがめた。

「私が天下のバカモノだったのです。私は、最愛のあやか夫人を私の忠告によっても多分疑ることのない一馬先生を予想してはいましたが、然し、それ以上に、犯人を買い被っていました。私は犯人が私の帰るまでこの犯行を行うことがないだろうと考えていたのです。然し、あるいは、犯人は、昨夜、八月九日、というハリ紙を見て、私の仕業と信じ、私の帰館を信じたのかも知れません。あのハリ紙は平野警部がはられたものでありました。これはグチではありません。平野警部の手落ちではないのです。すべては私の大失策でありました」

 巨勢博士もしばらく暗然と面をふせた。

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