うごめく黒トカゲ

 黒衣婦人は、地底王国の女王のほこりからも、縄目の恥に堪えかねたのであろう。いずれのがれぬ運命とはいえ、せめて最期をいさぎよく、密室にとじこもって、われとわが命を絶とうとしたにちがいない。それと気づいた明智小五郎は、騒がしい捕物の場をあとにして、単身彼女の私室にけつけた。

「おい、あけたまえ。僕は明智だ。一こと言いたいことがある。ぜひここをあけてくれたまえ」

 急がしく叫ぶと、中から力ない声が答えた。

「明智さん、あなたお一人だけならば……」

「ウン、僕一人だよ。早くあけてくれたまえ」

 鍵をまわす音がした。ドアがひらいた。

「アッ、おそかった……君は毒をんだのか」

 ふみこみざま、明智が叫んだ。黒衣婦人は、やっとドアをあけたまま、その場に打ち倒れていたのである。

 明智は床にひざまずいて、そのひざの上に女賊の上半身をかかえのせ、せめては断末魔の苦悩をやわらげてやろうと試みた。

「今さら何をいっても仕方がない。安らかに眠りたまえ。君のためには、僕は命がけの目にもあわされた。しかし、僕の職業にとっては、それが貴重な体験にもなったのだよ。もう君を憎んでやしない。かわいそうにさえ思っている……ああ、そうそう、君に一ことことわっておかねばならぬことがあった。君があれほど苦心をして手に入れた品だけれど、岩瀬さんの『エジプトの星』は、たしかに僕があずかって帰るよ。むろん本来の持ち主にお返しするためにだ」

 明智はポケットから大宝玉を取り出して、女賊の眼の前にかざした。「黒トカゲ」はしいて微笑を浮かべ、二、三度うなずいて見せた。

「早苗さんは?」

 彼女はしおらしくたずねるのだ。

「早苗さん? ああ、桜山葉子のことだね。安心したまえ。香川君と一しょに、もうこの穴蔵を出て、警察の保護を受けている。あの娘にも苦労をかけた。今度大阪へ帰ったら、岩瀬さんから充分謝礼をしてもらうつもりだよ」

「あたし、あなたに負けましたわ。なにもかも」

 戦いに敗れただけではない。もっと別の意味でも負けたのだということを、言外に含ませていうと、彼女はすすり泣きはじめた。もううわずった両眼から、涙がとめどもなくあふれ落ちた。

「あたし、あなたの腕に抱かれていますのね……うれしいわ……あたし、こんな仕合わせな死に方ができようとは、想像もしていませんでしたわ」

 明智はその意味をさとらないではなかった。一種不可思議な感情を味わわないではなかった。しかしそれは口に出して答えるすべのない感情であった。

 断末魔の女賊の告白は謎のごとく異様であった。彼女はこのきゆうてきを、彼女自身も気づかずして、愛しつづけていたのであろうか。それ故にこそ、闇の洋上に明智を葬った時、あのように烈しい感情におそわれ、あのように涙をこぼしたのであろうか。

「明智さん。もうお別れです……お別れに、たった一つのお願いを聞いてくださいません? ……唇を、あなたの唇を……」

 黒衣婦人の四肢はもうけいれんをはじめていた。これが最期だ。女賊とはいえ、この可憐な最期の願いをしりぞける気にはなれなかった。

 明智は無言のまま、「黒トカゲ」のもう冷たくなった額にソッと唇をつけた。彼を殺そうとした殺人鬼の額に、いまわの口づけをした。女賊の顔に、心からの微笑が浮かんだ。そして、その微笑が消えやらぬまま、彼女はもう動かなくなっていた。

 そこへ、捕物をすませた刑事たちが、ドヤドヤとはいってきたが、と眼この不思議な情景を見ると、入り口に立ちすくんでしまった。鬼といわれる刑事たちにも感情はあった。彼らは何かしら厳粛なものにうたれて、しばらく物いう力さえ失ったのである。

 一世をしんかんせしめたたいの女賊「黒トカゲ」は、かくして息絶えたのであった。名探偵明智小五郎の膝を枕に、さも嬉しげな微笑を浮かべながら、この世を去ったのであった。

 ふと見ると、さいぜん刑事の手を振りはらって逃げた時、黒衣のそでが破れたのであろう。美しい二の腕があらわになって、そこに、彼女のあだ名の由来をなした、あの黒トカゲの入墨が、これのみは今もなお生あるもののごとく、主人との別離を悲しむかのように、かすかに、かすかに、うごめいているかに感じられたのである。

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黒蜥蜴 江戸川乱歩/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official

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