また明日。

 突然の冷気をまとった声に、部屋の中が一気にひりついてしまう。空気中に無数の小さな針でも浮かんでいるかのような、そんな感覚だった。


「あ、あの、亜衣さん?」

「先輩は、自分の責任から、簡単に逃げるような人じゃありません。ちっちゃいことならともかく、事故とかそういう大事なことからは逃げない」

「……う、うれしいですけど。お、落ち着いてください……ね?」

「落ち着いてますよ」


 そう、彼女はいたってクールだ。クールすぎるからこそ怖いのだ。だが、だとすればなんて言えばいい? もっと興奮しろって言えばいいのか? 字面だけでも結構アウトだぞこれ……。


 にしてもなんで亜衣さんこんな怒ってんの? 俺の予想してた反応としては、こういう怒りというか、嫌悪というか、侮蔑とか、引くとか、そういうたぐいのものだと思うんだけど……。


 ……女性経験の少ない俺では全くわからん。


「とにかく、私の方で預かります!」

「いや、なんでそうなるんですか⁉」

「なんでそんなに反対するんですか! 先輩は逃げたりする人じゃないって、それよく言われてます!」

「どこでだよ……。というかなんでそんなに怒ってるんですか? 正直めちゃくちゃ引かれて終わりと思ってたんですけど……」


 そう質問すると、亜衣さんは「それは……その」と、もじもじとはっきりしない反応を返してきた。しばらく視線を下に落としたかと思えば、ハッと顔を上げて晴れた表情を浮かべた。


「か、隠そうとしたからですよ!」

「…………今考えませんでした?」

「そんなことないです!」

「完全に今考えていたぞ」


 シズさんが何でもないように口をはさむ。すると、まるで猛犬のような威嚇をシズさんにする亜衣さん。いつもはチャームポイントになっている八重歯が、今回ばかりは牙にしか見えない。


「……なぁ、この女は本当にヒロシ同僚なのか?」

「そうですけど……。……いつもはこんなんじゃないんです。いつもはもっと明るくて優しいんですけど、どうしてこうなった……」

「逆に聞きたいんですけど、なんでそこまでして一緒に住もうとするんですか!」


 俺の言葉を聞いて、威嚇を解いた亜衣さんが、今度は不安げに眉をひそめて聞いてくる。


「いや、なんでって言われても……。この人、まったくお金もないし、色々わからないことばっかで、事故を起こしたのも事実だし、俺が面倒見た方がいいと思って……」

「……その言い方、少し引っかかってしまうが、確かにヒロシの言うとおりだ。私は今、右も左もわからない状態でな」


 シズさんがこちらに回ってきて、俺の隣でこくこくと首を縦に振った。


「……それって、記憶喪失とか、そういうことですか?」

「そう! そんな感じ……。だから、まぁ、そういう感じです……」

「…………はぁぁ~。わかりました。今回のところは見逃してあげます」

「ありがとうございます!」

「でも、シズさんって言いましたっけ?」

「ん? そうだ」

「私、負けませんから」

「は?」


 亜衣さんは俺の隣を通り過ぎる時、わずかにその目を細めて物憂げな表情をしたように見えた。


 すると、心臓が掴まれたみたいにきゅっと苦しくなって、居ても立っても居られないそわそわが胸の内に膨れ上がった。理由は分からない。ただ、シズさんに一言、「ちょっと」とだけ残して、亜衣さんを追いかけていた。


  玄関を出ると亜衣さんはすでに階段を下りていた。走ったのだろう。肩を上下していた。スマホを見ている。画面は見えないが、おそらくタクシーを呼ぼうとしているのだろう。


「亜衣さん!」

「⁉」


 二階から身を投げ落とすような勢いで階段を駆け下りる。急いで亜衣さんのもとに駆け寄ると、口をむっとゆがめた亜衣さんが俺をまっすぐ見つめた。


「夜に一人で帰るの危ないですよ」

「……別に、大丈夫ですよ。タクシー呼ぶんで」

「お金もったいないですよ。そんなに遠くはないですし」

「……じゃあ」


 いじけた表情から出た声の割には、甘いものが含有されているものだった。思わず香りだちそうなちょっとうれしそうな声。


「送ってきます」

「そっちか……」

「え、どっちを期待してたんですか? というか、もう一つって何ですか?」

「…………先輩って、女性と付き合ったことないでしょ」

「急ですね……」


 まぁ、その通りなんだけど……。なんで今の今でそんなことを理解したんだ。


「まぁいいです。一緒に帰りましょうか」

「はい」


 何でもない夜道を、二人で並んで歩き始める。あっちを見れば、ともっていた室内電灯がぱちんと消えて、そっちを見れば、カーテンがぴしゃりと閉められて……。


 なんだか俺たちがこの世から遮断されてしまったみたいに感じる。


「あ~あ! 今日が華金だったらなぁ~、この後飲みに行ったのに……」


 亜衣さんは何か心の中に沈殿したものを綺麗に取り払うように伸びをした。


「土曜日も普通に出勤ですよ」

「あ……」

「まぁ、気持ちは分かります。このあと二人で飲みに行けたのにって感じですね」

「…………飲みに行きたかったですか? 私と二人で……」

「え? あ、はい。亜衣さんと話すの楽しいので」

「…………」

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