瞹い

野原想

瞹い

窓の外、空が青く雲の流れが早い。


窓枠に溜まった埃が宙に浮く事も無く、ゆったりとしたピアノの音だけがこの特別棟三階の廊下に響いていた。同じ音色が繰り返し、何度も何度も巻き戻されるように流れた。そんな綺麗すぎる音に混ざるように「はぁ、」という小さなため息が落ちた。片手に銀色の鍵を持った彼女は色の薄くなっている『特別教室』と書かれた扉の入り口にピントを合わせて歩いた。背筋の伸びたその歩き方に、足を動かす度スカートの裾が大きく揺れる。大きなガラスの向こうから差し込んでくる光を、ハーフアップに結ばれた茶色の髪の毛が透かしていた。彼女には、この長い廊下を歩いている間ずっと流れていたメロディーが、少しずつ荒っぽくなってきているように感じられた。その思いに少々顔を歪ませながらピアノの音が一番大きくなったその扉の前でピタリと立ち止まる。彼女の顔と同じくらいに高さに作られている枠にはすりガラスが嵌め込まれていた。そのすりガラスの奥を見透かすようにするその目は、髪と同じ綺麗な茶色。熱の籠った手の中にあった鍵の向きを確認して差し込んだ。鍵穴に差し込まれた銀色のそれがグリンと時計回りに動かされガギッと鈍い音が鳴る。

「…はぁ、」

鍵を見下ろして吐いたため息は生ぬるい空気に重苦しく沈んだ。抜きづらい鍵をゆっくり引き、また手の中に収めた。木製の扉、粗く削られただけの窪みに指先を掛け、ガラガラと音を立てながら扉を開ける。光に照らされ、キラキラと輝いて見える埃の奥に彼女に気づく様子もないままピアノを弾き続ける男子生徒の姿があった。茶色の髪を揺らしながら、呆れたように自分が開けた扉に片手を付く。数秒、躊躇った様子を見せてから口を開いた。

「先輩、いいと思ってるんですか」

その言葉の途中で廊下まで響いていたピアノの音が止んだ。パッと顔を上げた男子生徒の表情は驚くでも焦るでもなく、どことなく面倒臭そうといったものだった。

「ピアノ勝手に。それに鍵、閉まってたんですけど。どうやって入ってるんですか。」

彼女の指から下げられれている新品の鍵がチャカ、と音を立てながら揺れていた。

「なんだ楓か、脅かすなよ」

「驚かして無いですし、仕事なので」

怠そうにしている彼を睨むようにゆっくり瞬きをする楓。

「仕事?先輩の邪魔するお仕事か?」

前髪が少し掛かっている楓の目に見られた彼は目線を足元に落とした。とん、と太ももに手を突いて気怠げに立ち上がる。

「風紀委員ですよ。ピアノを無断使用している生徒がいるとかなんとかで」

楓の言葉を聞いても彼の表情が変わることは無い。ピアノの影、大きな手で右ポケットの中身を確かめるように触る。

「楽そうだから入ったのにほぼ雑用係ですよ」

ため息混じりにそう言いながらくるりと振り返って教室の扉を閉める彼女の目はふわりと細められ、怠そうに口を開く彼に向けられる。

「そりゃ大変、でもこれは流石に教師の仕事なんじゃないのかよ」

そんなことを言う彼の手はピアノの表面を撫でるように艶のある黒に添えられていた。

「特別棟管理の林先生は出張中で、他の先生達も『井原はちょっとな…』って渋ってた」

「ひでーな」

楓は半笑いの彼の手のすぐ側に鍵を置いた。

サイズの大きな上靴は一歩二歩と後ろに下がって、ベランダへ出られるその窓に頭をコツンと付けた。

「『ピアノ以外興味無くて怒り甲斐が〜』とか

『どうせ教師の話なんか聞くような奴じゃないだろうし〜』とか、色々言われてたよ」

話をしながら彼の隣のガラスに吸い込まれるように背を預けた。そんな彼女の動きを目で追っていた彼は自分の横に落ち着いた楓を見て肩の力抜いた。

「プラス『井原と知り合いだったよな?』とか言われて、とんだ迷惑」

「良かったな、有名人と知り合いで。…あとお前、そんなの付けてたか?足首」

優汰は楓の左足首で揺れたアンクレットを指さす。それを聞いた楓は優汰の顔を見て少し大袈裟ににこりと笑った。


数秒の沈黙。チッチッチ、と腕時計の音だけが響く。彼の腕で少しずつ進む時計の針は丁度三時半を指していた。

「そういえば、おめでとう」

「なーんのこと?」

横目で楓を見下ろして意地悪そうな表情を浮かべた。黒い髪の毛と、ボタンの留められていない襟元が隙間風に煽られる。

「先週のコンクールに決まってるでしょ。分かってるくせに、ほんと性格悪いよね」

ちらりと彼の目を見て一度瞬きをしてから逸らす楓。

「ま、おかげで春兄は」

再び視線を上げて彼の顔を見る。

「二位、だったけど」

嫌味な言葉とは裏腹に、にこりと笑顔を浮かべている。

「性格、悪いのはどっちだよ」

「ああそれはそうと、一つ聞いていい?」

ふらりと前屈みになり背中を壁から離した。

「兄さんのこと、どう思ってる?」

一度落とした目線を、平然とした表情の彼に戻す。

「どっちの兄さんだ」

「春(はると)の方」

含みを感じさせる笑顔で笑う彼女からは、うっすらと柔らかい柑橘の匂いがする。

「春?なんでそんなこと聞くんだよ」

変わらない表情に変わらない声色。

「んー、純粋な質問」

自分の足元、しっかりと履いていた上履きを脱ぎ、踵を潰して履く。ストンとしゃがみ込んで校則通りの長さに合わせていた白の靴下も、手でクルクルと下げながら言う。

「春兄に憧れてピアノを始めた優汰くんが春兄に勝った今、春って友達を、」

立ち上がった視界の中でスカートが揺れる。

「どう思うのかなって」

窓の外をカラスが泳ぎ、一瞬の影になる。

彼女の目に掛かった前髪を温かい光が照らすようで、それは重く苦い毒のようだった。

「嫌な質問だな」

少し笑いながらそう言った優汰。三時半過ぎ、校庭からは運動部の声が聞こえてくる。

「まだそうでもないよ」

楓はゆっくり瞼を閉じながら空気を吸い込んで言った。

「早く、答えて?」

「…意味わかんねぇ」

楓から目を逸らしてぼんやりと廊下の方を見る優汰はまたスッと右ポケットに手を被せた。

「でもまぁ昔からずっと、すげぇ奴、だと思ってるけど?」

ちらりと優汰の視界に入った楓の目元は笑っているように見えた。

「そ、っか」

そう言った彼女は自分の唇をペロリと舐めた。

「じゃあさ、さっきの続き、弾いてよ」

「は?」

「つーづーき、弾いて?」

口の動きを強調しているような喋り方は、きっととても可愛らしくて、この空間の何かを壊していくみたいだった。めんどくさそうな表情を浮かべる優汰の肩に手を掛け、ぐいっと力を入れて自分の方へと引き寄せる。驚く優汰の耳元に顔を寄せて小さな声で言う。

「誰のこと考えててもいいからさ」

その言葉に、優汰の表情が硬くなる。自分より大きなその肩からパッと手を離して優汰を見上げるように微笑んだ。楓はぼやりと自分を見つめる優汰の背をぐいぐいと押してピアノの方へと誘導し始める。

「は、お前、」

一度強引に振り返ると優汰の肩から顔を覗かせてにこりと笑う楓と目が合った。

「ほんとに…」

大きく息を吐くようにそう言った優汰は肩を落としながらピアノに手を添わせた。

「はぁ…。てか、このピアノ古いしあんまり良い音出ないぞ」

楓は硬い椅子に優汰を座らせながら言う。

「いやーなんたって、あの春兄を負かした優汰くんが弾くんだから」

優汰の後ろから肩に乗せた腕をすぅっと前に滑らせる。優汰の髪に頬を撫でられて小さく笑うと一度視線を右下に落とす。

「うーわ、気持ち悪いやつ…」

「わーい、独り占めなんて贅沢―」

優汰から体を離して二、三歩後ろへ下がった。

「…言ってろ」


すぅ、と肩で呼吸をした優汰は鍵盤に優しく指をおろして慣れた手付きで記憶をなぞるように弾き始める。その様子をチラリと見た楓は、また机と椅子が積み重ねてある教室後方へと歩いた。顔の横で揺れる髪を指で持ち上げて耳に掛ける。机の上に逆さの向きで置かれている椅子の足を掴んでくるりと回し、音を立てないように床に置いた。優汰が鍵盤の上で指を滑らせる姿を見て満足そうに口角を上げ、椅子をどかした机の上にひょいっと座った。足をゆらゆらと動かし、その度白い足で浮かぶスカートの影が揺らぐ。


記憶をなぞるように響き始めた音が少しずつ一音一音印象的になっていく。聞き惚れるように目を細めてみたり、吸い込まれるように手を頬に当ててみたりしていた楓も流れてくる音の変化に、真っ直ぐ優汰の横顔を見つめた。そして演奏が終わる頃に一度、耳にかけていた髪が一束、はらりと落ちた。


優汰が鍵盤から手を離したのを見て、楓もするりと机から降りる。後ろで絡められた指先では手入れされた爪が左右の手を引っ掻いた。

「いやー流石」

少し大袈裟な動きを見せながら優汰の側に寄っていく。上靴を潰して履いている華奢な足首ではビーズで作られたアンクレットがきらりと光った。

「ところで今〜」

甘ったるい語尾に可愛い表情の彼女は優汰の目の前まで来てこてんと首を倒して聞いた。

「誰のこと考えながら弾いてたの?」

楓を見上げた優汰の目には、にこやかに笑う可愛らしい女子高生、最上楓の姿が映る。

「じゃあさ、当ててあげよっか」

胸の前で手をパチンと叩くと円を描くようにそのまま人差し指をクルクルと回し始めた。

「春兄」

クルクルと回していた指を自分の唇に重ねる。

「…じゃなくて朝日兄さんでしょ」

意地悪な笑顔はきっと本来すごく可愛いものなはずなのに、この空間に限ってはそんな魔法も、嘘の煙のようにしか思えない。

「優汰くんはさ、春兄に勝ちたいフリ?してたけど本当は春兄に勝ちたかった訳じゃないでしょ」

「…は、」

優汰の引き攣った笑顔を見た楓はにんまりと口元を綻ばせた。

「うんうん、朝日兄さんに春兄より上手くなった自分を見て欲しかったんだよね」

優汰のことを全て理解しているかのような口ぶり。

「春とはいいライバル、みたいな顔しておいて実は」

自分の言葉に左右されるこれからを楽しんでいるかのように、操っているかのように大きく間を作りながら話す楓。

「朝日兄さんに見てもらうための踏み台、」

楓の眼球の中を、滑るように光が動いた。

「くらいにしか思ってないんじゃないの?ずーっと前からさ」

ゆらゆらと動かしていた体をピアノに添わせるようにして寄りかかった。

「でも、優汰くんは目標達成したんだし、もう二人がピアノで競うこともないでしょ?だから春兄に言ってあげてもいいんじゃない?本当のこと」

『本当のこと』というそれが何を意味するのか、互いの中にある真実を探りながら優汰は恐る恐る口を開く。

「可哀想だろ、それは…」

その言葉を聞いた楓はふわりとピアノから離れて優汰の前でストンとしゃがんだ。俯く優汰の顔を覗き込んで少し困ったような笑顔を浮かべながら聞いた。

「優汰くんが?」

数秒間黙り込んだ優汰は諦めたように言葉を吐いた。

「…ああ、」

すると楓はつまらなそうに立ち上がって、ぐぅーっと伸びをした。

「なぁーんだ、気づいてたの。あの日春兄がわざと音外したって。ま、気づくか〜。ずっと追いかけてたライバル、だもんね〜」

「は、」

「私が来る前に繰り返し弾いてたのも春兄がミスしたとこだったもんね」

顔の横で指をクルクルと回す仕草をしながらパッと立ち上がる楓。

「あ、そうそう、ちなみになんだけどね?」

楓の動きと言葉に釣られるみたく、少し俯いていた優汰の視線が上へ向く。

「春兄、ピアノやめるんだって」

「は!?なんでだよ!」

声を荒げて表情を乱す優汰。

「そんなこと私に聞かれても知らないよ〜」

楓は不機嫌そうにだらりと壁に寄りかかる。

「この前のコンクールで最後にするつもりだって前から言ってたし〜優汰くんも知ってると思ってたんだけど、知らなかったんだ?」

優汰を嘲笑うかのようなその視線と声色に充てられた優汰の額を汗が伝う。

「だから、優汰くんの為に勝ちを譲ったあの瞬間が春兄の最後のピアノだったって訳〜。ま、私はそんなことどうでもいいけど」

首を擽る髪を鬱陶しそうに持ち上げてバサッと風に流す。その仕草をチラリと視界に入れた優汰の目には、彼女の耳たぶで光るピアスが映った。

「お前、そのピアス…」

「え?ああ、これ?何、風紀委員が校則破っていいのかって説教?」

斜め下を見るようにしながら片方のピアスをカリッと引っ掻く楓は、大袈裟なため息を吐きながら言った。

「ちげぇよ、朝日兄さんのだろ、それ」

少し掠れたその声を無視して肩の力が抜けたように話始める。

「あ、なんだそっち〜?いいでしょ、この前家で見つけたの〜!朝日兄さんもう付けないみたいだったしもらっちゃおうと思って!」

何かを言いたげな表情の優汰は一度ごくりと唾を飲み込んで「そっか、」とだけこぼした。

「それにしても、可哀想だね、優汰くん」

先程兄のピアスの話をしていた時とは違う、冷たくて苦い楓の声。

「踏み台だと思ってた春兄にもバレてたなんてさ。そんでもってその春兄がピアノをやめるって事よりも朝日兄さんが付けてたピアスの方が気になっちゃうんだもんね」

ガタリと音を立てて立ち上がる優汰。額から頬を汗が伝い落ちていく。

「でもさぁ、わざとミスして『良かったな』なんて言ってくれちゃう春兄も悪趣味だよね」

なんて言いながら、立ち尽くすだけの優汰に近づき襟を掴んでぐいっと引き寄せた。

「ね?そうだと思わない?」

ドロドロに溶かされた毒、そう感じられる声に思わず頷いてしまう優汰。

「それで?」

ごつんとおでこを合わせて問いかける。

「その朝日兄さんから連絡は来たの?兄さん当日は仕事で見に来れなかったもんね。優汰くん的に都合、良くなっちゃったんだ」

楓の発する全ての音が耳を通して優汰の脳に響く。

「連絡、来たの?」

「…来た」

パッと顔を離して明るい表情の楓。力の抜けた様子の優汰はゆらりと先ほど座っていた椅子に腰を落とした。

「良かったじゃん!兄さんなんだって?」

「…昔の約束、守るからって」

楓はニヤリと笑いながら自分の白い手を優汰の前髪の下にするりと滑り込ませる。

「約束?何それ、私知らな〜い」

髪の毛を避けて優汰の額をゆっくり撫でる。

「はは、おでこあっつい。もしかして、優汰くんはその約束ってのがあるから朝日兄さんに執着してたの?」

「ピアノ始めてすぐの頃、頼んだんだ…」

楓は額に当てていた手で、その頬を伝う汗を拭いながら柔らかい表情で優汰を眺めた。



小さな指先、慣れない手付きで鍵盤を鳴らす少年。すぐ側には『井原優汰』と書かれた名札付きの手提げと青いランドセルが置いてある。窓際では学ラン姿の男子高校生が優しい表情でその様子を眺めている。チラっとそちらを向くと彼が柔らかく手を振って微笑んでくれる。揺れた髪の毛から少し覗いたピアスの光から一瞬目が離せなくなる。その輝きに、笑顔に、惹かれるように椅子から降りて彼の方に駆け寄っていく優汰。彼の服の裾を掴んでピアノの横にずらりと並べられたトロフィーを眺める。

『優汰?どうしたの?』

自分の学ランの裾を掴む手を解いてそのままその手を繋ぎ、優汰と同じ目線へと腰を落とす。

『お願い、が、あるんだけど…』

今度はもう片方の手で自分の服の裾をギュゥっと握り締めながら。

『ん、なに?』

優汰には、優しく笑うこの『兄』が、大好きに思えてしまって、仕方がなかった。


『朝日兄さんは俺なんかより全然すごいんだ。いつか一緒に弾くのが夢なんだ!』


少し前に春に言われたその言葉が、優汰の頭をグルグルと回って、興味と欲を掻き立てた。自分にピアノの面白さを教えてくれた春が憧れる人物がどんなピアノを弾くのかを、知りたい。あわよくば自分が一緒に、そこに並んで。

『僕が春より上手くなったら、一緒にピアノ弾いて欲しいんだ』


楓は指先で優汰の耳たぶを摘んでからじっと目を合わせた。じわりと温度が混ざる。

「そしたら、『いいよ、約束ね』って…」

鈍く滲む優汰の視界の中で思い出すように口を開く楓。

「ああ、朝日兄さんあの時、ピアノの先生?とやらが死んでピアノに触ってすらいなかったもんね」

あの日のように、自分の服の裾を掴む優汰の手にグッと力が入る。

「しばらく弾いてないって事しか知らなかったんだ…」

「それで今、嘘の一位でその約束が果たされようとしてるのかー」

ふわりと腕を優汰の首に回すと、また少し彼の言葉を待っているかのように笑った。

「俺も、最初は春みたいに弾けるようになりたかったし、そんな春が憧れる朝日兄さんと一緒に弾けるなら、って思っただけで…」

あは、と少し笑った後で呆れたように言う。

「そんな、今更弁解みたいなことしなくていよ?全部分かってるし」

「全部…?」

少し足を開いて座っている優汰の上に横向きになって腰を下ろす。首に腕を回したまま、顔を寄せて話す。

「優汰くん、お兄さんがいるでしょ?」

「っ!」

驚いた顔で小さく息を吸い込んだ優汰。

「言われなくても、昔から見てたから分かるよ。ランドセルも手提げも他の物も全部お下がりだったし。六つ以上歳の離れたお兄さんが居て、しかも仲が良くない。どう、当たりでしょ?」

「なんで…」

「だーかーら、昔から見てたもん。毎日春兄と一緒にうちに帰ってきてたのも、楽しそうにピアノ弾いたのも。春兄と朝日兄さんが話してるのを羨ましそーに見てたのも」

優汰の輪郭をなぞった汗がぽたりと楓の腕に落ちる。

「あっはは」

優汰の耳元、息のかかる距離まで寄って擽るように言う。

「今めっちゃ体温上がったね?」

グッと肩に力の入った優汰。それを揶揄うみたいに耳元で続けた。

「だから結局朝日兄さんが欲しかったんでしょ?でもすごいと思うよ、朝日兄さんが欲しくて高三までピアノ続けた訳だし」

優汰にぴたりとくっつけていた体揺らすとバランスが崩れて重心がぐらりと後ろへとズレた。するっと解いた手を宙に放って。

「うおっ、」

優汰が伸ばした腕の中にすぽっと収まる楓の体は優汰が思っていたよりも華奢で小さかった。

「ナイスキャ〜ッチ!」

こうなる事が分かっていたと笑う楓はぐいっと自力で起き上がり、ケラケラと笑った。

「あ〜、でもねでもね、私、ずっと優汰くんは朝日兄さんのことが好きなんだと思ってた」

「は、なんで…」

言葉の後でごくりと唾を飲み込んだ優汰。

「あれ、本当にそんな感じ?うっそ〜、ちょっとカマかけただけだったのに〜」

楓の肩を掴もうと勢いよく出した手を、直前で止めてだらりと下ろした。

「説明しろって感じだね〜?私別に愛とか恋とか、そんな話だって言ってなくない?普通に人として、友達のお兄ちゃんとして朝日兄さんのことが好きなだけならそんなに動揺しないと思うんだけどな〜?」

優汰の上に座ったまま楽しそうにペラペラと喋る楓。

「まぁ優汰くんが誰を好きになろうと、どんな趣味だろうと、私には関係ないけどね」

「よいしょっ」と声を出しながら立ち上がった楓はハーフアップの髪の毛を解いてポニーテールに結び直す。

「あっつ…」

その仕草の中でまたあのピアスがキラリと光を透かす。


『朝日兄さん、いつものピアスは?』

中学三年。いつものように下校の流れで春の家に帰り、廊下ですれ違った朝日に違和感を感じた。

『あ、え、これは…』

見たことのない表情。耳を隠しながら言葉に詰まった朝日を見た優汰はこの人はもう自分の知っている朝日兄さんではないのだと思った。

『あ、そうだ。優汰、これあげるよ。』

何かを誤魔化すように朝日が制服のポケットから出したのはだいぶ古くなっていくように見えた鍵だった。

『何これ、』

『それ、高校の特別教室の鍵。昔使ってたの、そのまま持ってきちゃってな。先生からは別に良いって言われたんだけど、優汰来年から通うだろ?自由にピアノ使える教室ここだけだから、春と一緒に使いな』

焦ったように話し始めた朝日の声色も徐々に落ち着き、話し終わる頃には見慣れた笑顔で優汰に微笑んだ。


髪を結び終えた楓がピアスを指差して言う。

「これ、このピアス。モヤモヤしてると思うから教えてあげるけど、朝日兄さんが恋人にもらったやつだよ。ピアスなんか開けるタイプじゃないのに、馬鹿だよね〜。まぁ、結局別れたからもうピアス自体してないけど」

表情を歪ませながら笑う楓はちらりと優汰の腕時計に視線を落とした。

「…もういいだろ、勘弁しろ」

「いいよ、ごめんね?いじめて」

優汰の頭を優しく撫でる楓。

「でもね、一番ひどいのは春兄なんだよ?」

「春…?」

楓を見上げる優汰の目には微かな涙が浮かんでいた。

「そ、私が二人のコンクール前に言ったの。コンクールが終わったら優汰くんに告白するって」

「…は?」

つぅー、と流れる涙の存在など、忘れているようだった。

「顔こわっ!そんな目で見ないでよ〜。だからね?優汰くんが優勝すればしばらく会ってなかった優汰くんの好きな人と会うことになるから、私が告白しても付き合うことはないと思ったんだろうね〜タチ悪すぎ〜」

窓から差し込む光が楓の髪に刺さるように光った。

「あれ?でも、朝日兄さんと優汰くんが約束をした時は春兄いなかったはずじゃない?それに優汰くんが朝日兄さんのこと好きだって知らないとおかしいもんね?」

「お前…」

楓は情報の整理がつかないままの優汰を哀れむように頬を撫でた。

「優汰くん、可哀想に。じゃあ春兄全部知ってたってことか〜性格悪すぎ。ていうかシスコンだとは思ってたけどここまでとはね〜」

座ったままの優汰を抱きしめる楓。髪を撫でて、頬を掠めて、首に触れて、鎖骨をなぞった。

「あ、それとも春兄も優汰くんのことが好きなのかな?朝日兄さんに振られた優汰くんを慰めてついでに自分のものにしちゃおうって作戦〜?だとしてもずるくなぁ〜い?」

頬を膨らませて大袈裟に拗ねた表情を演じる。

「ま、本当のとこはわっかんないからさ、また今度三人で話そ?」

「楓…」

「あ、朝日兄さんもいた方がいい?それと、私今ここで告白したりしないよ?ちゃんと優汰くんの朝日兄さんへの気持ちが吹っ切れてから、ね?春兄にも悪いしさっ」

温度の上がった皮膚の上を、生ぬるい汗が伝っていく。血や肉に一番近いところで感じる気持ち悪さはどれほど不快なものか。

「…もう戻れよ、仕事は終わっただろ」

「あ!それそれ!私が好きな優汰くんは強がりで変に余裕があるその感じ!だからほら、もっと笑って?これくれた時も、なんかちょっと大人ぶってて、可愛かったよ」

楓は足首のアンクレットを指した後で、戸惑っている優汰の口角に両手の人差し指を当ててぐいっと持ち上げた。

「じゃあ、私もう行くね?あ、ちゃんと鍵閉めてきてよね、朝日兄さんからもらって独り占めしてるその鍵で!開きっぱなしだと私が怒られるんだから〜!」

優汰の声をかき消すように重なるやけに高くて気の抜けた声に優汰は焦りながら右ポケットに手を被せて中身を確認した。それを見た楓は「朝日兄さんのどこがいいの?あんなの本当にただのお人好しじゃん」と小さな声で呟く。ピアノの上に置いていた新しい鍵を手に取り入り口の扉へ歩いて行った。ガラガラと扉を開けて一歩、廊下へ出た後で振り向いた楓。

「あ、最後に一つだけ聞いていい?」

結び直した高い位置のポニーテールが可愛く揺れる。

「兄さんのこと、すげぇ奴な春兄のこと、」

優汰は、楓の言葉を聞きながら強がるように、諦めたように、笑った。

「どう思ってます?先輩」


窓の外、空が青く雲の流れが早い。

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瞹い 野原想 @soragatogitai

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