亜衣さんの好機

「亜衣さん、少しいいですか?」

「何ですか?」


 休みが明け、再び地獄の仕事の時間がやってきた。シズさんが事故に関する賠償請求をしないと言ってくれたおかげか、幾分気が楽になった。


 そんな月曜の昼休憩。弁当に手を付けようとした亜衣さんに相談を持ち掛けた。


「……人を紹介してほしい?」

「そうです。いい人いないですかね?」

「……いません!!」


 しかし亜衣さんは唐突に怒ってしまい、口をへの文字にまげてしまった。そんなに怒らせるようなことを言ってしまっただろうか?


「……というか、どうしたんですか? 急に……。先輩には、私がいるじゃないですか」

「え……?」

「あ、いや……。せ、先輩ならきっと私が紹介しなくてもいい人にであると思えますけどね!」


 亜衣さんは口をとがらせながら言った。


 しかし、なぜ俺の話になったんだ? シズさんの件だって説明したはずなんだが……。


「あの、シズさんの話ですよ? いい男性がいないかって……」

「あ、そうだったんですね⁉ だったら最初に行ってくださいよも~……」

「いや、ちゃんと説明したはずなんですけど……」

「ごめんなさい先輩。シズって言葉が聞こえたあたりからしばらく音が聞こえなくなってて……」

「ずいぶん都合の悪い……」


 それにしても一気に明るくなったな……。亜衣さんも亜衣さんで、案外シズさんのこと心配してくれてたとかなのかな? まぁ、女性同士だしな、女性にしかわからない怖さもあるんだろう。


「いい人いますよ! めちゃくちゃいます!」

「ぉお!! さすが亜衣さん! やっぱり人脈は広いと思いました!」

「待っててくださいね? 明日までに資料まとめておきますから!」


 うきうきと半ばはしゃいでいるような感じの亜衣さんは、今日の仕事はかなり絶好調なご様子で、それはもう有頂天といった感じだった。


 けど、やっぱり亜衣さんは元気なほうがいい。職場にも活気とゆとりができるし……。


 そんなこんなで、今日という一日が終わった。先に待ち受けるはずだった心配事もなくなって、かなり心に余裕ができた。


「どうした、今日のお前はえらく元気そうじゃないか」

 

 晩御飯を作っている最中にシズさんにそんなことを言われてしまうほど、俺は体が身軽になっていた。


「あ、亜衣さんがいい人紹介してくれるって!」

「む……、そうか。……もしかしてだが、それでそんなに元気だったのか?」

「あいや、違いますよ」


 本音を言うと、離れたくない気持ちもあるから、それで元気なんてことは絶対にない。


 しかし、俺のテンションとは裏腹に、シズさんはどこか落ち着かない様子で、うつむきがちなように見えた。


「……どうしたんですか? シズさん」


 もしかしたらデリケートな問題かもしれないので、触れないのがいいかとも思ったが、心配が勝って、思い切って聞いてみることにした。


「わ、私は、その……」

「何ですか?」

 

 話しにくそうだったので、できるだけ柔らかな笑みを浮かべて再び聞いてみると、もじもじとしながらも応えてくれた。


「異性から好かれるような、魅力があるのだろうか?」


 自分の髪をなでながらシズさんは言った。


「そんなの、あるに決まってるじゃないですか!」

「そ、そうなのか?」

「ルックスもいいですけど、姿勢とか所作もきれいだし、基本的に礼儀正しいし。何より、一緒にいて楽しいです!」

「そ、そうか?」


 照れ隠しでそう聞いたのか、口元がだいぶ緩んでいる。くねくねと蛇が這ったような口元だ……。


「お、お前ならもし、私と付き合うとなっても、いいと思えるか?」

「そ、れは……」


 ついつい言い淀んでしまう。答えは当然はいなのだが、何だろう、俺がそう答えてはいけない気がする……。


「どうしたんだ?」


 しかし、悩んでいるとシズさんの表情が不安なものに変わってしまう。それに、すぐにデートが始まるかもしれない。シズさんが自信を無くしてしまうと、デートにも支障をきたしかねないし……。


「もちろんです!」


 俺はそう答えた。


「…………」


 途端に顔を赤らめてしまうシズさん。


 やめて! こうなりそうだから言わないでおこうと思ったのに!


「は、初めて言われたぞ、そんなこと……」

「あ、あはは……。まぁでも、きっと今度出会う男性も同じことを言うと思いますよ? だって、シズさんは本当に、一緒にいてなんだか落ち着くんです。男の俺がいうのは変な感じかもしれないですけど、守られているというか……」

「……そうか。それはよかった」

「だけど、守りたいとも思えてしまう。そんな愛らしさがあるのがシズさんです」

「⁉」


 あ、俺また余計なことを言ってしまった! せっかく持ち返したのに、またシズさんが顔を赤らめてしまった。


「も、文字を教えてくれ……」

「あ、はい」


 気まずい空気を打ち壊すために、シズさんは今日から始めることを誓ったこっちの世界の文字についての学習を持ち掛けた。


 しばらく真剣に勉強をしていると、シズさんはそのまま眠りについてしまった。


 俺はそんなシズさんを布団まで運んで、そっと寝かしつけた。すると……。


「母さん……、どこ?」

 

 小さな声でシズさんがつぶやいた。寝言だった。けれど、放っておけなかった。


 だから、その手を握りしめた。

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