すれ違い

 平和は時に、人を狂わせる。忘れてしまうのだ、周囲にいる人間は、どれだけ近くにいても、どれだけ愛を分かち合っても、掴んだその手は思っているよりも冷たくて、分かち合う幸せなんてものは目に見えないほど希薄なものだったということに……。


 私とてそれは同じだった。たったの五年だ。五年程度の平和が、人を堕とした。結果は惨禍。私たちの怠惰が招いた結果……。


 ……ダメだな、私は、ヒロシはきっと、私がこんな幸せを謳歌できるように頑張ってくれているのに……。


 ふとヒロシの方に目をやると、その目の下にはクマができていた。疲れているのか、どこかうとうとと首を揺らしていた。


 ……そうか、そうだった。彼は、いや、この世界の少なくともここら辺の人は、毎日必死だったのだ。もちろん、向こうの世界でもそれは変わらなかった。


 それでも惨劇が起きてしまったのは、いつの間にか何が幸せか見失ってしまっていたんだ。みんながいる幸せが、あたたかい飯を喰らえる幸せ、争いの起こらない幸せ……。


 きっとここの人たちは、それを忘れているようで忘れないでいる。いつも何かにひどく恐れて、毎日『帰る』という幸せを謳歌している。


「……ヒロシ?」

「……あ、はい」

「大丈夫か? 大分眠たそうだが……」

「そ、そうでしたか? あはは……。ところで、亜衣さんはまだですかね?」

「さっきからどたどたかちゃかちゃとやかましいが……」

「というか、今思ったけど、一人暮らしなのになぜ部屋に看板を?」

「それは私も思った。家の広さも、一人で暮らすには少し大きいような……む」


 家の全体をぐるっと見回していると、奇妙な違和感に気が付いた。


「なぁ、あれ、男物のマグカップじゃないか?」

「男物って……、別にマグカップにそんなのな……、あぁ、そういうこと?」


 私たちが注意を寄せる方には、マグカップが二個あって、しかもハートの模様がでかでかと描かれている。片方は赤、もう片方は青……。


「ま、まぁ、やっぱり亜衣さんには彼氏がいるってことじゃないか?」

「だとしても、一緒に住んでいる感じでもないのに、どうしてマグカップが二つともここに?」

「…………わ、忘れたんじゃないか?」

「他にもなんというか……。なんだろう……」


 だんだんとこの家の無駄に広い様子に恐怖すら抱くようになっていく。私たちがいる部屋から別の部屋にまたぐと途端に暗くなっているのが余計に恐怖心をあおる。


「ひ、ヒロシ……」

「だ、大丈夫ですか? ちょっと雰囲気怖いですね……」


 そういってしれっと私の方に席を近づけるヒロシ。一瞬離れようか迷ったが、そのままにしておくことにした。怖いし……。いや、怖くない!


 私たちが徐々に徐々に恐怖に侵食されて言っているさなか、アイの部屋からは絶えずカチャカチャという音やらが響いていた。しかしその頻度も少しずつ減っていく。


「ヒロシ、私の後ろに……。向こうで武器を用意しているかもしれない……」

「あ、亜衣さんはそんなこと……、そんなこと……」


 ヒロシももともと多少なりとも疑念を抱いていたのだろう。さっきのマグカップや、この部屋全体から醸し出す『なんとなくの恐怖……』が、余計に不安にさせている。


「すいません、ちょっと遅くなりました!」

「何をしていた?」


 私は席を立ち、自然とアイとヒロシの直線上に立ってしまう。


「ちょ、ちょっとお片づけを……」

「別にお前の部屋に入るつもりはなかったのだが、なぜそっちを片付けたのだ?」

「ガチャガチャも言ってましたし、配信機材を片付けてたんじゃ……」

「ち、違います!」


 配信機材というのが何かは分からない。だが、私はこう思った。この部屋の向こうには確実に武器がある!


 あの金属のぶつかり合うような音……。確かに重いものではない。だが、ここまでのやり方を鑑みると、この女はおそらく暗殺……。暗殺に関する知識はそんなにないが、基本的には軽い武器が多い。


 何せ暗殺というのは、面と向かい合って命を奪い合うのではない。一方的な略奪行為だ。確実に殺せる状況になるまで手を出さないのだから、大仰な防具も、大剣もいらない。


 アイがゆっくりとこちらに近づいてくる。


「待て!」

「え……」

「……シズさん?」


 やはりこいつは危ない。余計な人間を排除するために殺意を行使したり、それを隠す才能もずば抜けている。


 もう油断はしない。私は今を守るために躊躇しない!


「それ以上近づくのであれば、私は容赦しない!」

「……な、何なんですか急に⁉」

「なんでもだ!」

「シズさん?」


 ヒロシは状況を掴めていないようで、席から立ち上がり、一歩足を出す。私は反射的に腕を差し出しヒロシを制止する。


「ヒロシ、私が奴を引き留める。そのすきに逃げろ!」

「え? え?」


 ヒロシはあたふたと私に言われたとおりに逃げようか、その場にとどまろうかと迷っている様子だった。


「ちょっとなんなんですか! 勝手なこと言わないでくださいよ!」

「…………一つだけ聞くぞ」

「ちょ、質問に質問で返さないでよ……」

「貴様は私と同じなのか?」

「……は?」

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