二十四 犯人現わる?

 昼食のとき、巨勢博士と警官たちは食堂へ現われてこなかった。昼食が終るころアタピン女史がやってきて、一同に足どめを命じた。食器が下げられると、南雲老人夫妻、下枝さん、ツボ平夫妻まで、関係者一同ゾロゾロとはいってきて席へつく。警官、巨勢博士の一行がそれにつづいて、官服私服十数名の人達が壁に沿うてグルリと包囲の態勢をとった。テーブル正面の設けの席についたのは巨勢博士であった。

 巨勢博士はいささか沈痛な諦めたような顔付で、やがて静かに語りだした。

「この犯人は相当に粋好みの茶人だから、私の戻るまで最後の犯行を延ばしてくれやしないかと空頼みしていましたよ。なぜなら、千草殺し、内海殺しのようなセッパつまった緊急を要する殺人と違って、最後の仕上げは、第一回目の王仁殺しの時にすでに準備が完了して、いつでも行える用意ができていたからです。今さら仕方がありません。私は犯人の自信を頼みにしていましたが、八月九日、宿命の日、例のポスターが現われたので、犯人はそれをチャンスに、最後の仕上げをはなばなしく打上げたように思われます」

 神山東洋が口をいれた。

「我々カンヅメ組では先程から流言横行、大いに悩まされていたところですが、一馬さんは、自殺、他殺、ひとつ、ハッキリ、して下さいよ」

「それは申すまでもなく他殺です」

「ハハア。これは奇怪。して、犯人は?」

 巨勢博士はそれに答えなかった。そして、しばらく神山東洋を見つめていたが、

「神山さん。あなたは正確な観察眼で、先日、犯人の推定、可能性の推定をされましたが、あの第四回目、内海殺しの状況に就いて、も一度、くりかえして下さいませんか」

「左様ですか。あの晩、左様、土居画伯があやか夫人の扉の前で喚いていられる、それからの可能性の問題ですか」

「いいえ、その前に、先ず我々が食事を終えて広間にいました。九時何分ごろでしたか、お由良婆さまが諸井看護婦といっしょにこられて、千草さんの行方が知れないと申されましたね。すると諸井看護婦が意外なことを言いだしました。千草さんはアイビキに行ったというのですね。なぜそれを知っているかとならば、千草さんが男からのアイビキの紙片を見せた、その紙片はあやか夫人が男にたのまれて千草さんに渡したもので、その紙片に書かれていた男の名前を読んだ、というのですね。その男は誰ですか、ときくと、それは申し上げられませんという返答でした。そして、それから……」

 巨勢博士はそこまで言って、あとを神山にうながした。

「左様、私のメモはかなり正確に記入してある筈なんだが」

 と、神山はメモをしらべたのちに、

「そのあと、すぐさま、先ず海老塚先生がだしぬけにバカヤローと叫んで引きあげて行きましたが、すると今度は土居画伯とあやか夫人の凄惨なる死闘が開始せられることとなりましたのです」

「その死闘の原因は?」

「それがハッキリしないので私のメモにもないのですが、要するに、たぶん、つまらぬキッカケで」

 巨勢博士はうなずいた。

「それが重大なんですよ。つまり、あなたのメモにも記載のないほど、ハッキリした理由のないつまらない言いがかりから喧嘩が始まってしまったのです。事の起りは、海老塚先生がバカヤローと叫んで立ち去る、すると土居画伯がゲタゲタ笑いだして、まるでこのウチは色キチガイの巣、淫売宿だ、と仰言った。それをきくと、あやか夫人がフンゼンとして、ゴロツキ、あなたこそ東京へお帰り、こう叫ばれたのです。これが格闘の始まりでした。それから……」

 博士は再び神山にうながした。神山はうなずいて、

「まったく、そうでしたな。土居画伯の虫の居どころのせいですか、土居先生、いささか酒乱の兆ありですな。突如としてあやか夫人にとびかかってフリ廻した。あやか夫人の衣服がビリビリにさける始末でしたな。ようやく私たちが割ってはいって、わける。すると又、わけられながら御両名がわめき合う。アッと思うと、土居先生、すでに猛然とあやか夫人を追跡しており、食堂から、庭の暗闇へ、あやか夫人を追って行った。これを又我々が追跡して、松の木の蔭にあやか夫人をちようちやくしている土居画伯をとって押えて、引き分けたですが、これで一段落と思うとさにあらず、三たび猛然、あやか夫人は一目散に、幸い自分の寝室へ逃げこんで鍵をかけることができた。それから近づく者に摑みかかって、土居先生が十二時半すぎるころまで、あやか夫人の寝室の前に喚きつづけておられたわけです。その時間に内海殺しが行われ、喚きつづけた土居先生をはじめ、二階の居住者にはアリバイが成り立つ、なぜなら土居先生の眼をごまかして階下へ下りることができないから、という次第です。然し、土居先生は泥酔しておられて、このテンマツに記憶がないそうですから、何者かが階下へ降りて内海さんを殺すことができたかも知れない。ここが、大いに微妙です」

「確実に犯行の不可能な人は誰でしょう」

「それは、あやか夫人、土居画伯、御両名にきまっていますよ」

 巨勢博士はうなずいた。そして一座を見渡した目は激しい気魄にあふれていた。

「皆さん。この殺人事件は、恐らく十ゕ月以前に計画せられたものでありました。恐らく犯人の一人は変装してこの土地へ旅行し、三輪山へでる間道なども充分に調査の上、極めてメンミツに計画をたてたに相違ありません。現に犯人はこの春ごろ一時ヒゲを生やしたことがあったそうですが、たぶんその期間に、この土地へ旅行し、土地の地理を充分頭に入れたものと思われます。それほどメンミツに計画しながら、余儀ない事情によって、予定を外れた殺人を行わなければならなかった。千草殺し、内海殺しがそれでした。もとより周到な犯人のことですが、予定を外れた緊急の場合も予想して、その時の手筈も立てていたので、千草殺しはなんなく片づいた。と思わざる失策に気づいたのです。そしてどうしても、その夜のうちに、更に内海さんを殺さなければならない必要が起ったのです。元よりかかる事ある時も予定して、急場に処する方法の打合せも立ててあったに相違ありません。そして、予定の如く、かなり巧みにその方法を実行して打合せをとげることができたのですが、机上の案というものは往々にしてどこかに手落ちのあるもので、この時犯人はヌキサシならぬ心理上の足跡を残してしまった。然し、さすがに天才的な犯人のたてたプランのこととて、恐らく日本第一級の心理家が揃いながら、皆様ほどの達人がなおこの足跡に気付いておられぬ。私も亦この足跡に気付くことができたのは、かなり後日のことでありました」

 巨勢博士は口惜しそうに一息ついた。

「恐らくこの心理上の足跡が、この事件に犯人の残した唯一の足跡で、内海殺しは犯人にとっても危急存亡の瀬戸際、勝負の手どころとも申すべき唯一の急所でありました。然らば、犯人の残した唯一の足跡とは何か? これは犯行の順を追うて自然に説明いたすことと致しまして、先ず犯人の名前から申しあげます」

 一座の緊張した動揺も、巨勢博士があんまり事もなげに平然としているので、すぐ、しずまった。巨勢博士は神山に向って、

「先ほどもおききしましたが、内海殺しの最も不可能な方々は?」

「あやか夫人、土居画伯」

 巨勢博士はうなずいて、

「左様、土居画伯は先ず最も不可能です。なぜなら、同一位置に絶えず喚きつづけていたのですから。そして、その位置は皆様の扉を見晴らし、その出入を見晴らす絶好の位置でもありました。もし皆さんのどなたかが扉から顔をだせば土居先生は喚きつつ摑みかかるに相違ない。なぜならば、そうすることによって皆さんを居室に封じ、その間に他の何人かに内海さんを殺させる必要があった。つまり土居先生は自己のアリバイをつくりつつ、同時に更に重大な役割、つまり監視の役割をとっておられたのです。そして、土居先生の巧妙な監視にえんされつつ、あやか夫人は居室を忍びでて階下へ降り、内海さんをメッタ刺しに刺し殺して帰られた。土居先生の監視の掩護がありますから、あやか夫人はきわめて落着いて、短刀を洗って処理し、血にぬれた手足を洗い、悠々と居室へ戻ってこられた。然し、もしものことを怖れて、翌朝、内海さんの寝室へ起しに行かれて、事件を発見された。つまりそのとき、どこかに指紋が残っていても言い訳のたつ、そういう便宜をつくられたわけです。事件の発見に先立って、あやか夫人は洋館の居室以外のどこへでも、血に汚れた衣服を隠すことができたでしょうし、あるいはズロース一枚で内海さんを殺しに行かれたかも知れない、あるいは全然、一糸まとわぬ裸体でおでかけであったかも知れません。一か八かの危急存亡の時であり、お二人の全智と冒険はここに賭けられていたのです」

 ピカ一のせせら笑いが起った。

「名探偵先生。何がヌキサシならぬ心理の足跡なんだ。おい、大先生、かりそめにも八人殺しの犯人という問題なんだぜ。茶番や落語の興行と違うんだ。変な当て推量で済むことじゃアないぜ。ハッキリした証拠をきこうじゃないか」

 巨勢博士は顔色一ツ動かさない。そして静かに、うなずいた。

「ヌキサシならぬ足跡は、いずれ順を追うて説明いたします。先ず、第一回の犯行から、順にしたがってお話いたすことにしますが、恐らく土居先生とあやか夫人は、歌川一馬氏があやか夫人と再会されて激しい恋慕を寄せられるや、歌川家が当代稀れな資産家であることを知り、計画的に離婚して、あやか夫人を一馬先生にめあわせた、つまり殺人計画は、結婚以前に予定せられていたものであります。土居先生はことさら、あやか夫人と喧嘩別れをして、しつように手切金まで、まきあげた。それだけアクドク不和の種をつくることも、この計画の実行に最も必要な道具立ての一つでありましたのです」

「バカバカしい。大先生の手にかかると、仲の悪いことまでが、共犯の証拠になるのかい。ハッキリした証拠を言って貰おうじゃないか」

 巨勢博士は平然と、とりあわない。

「あやか夫人は昨秋一馬と結婚されるや、歌川家の事情について探り得る限り探りあげて報告する、お梶様変死の風聞、加代子さんのお母さんの変死のこと、珠緒さんの身持のこと、すべてが報告され、ここに資料がととのって、土居先生は変装して当地へ旅行してメンミツに地理を調べあげる、かくて手筈はととのったのです。あやか夫人は巧みに珠緒さんをそそのかして、先ず、望月王仁、丹後弓彦、内海明の三先生を招待させる。お三方が招待に応じたので、お梶様を誰が殺したか云々の脅迫状じみたものを一馬先生に送り、三宅先生、矢代先生御夫妻をお客にまねいたのです。このとき、かねての計画通り、招かれざる客、土居先生、神山御夫妻、おまけに私、四人が指名をうけて参集致した次第です。神山さんという憎まれ者が、土居先生という憎まれ者と並んで現れるところに、招かれざる客、という意外なことに自然さが与えられ、又、私という素人探偵が指名をうけたところに、犯罪を加味した意味が与えられて、土居先生という場違い者の登場が不自然でなくなるように仕組まれてあるカラクリがひそんでいました。そのうえ、土居先生もあやか夫人も、私にとっては全然未知なお方であります。恐らく、あやか夫人が歌川家の食卓の雑談などから私の存在を知られたのでしょうが、未知の素人探偵をつくりだしたところに、御両人の巧妙な仕掛があるわけでもあります。かくて予定の全員が参集して、即日第一回目の犯行が計画通り実行されることになりました」

 私の席から、あやか夫人の顔はよく見ることができないのだが、このときチラと見ることのできた夫人の顔は、何かマジメなのある話を一生懸命きいているという顔付で、童女のようにあどけなく、ほかに何の意味もない顔付に思われた。

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