最後の灯台守

師川誠令

第1話

 一族代々、灯台守をしていた。あの灯台の最後の灯台守は、僕だ。あの灯台には、まだ姉さんがいる。姉さんはひとりであそこにいる。僕は、ずっと姉さんを探している。姉さんを見つけて初めて、この一族の灯台守の仕事が本当に終わる。


 令和の七月は暑かった。木漏れ日でも、灼熱の熱気は容赦ない。獣道を通りながら、僕はかつて自分が暮らした灯台に向かう。手に持つ花束が、暑さでしおれかけていた。――かつてのあの日も、このくらいは暑かったのかもしれない。


 明治、大正、昭和、平成すらも経た灯台。姉さんは今もまだ、あの灯台にいる。


  ***


 この真っ白な灯台は、明治の初めのころに建てられた。初代灯台守は、僕のひいじいさんである。元々海岸でのろしを焚く役目をしていたので、その流れで灯台守をすることになった。電気の灯火は、かがり火とは比べ物にならないくらい明るくて、船乗りたちに歓迎された。僕たちは海の標の家のものとして、灯台を管理する役目を負った。


 灯台は、岸壁や海風の強い場所、人の暮らさない場所に建てられる。家族で灯台に住み、灯台のそばで畑を耕し、海風に負けながらも農作物を育てて、時々村に米を買いに行き、水は雨水を沸かしたりするなど、生活は決して豊かだったとはいえない。


 それでも、家族との、そう、姉さんとの思い出がある。


 僕たちはずっと灯台で暮らしてきた。僕と姉さんが生まれたのは、大正時代の終わりごろである。村の医者が、おふくろの大きくなった腹を見るなり「双子がいる」と言った。それを聞いた親父は喜び勇んだ。だから産婆を十月十日の少し前に招いて、難産のすえ、やっとのことで姉さんと僕は生まれた。


 灯台の光が絶えないように、夜は親父が灯台を見ている。朝、母さんが作った朝食を食べ、姉さんと僕は畑仕事をする。塩害に遭いにくいように作物を作るのは大変だった。

 年端も行かないころにやることなすことは失敗ばかりで、じいさんやばあさんによく怒られた。でも、怒られるのは仕方なかった。そうしないと、僕ら家族の食糧が減るからだ。

 小さい時はいろいろな苦労をした。でも僕は難しい作業も楽しかった。姉さんと一緒にやれば、楽しかった。


 姉さんはとてもきれいだった。髪が長いのに、潮風でごわつかない。元々色白で、おっとりとしてもの静かな姉さん。おふくろの作ったおいしいごはんを食べて、笑う顔。目を細めて、少し口角を上げるだけでえくぼができる。笑う時にわずかに首を傾けると、黒髪がさらりと肩にかかる。

 僕はといえば、双子とは思えないほどに姉さんとは違った。髪はくせ毛だし、海風で肌が荒れやすかった。じいさんとばあさんは、僕は母に、姉さんは父に似たとよく言っていた。実際そうだった。ごくたまに友達が僕たちの住む灯台に遊びに来ると、目を丸くして「そっくりだ!」というほどだった。だから、そうだったのだろう。


 天気の良い、海の時化ていない日に、姉さんと僕は学校に行った。天気の良い日、灯台の修理がない日など、姉さんと僕が学校に行ける日は限られている。灯台は嫌いではなかったけれど、家族しかいない。だから学校は姉さんと僕にとって、人がたくさんいて、いろんなことを見聞きできる、新鮮な場所だった。


 僕は素読が好きになって、文字も早くに覚えることができた。親父には、学の覚えが早いと褒められた。「安心して、灯台守の跡を継がせられる」と言って、親父は喜んだ。算盤を教えてくれたのも親父だ。電気のことを学ばないと灯台守の仕事はできなかった。


 姉さんは音楽を好きになった。姉さんの歌声には、海風のような軽さと爽やかさがる。姉さんの歌は、村でたちまち評判になった。僕らの一つ上の学年に医者の息子がいて、わざわざ姉さんと僕の教室まで来て、「歌ってみろよ」と姉さんを囃したことがある。姉さんが歌を聴かせると、医者の息子は態度を一変させて、いたく感心した。後日に縦笛を姉さんに贈ったのはそいつだ。


 姉さんはその縦笛も、うまく吹けるようになった。灯台に笛を持ち帰り、姉さんは時々笛を吹いた。海が時化て灯台の明かりの調子が悪くなった日や、霧が耐えず霧鐘を鳴らさないといけない日は家族全員が忙しかったけれど、天気が良くなると姉さんは笛を吹いた。

 天気のいい日に聞く笛の音は、家族全員の気持ちを穏やかにした。

 僕の自慢の、姉だった。



とうは、これからどうするの」

 十八歳になった夜、姉さんは僕にそう訊いた。昭和十六年、大東亜戦争開戦の速報を、をラジオで聞いた日の夜。姉さんと僕は岸壁で、遠くまで照らす灯台の光を目で追っていた。ラジオを聞いた僕は、高揚していた。日本男児として何かしなければ、と思う気持ちが強かった。


「僕は、軍人になろうと思う」


 僕は揚々としていたのに、姉さんの顔は浮かなかった。姉さんも僕と同じ十八歳、昔に見ていた幼さは既に消え去り、柳眉に切れ長の目、つややかな黒髪に白い肌で、村で一番の美人になっていた。弟が帝国軍人になりたいと言うのに姉さんの顔は晴れなくて、僕はむっとした。


「日本男児として、勤めを果たしに行くだけだ。なんでそんなに、浮かない顔をするんだ」

「灯台で、海軍さんや空軍さんを助けようとは思わないの。東弥は明かりを灯せるわ」

「それは、親父がやってくれるだろ」

「お父さん、もう腰が悪いじゃない。もう灯台の照明を扱える身体じゃないわ」

「それでも、おやじなら応援してくれる。僕が帝国軍人になると言うなら」


 僕はだんだん苛立っていた。帝国の戦だから勝たねばならない。いつもはおとなしい姉さんなのに、めずらしく僕に食い下がってくる。姉さんは、お母さんは、おじいちゃんは、と名を連ねて、なおも僕を引き留めようとした。


 さすがに僕も、怒った。姉さんに黙って踵を返す。


「待って」


 懇願する姉を無視して、僕は灯台の入り口の引き戸に手をかけた。姉さんは叫んだ。


「待って!」

「なんだよ! 僕、軍人になるんだ。褒めて万歳って言ってくれるのが、当たり前だろ!」

「東弥の気持ちはよく分かったから。分かったから! でも!」


 引き戸に手をかけた僕の手の上から、姉さんは僕の手をぐっとつかむ。姉さんが手荒なことをしたことはない。僕は姉さんの顔を見た。姉さんは泣きそうな顔をしていた。


「もし、もし本当に軍人さんになりたいなら。……あと一年、待ってくれないかな」

「一年。……一年待ったら、何があるのさ」

「あと一年したら、晶さんが帰ってくる。私と晶さんとの婚儀があるから。それまで……待っていてくれないかしら。東弥に、私の花嫁姿を見てほしいの」


 晶、というのは、姉に縦笛を贈った医者の息子の名前である。寝耳に水の告白に、僕は言葉を失った。なぜ僕に言わなかったのかを問い詰めると、姉さんは気まずそうに答えた。


「少し前に、家同士で決まったの。私はこの灯台を出て、お嫁に行く。それで……晶さんの家に援助してもらうの。お父さんの治療費も、灯台の修理費も……」


 僕は絶句した。確かにこの灯台は、修理するべき箇所が多かった。家同士で決まったこととはいえ、あまりの動揺で、僕は二の句を継げない。


「晶さん、実はもう、海軍の軍人さんになっているの。あと一年で帰ってくる。だから、もし東弥も本当に軍人さんになりたいなら、あと少しだけ、この灯台を守っていてほしい。晶さんが帰ってきた後なら、お父さんがこの灯台を守れる。晶さんも手伝ってくれるから」


 姉さんが、真正面から僕を見る。


「この海の灯台守が、本当にいなくなってしまうから……」


 姉さんの真剣な表情が崩れて、もはや泣きそうな顔になっていた。僕の怒りも、すっと冷めた。親父の腰が悪いのは本当である。灯台守はすぐに代われる人材がいない。晶が戻ってくれば金銭の援助もしてくれるし、軍人に伝手ができれば、灯台を守れる技師の伝手ができる可能性も高くなる。


「この灯台は、今から本当に戦争が始まるなら、絶対にないといけないから」


 それは僕も承知だった。敵が攻めてくるなら、敵は海からやってくる。灯台の管理をきちんとできる者がいないと、国土を守れなくなってしまう。

 開戦速報に高揚した自分を、少しだけ恥じた。同時に、軍人になって多くの人を救おうという決意は、強くなった。


 一年という時間はあっという間に過ぎた。海軍省と逓信省から、灯火の仕方や時間帯、敵機襲来時の対処などについて、とてつもなく細かい通達があった。航海する船だけでなく、灯台そのものも敵に狙われる危険性があったためである。姉さんの言うとおり、この通達を親父ひとりでやることは無理だっただろう。僕は親父とふたりで灯台守をする傍ら、時間が空いたら走り込みをしたり、この灯台に代々残されている電気の本を読んだりした。軍人になっても、電気や光源を扱う技術はいかせそうだったからだ。


 灯台にも、灯火管制はあった。夜の航海をする船にぎりぎり分かるくらいまで照度や角度を下げて、灯火の管理をしないといけない。親父が先に寝たその日、僕は一人で灯台の明かりを見守りながら、海を見て過ごしていた。


 ふと、親父の言葉を思い出した。まだ自分が尋常小学校に入るか入らないかのころ、親父に素読や算盤、灯火や航路標識の規則を習いながら、常に聞かされていたことだ。


 温かい春の日差しの日。穏やかに凪ぐ海を指して、親父は僕に言った。


「海の上ってのはな、船底一枚下は地獄なんだ。その地獄から現世へのしるべを、俺達は立て続けないといけない。ひとりでも多くの人のしるべになること、それが灯台守の役目なんだ。これだけは絶対に、忘れるなよ」


 このこと自体は覚えていたのに、思い出した親父の言葉は、いやに鮮明だった。なぜか胸騒ぎが強くなる。国の未来に灯台が必ず必要、と確信すればするほどに、胸騒ぎが強くなる。


 僕の家は代々、灯台守をしている。――この灯台を、僕は本当に守れるのだろうか。


 七月になった。姉さんの結婚は三日後である。嫁入り前の準備に忙しく、束の間の息抜きに、灯台灯火の下の踊り場にいた。青空には白雲が浮いていて、海風も静かで気持ちよい。姉さんは手に笛を持っていた。幼い頃、晶にもらった笛である。ふたりで海を見ながら、姉さんは時々笛を吹いた。音色は、変わらず美しい。運指が上手くなった分、曲も滑らかで、聞いていて心地が良かった。


 少し前、僕も晶と久しぶりに会った。晶は確かに立派な海軍軍人になっていて、子どものころに見た細い姿とは想像もつかないほど、体格が良い。話を聞けば、高等学校を出て、志願して軍人になったらしい。姉さんの結婚相手としては申し分なかった。悔しいけれど、それは身内の嫉妬だと自覚している。姉さんだって、金持ちの家で暮らせたほうがいい。灯台にいる限り、世界は海と空と船しかない。こんなにきれいな姉さんなのだから、広い世界を見た方がいいに決まっている。

 今日の姉さんは、セーラーの襟付きの、灰色のワンピースを着ていた。大変にいい布地だった。結納の時に一緒にもらった、と姉さんは言った。いつ着たらいいか分からないから、と言って、今着て楽しんでいた。海風に、服の裾がなびいた。


 この姉さんは、三日後に白無垢を着る。この灯台からは、いなくなってしまう。


「ねえ、東弥」

「なに、姉さん」

「私、東弥と一緒に生まれてきて、よかったと思う」

「どうして」

「東弥と一緒に、この灯台で過ごしてきた。その思い出の、ひとつひとつが楽しかった。畑を世話したり、水を汲んだり、鶏に追いかけられたり」


 僕は苦笑した。鶏は好きだったが、世話に慣れる前は鶏に威嚇されて追いかけられたこともあった。そのような思い出のひとつひとつを、姉さんと一緒に過ごしている。


「そう。それなら、よかった。……僕も、姉さんと過ごしてきて、楽しかったよ」


 水平線を見ていた姉さんが、僕を見る。気恥ずかしくなって、僕は照れ笑いをした。


「晶って聞いた時は、本当に嫌だったけど。あいつ、あんなに立派になってさ。僕ももう、何も言いようがないよ。ああ、そうだ。あいつ、肝心なところで気が弱いんだ。姉さんが好きに尻に敷くといいよ。そっちのほうが、きっと家がうまくいくよ」


 まあ、と姉さんが笑った。……僕はこの笑顔が好きだ。僕の姉さんは、本当にきれいだ。

 姉さんはまた、海を見た。姉さんのまつげが、七月の日差しにきらりと透けた。

「それにね。東弥なら、この灯台をずっと守ってくれる。きっと多くの人を助けてくれる」


 姉さんのつぶやきに、僕は少し引っかかりを覚えた。


「僕、軍人になるんだよ。軍人だよ。何があっても祖国のために働くから……靖国に、行くかもしれないよ」


「それでも。きっと、あなたはここに帰ってくる。きっと多くの人を助けてくれるわ」


 姉さんの言葉は予言めいているように聞こえて、僕は不安になった。


「僕は……姉さんに、ここにいてほしいな。姉さんがいれば、僕はなんだってできそうな気がする。軍人になって、日本を勝たせて、灯台を守って。全部、できる気がするよ」


 これは本音だ。姉さんがいるなら、僕は死線をくぐって、個々に戻ってこようと思う。

 海を見る姉さんの姿は、海に溶けて消えてしまいそうなほどにはかなく見えた。三日後に、結婚式があるというのに。


 僕は不意に、胸騒ぎを覚えた。先日に親父の言葉を思い出した時と同じ胸騒ぎだった。言いようのない不安の正体を探そうとして、空を見上げた。



 胸騒ぎは、二分後に当たった。

 雲の中から鳥のようなものが飛び出してくるやいなや、こちらをめがけて一直線で飛んでくる。鳥とは比べ物にならないほど、速い。


「敵機だ!」


 姉さんも目を見開いて、ばっと空を見上げた。日の丸ではない飛行機が三機、僕らの灯台へ飛んできている。僕は必死で逃げようとして、姉さんの腕をつかんで、灯台の中に飛び込もうとした。偵察だけであってほしい、と駆けながら必死で願った。しかし敵機は、僕らを既に視認していたようだ。僕らが灯台の中へ隠れる前に、容赦のない機銃清掃が僕らを襲った。


 灯台の白い壁に次々と穴が開いていくのは、ただただ恐怖でしかなかった。姉さんと僕にただ当たらないことを祈って、僕は姉さんの腕をつかんで、灯台の戸口へ走る。


 敵機が三機あったのが不幸だった。敵機の襲来の仕方から、灯台の破壊を目的としてやってきたのは明らかだった。その敵が、灯台守を生かしておくはずがない。僕らを後ろから追い立てる敵機のほかに、もう一機が僕らの正面に回り込んだ。


 踊り場の足元が崩れた。先を走った僕は、崩れた足元と一緒に岸壁の下に落ちた。灯台の戸口への足場を失くして、姉さんは一瞬立ちすくんだ。


 その一瞬を、狙われた。



 標的となった姉さんは、至近距離から機銃掃射の弾を受けた。偵察機の機銃は、一秒の間に何発の弾を発射することができるのだろう。胸と腹に弾を受けた姉さんは、毬のように跳ねた。流れ弾でぼろぼろに壊れた手すりを越えて跳ね、海に落ちる。


 岸壁の下に落ちた僕は、岩礁の隙間に生えていた小さな松に引っかかった。だから僕は、波打ち際の岩礁で、姉さんの最期をただ見ているしかできなかった。


 首をひねると痛かったが、そんなことは構っていられなかった。生きてからずっと一緒にこの灯台で暮らしていた姉さんが、海に落ちていくのを確かに見た。


 波が寄せ、海面は所々に泡が立つ。海面にじわりと赤い色が広がった。姉さんが着ていた灰色のセーラー服が真っ赤な血に染まって海上に浮かんだものである。あれは姉さんではない。


 僕はその時、もう歩けなかった。足に弾を受けていたのか、落下の衝撃で骨を折っていたのか。ぴくりとも動かない身体がもどかしかった。必死になって目を血走らせ、僕は海面を見つめる。僕がただただ姉さんを探し続ける間も、敵機の機銃掃射は止まない。


 爆音が耳を貫いて、耳までおかしくなりそうだった。敵機は、僕ら一族が今まで守ってきた灯台に弾を浴びせ続け、灯台の光源を徹底的に破壊し尽くしてから、翻って帰っていった。機銃の音が止んで初めて、僕は灯台にも目を向けることができた。


 真っ白な灯台は無数に被弾し、見るも無残に朽ち果てていた。


 「船底一枚の板の下は地獄」という父の言葉が、こんな時に蘇ってくる。姉さんの姿が、まったく見えない。動けない僕は、ただ泣くしかできなかった。泣きすぎて目玉が取れそうなくらいに、目が痛くなった。声を出しすぎて、喉も潰れた。


 守れなかった、何も。

 軍人を志して、靖国に行ってでもこの国を守りたいと思ったのに、何も。

 日が没しかける頃、僕は気を失った。


 ――あのあと、晶と母が僕を見つけてくれなかったら、僕はおそらく死んでいた。

 灯台襲撃の話は、軍部から、村に滞在していた晶の耳にすぐ入った。すぐ入ったが、村から灯台までは悪路なうえに遠い。母と父は、灯台の一番下で寝泊まりしていて、息をひそめていたので助かった。


 晶は、最も被害の大きい灯台の照明の周辺に血痕を見つけて、姉さんと僕とを必死になって探してくれたそうだ。僕は比較的早く見つかり、すぐさま村に運ばれ手当てを受けた。落ちた場所に松があったおかげで背骨や骨盤に異常はないが、松葉杖の生活は死ぬまで続く。至近距離で受けた弾と落下の時の複雑骨折で、僕の足はもう一生、元には戻らない。


 僕が手当てを受けている間に、晶は花嫁となるはずだった姉さんを、僕の証言を手掛かりにして、探しに探した。村の者も総出で姉さんの捜索にあたったが、どうしても見つけることはできなかった。見つかったのは、海の波に揉まれてまだらの赤に染まった、セーラー服の切れ端だけだった。


 数日の捜索ののち、晶は僕のところへやってきた。僕が怪我で動けないのも構わず、晶は一度だけ、僕の横面を張り倒した。周りに制止された晶の呼吸は荒かった。……僕は、ひっぱたかれても仕方がないと思った。あの時、姉さんを守れなかったのは僕だからだ。


 晶はまだらに赤いぼろきれを手に握りしめ、床に蹲って声を上げて泣いた。



 結局、僕は普通の徴兵も行けない身体になってしまった。その間は、腰の悪い親父が灯台を管理していた。灯台は完膚なきまでに壊されてしまったので、昔ながらのかがり火やのろしで、航海標識を示した。僕も足が動くようになり、松葉杖をつきながら村から灯台に戻って、灯台守をしていた。弾痕を見ると恐怖の記憶がよみがえって、最初は吐いた。それでも僕は、灯台守の家の息子である。腰の悪い親父だけでは手が足りないのは分かっている。


 親父も僕も具合が悪いので、母が看病に奔走してしまうような日は、昼夜問わずどんな航海標識も灯すことができなかった。行き交う船には申し訳ないと思いつつ、そのような日は休養に充てるしかなかった。


 僕は灯台の一番下の窓のあたりで寝泊まりをしていた。灯台の明かりが用意できない日の海は、本当に真っ暗で何も見えない。暗すぎて、沖合では船舶事故や強盗などの事件が頻発するらしい。真っ暗な海を見るたびに、灯台守として申し訳なさでいっぱいになった。


 具合が多少良くなると、また悪路を歩いて村に戻り、足の治療を受ける。その帰り道、僕は昔の同級生に声をかけられた。


「なあ。お前んとこの灯台、毎日明かりがついていて、すごいな」


 彼が何を言っているのか、まるで分からなかった。同級生は構わず、話を続けた。


「のろしやかがり火、あれって色が時々違うが、意味があるのか」

「何の話だ」

「あれ、お前んとこの灯台の明かりじゃないのか? いつもは普通のかがり火だけど、時々赤や紫や、色のついた明かりを使うだろ。あれで漁師のうちの親父、助かったって言っていたぜ。ありがとな」


 同級生から詳しく話を聞く。色付きの明かりが灯る夜、というのは、僕も親父もどちらも体調を崩して、灯台の明かりを用意できない日の話であるらしい。


「霧が出たら、霧信号も出しているだろ。使っているのは霧鐘なんだって? 笛の音が聞こえるって、船乗りたちが言っている」


 何気なく「笛の音」と言われ、僕の背筋はすっと凍る。同時に、胸が苦しいほどに痛くなった。僕は少し雑談をしたあと、同級生と別れて帰路についた。


 姉さんだ。


 僕も親父も動けない日は、姉さんがひとりで、灯台守をしている。そうでなければ、姉さんが海から引き揚げられなかった理由が思い浮かばない。


 その日の夜、僕は夢を見た。灰色のワンピースを着た姉さんが、ぼろぼろの灯台を抱きしめている。周りには狐火のような光が漂っている。「もっと美しい灯台だ言ったのに」と姉さんが呟くと、灯台から銃痕が消えて、元の美しい白さに戻った。


 白い灯台を抱きながら泣く姉さんの夢。目覚めた時には、僕も泣いていた。


 あれから間もなく、日本は負けた。嫁を殺した鬼畜米兵をつぶす、と豪語して出陣していった晶は、太平洋の大艦隊戦で散華していた。


 軍隊へ入れなかった僕は生きながらえて、親父とおふくろが鬼籍に入るのも見届けた。「死ねばあの子に合えるだろうか」と呟くふたりに、会えるよと僕は返したが、おそらく、姉さんにはまだ会えない。姉さんははまだ、ぼろぼろになった灯台を守り続けている。


 真っ暗な海は治安が良くない。戦争が終わるとすぐに、日本全国の灯台の修繕に国家予算が充てられた。その時に、灯台の管理の大変さや不便さから、灯台は基本的に無人とするのが方針になった。僕らが守ってきた灯台は基本的に無人となる灯台で、コンピュータだのなんだのの機械が入れこまれた。僕はその勉強をしてもよかったのだけれど、その気にはなれなかった。――姉さんを見つけるまでは、まだあの灯台には、人がいるも同然の状態だからだ。


   ***


 だから今、僕は献花の花束を持って、この道を上がっている。灯台は既に無人運行がなされていて、誰もいないのに規則正しく明かりがともる。時々メンテナンスの人間が来るくらいのものだ。


 僕は村に降りて、村の電気屋をしながら、二十年、三十年と、灯台に毎年通い続けた。


 今日は足の調子が良くて、自分が転げ落ちた松の木のところまで行ってみることにした。松の木も、七十年年経てばさすがに大きくなっている。その松の根元に、妙なものがあった。不思議に思って拾い上げ、まじまじと見る。見覚えがある。はっと僕は気づいた。


 筒の形をした、細長い木片。

 これは姉さんが晶にもらった縦笛のかけらだ。


 戦慄した。

 まさかここで、拾うことになるとは。


 終戦から、七十年は経ってしまっている。朽ち果てている笛の表面の汚れを、僕は丁寧に袖で拭った。笛の端に口をつけ、息を吹き込む。音は鳴らない。ただ姉さんが笛を吹く横顔を思い出せるだけに過ぎなかった。


 僕は気が済むまで笛に息を吹き込むと、また丁寧に拭いた。


 持ってきた献花は、七月の暑さでしなびかけている。その花束の中に、この笛を入れた。

 振りかぶって、海の遠くまで投げる。花と笛はぱしゃりと音を立てて海面に浮かび、やがてゆっくりと沈んでいった。


 姉さんの笛も、元々は晶が姉さんに贈ったものだ。海の底にいる姉さんは、笛の音で、晶を見つけるのだろうか。ふたりは幸せに暮らせるのだろうか。


 日が沈みかけている。無人の灯台の明かりは、遠くの漁船や客船に届いている。漁船や客船も、赤と緑の明かりをつけて、安心した航海を送っている。もうこの辺で、変わった色の光を見ることはないだろう。――もう、灯台守のいらない時代になったのだ。


「……姉さん」


 姉さんが憂いていた、真っ暗な海は、もうここにはない。


「今までありがとう、姉さん」


 呟く僕の声は、しわがれている。あの時から七十年以上が経ってしまった。姉さんには長いこと、灯台守の役目をさせてしまった。その役目に引導を渡して、僕も一族としての役割を終える。


 来年、僕はもうここには来ないだろう。姉さんを助けることができたのだから。


 潮騒に交じって、かすかに笛の音が聞こえた気がした。

 灯台守として最後の役目を終えた僕が、笛の音に振り返ることはなかった。〈了〉

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最後の灯台守 師川誠令 @morokawa_masa

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