恥ずかしい妄想?
「い、いってらっしゃい……」
シズさんは、視線を落とし、手を止めて渾身の一撃を俺に撃った。
先日の夜、自分の発言を振り返って思った。隣に居たいとか、ちょっと気障だったし、なんだったらあれは告白とかそういうものに近いニュアンスがあった。
素直になってもらって距離を少しでも近くするつもりだったのが、急接近しすぎた……。シズさんがどんな風に受け取ったか分からなかったし、なんとなく気まずい感じしてたから、緊張してたんだけど……。
『いってらっしゃい』という一言で俺は深手を負った。なんでだ……、なんでこんなダメージを喰らったんだ……!
うれしいことじゃないか。確実にシズさんとの距離が少なくなったってことだろ!
なのになんでこんなに苦しい感じがするんだ? 心臓がぞうきん絞りされてるみたいだ……。
俺は会社に着くまでずっと上の空状態で、会社に着いた後も、半分はいつものルーティーンのおかげで体が覚えていたから何とかなったが、作業効率はめちゃくちゃ低下してしまっている……。
「はぁぁ~……」
「どうしたんですか? 先輩」
「あ、いや、何でも……」
「シズさんですか? シズさんが何か先輩に面倒を仕掛けたんですか? やっぱり先輩は私の家に住むべきだと思うんですがいかかでしょう。そうすればみんな幸せになります!」
「怖い怖い……。そんなに早口でまくしたてなくても……。というか、そのみんなの中にシズさんいなくないですか?」
シズさんは頬を膨らませて睨んでくる。
「……というか、よく見てみるとあれですね、雰囲気変わりましたね。なんというか、いつもより落ち着いている?」
「えへへ~、分かっちゃいましたか? ちょっと化粧変えてみたんですよ!」
「似合ってますね」
「そ、そうですか? えへへ~、そうですかね~」
亜衣さんが顔をゆがめて喜ぶ。なんかいつもよりかわいい。
…………なんか変だな。前まではそんなに意識しなかったけど、こうしてみる亜衣さんってやっぱり可愛いな。化粧を変えたらどっちかというと美人寄りにはなったけど。
「…………」
「どうしたんですか?」
「あ、いや、何でもないです。今日も頑張りましょうか」
「はい!」
俺は気合を入れなおして仕事にかかった。給料も昇給した分、頑張って働かなくちゃな。それに、シズさんに美味しいものを食べさせてあげたいし。
しかし、その気合も長続きせず、残業の時間までやってくると、すでに疲れが大きくやる気を上回っていた。
「田中君、この資料まとめておいてくれ」
「……はい」
もう時間もいい時間だ。まだ仕事があるのか、もうこれ業務形態とか上司がどうとかどうのこうの関係ない気がしてきた。単純に仕事多すぎだろ……。
まぁ、仕事量の多さに加えて上司や勤務形態なんかでこんなことになってんだろうけど……。
はぁぁ……。きつい……。
やばい。なんか色々なんでもよくなってくる。俺なんでこんな頑張ってんだろ……。薄給で、待遇もよくない。俺の努力を認知してくれる人もいない。俺はなんで……。
そう思って天井を見上げた時、ふと頭の中に浮かんだのは、昨日俺の胸で泣いたシズさんと、明るい笑顔でご飯を食べるシズさんの顔だった。
「…………」
「先輩?」
朝は元気だった亜衣さんの顔も、やつれ気味でしおらしく感じられた。
「ふぅぅ……」
職場全体が鬱屈な空気に包まれる中、俺は静かに息を吐いた。それは、たまりにたまった泥を吐き出すでも、諦観からくるものでもなかった。
息を吐いた途端、重くなった瞼は一気に軽くなった気がした。眠気や集中力すべて自分の手中にあるような全能感に包まれた。
そしてひとたび仕事にかかると、自分で驚くほど早く仕事が終わった。
「それじゃあ、上がります。お疲れさまでした」
「あ、先輩! 私も終わったので、少し待ってください」
「分かりました」
亜衣さんが慌てて身支度をして俺の方に駆け寄ってくる。
会社を出ると、まばらにタクシーや車が目の前の車道を通った。黒い車が走った時には、まるで光が俺たちに合わせてゆっくり進んでいるように見えた。
「先輩?」
俺の右耳に、弱気な声が入ってきた。
「すいません。ちょっとぼーっとしてしまって」
「大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫ですよ。行きましょうか」
そうして踏み出すと、ふっと空気が肌に張り付いた。冬に近いわけでもないけれど、なぜか爽やかで涼し気な空気に感じられた。
達成感と満足感がそうさせたのかもしれない。
「……さっき、先輩凄かったですね」
「え?」
「何というか、集中力というか気合というか……。かなり長時間の仕事をした後なのに……。みんな圧巻というか……」
「あぁ……、なんなんでしょうね? 俺もよくわかんないんですけど、なんかやる気で満ち溢れて……」
あの瞬間、気分が高揚した気がした。使命感や責任感が重圧ではなく俺の背中を押してくれているような気がした。
不思議な感覚に呑み込まれながら、俺は確かにいつもと違う自分になれていた。
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