恐ろしき謎

 早苗さんはひどくやつれていた。誘拐されたままの銘仙の不断着が、クチャクチャにしわになって、髪もみだれるにまかせ、おびただしいおくれ毛が、青白い額をかくし、頰もげっそり落ちて、ひとしお高く見える鼻の上に、つるのゆがんだ目がねが、みすぼらしくかかっている。

「早苗さん、お気分はいかが? そんな所に立っていないで、ここへお掛けなさいな」

 黒衣婦人が、自分の長椅子を指さしながら、やさしく言った。

「ええ」

 早苗はいわれるままに、素直に二、三歩前に出たが、黒衣婦人の掛けているその長椅子をはっきり意識すると、幽霊でも見たように、ハッと恐怖の表情を浮かべて、あとじさりをはじめた。

 人間椅子、人間椅子。三日前に、この中へとじこめられた恐ろしい記憶が、まざまざと浮かんでくる。

「ああ、これなの。この椅子が怖いの? 無理はないわね。じゃ、そちらのひじかけ椅子にするといいわ」

 早苗さんは、いわれた椅子におずおずと腰をおろした。

「あんなに、あばれたりなんかして、すみませんでした。もうこれから、なんでもおっしゃる通りにいたしますわ。ごめんなさい」

 うなだれたまま、かすかにびごとをいうのだ。

「とうとう、あなた観念なすったのね。それがいいわ。もうこうなったら、素直にしているほうが、あなたのおためなのよ……でも不思議ねえ、きのうまであれほど反抗していた早苗さんが、急に、こんなにおとなしくなるなんて、何かあるの? 何かわけがあるの?」

「いいえ、別に……」

 女賊は鋭い眼で、うなだれている相手を、刺すように見つめながら、次の質問に移った。

「北村と合田から聞いたんですがね。あなたの部屋で人の声がしたっていうのよ。だれかあなたの部屋へはいった者があるんじゃないの? ほんとうのことをいってくださらない?」

「いいえ、あたしちっとも気がつきませんでしたわ。何も聞きませんでしたわ」

「早苗さん、うそいってるんじゃないの?」

「いいえ、決して……」

「…………」

「黒トカゲ」は早苗さんをじっと見つめたまま、何か考えこんでいる。異様な沈黙がしばらくつづく。

「あの、この船、どこへ行きますの?」

 やっとしてから、早苗さんが、おずおずと尋ねた。

「この船?」女賊はハッとめいそうからさめたように、「この船の行く先、教えて上げましょうか。あたしたちは今、遠州なだを東京に向かって走っているのよ。東京にはね、る秘密の場所に、あたしの私設美術館がありますの。ホホホホホ、早苗さんにお眼にかけたいわね。それがどんなにすばらしい美術館だか……そこへ、あなたと『エジプトの星』を陳列するために、こうして急いでいるのよ」

「…………」

「汽車に乗れば、そりゃ早いにきまっているけれど、あなたという生きたお荷物があっては、あぶなくって陸路をとることができなかったのよ。船なれば、少し遅いけれど、まったく安全ですからね。早苗さん、これあたしの持ち船なのよ。『黒トカゲ』のおねえさんは、ちゃんと蒸汽船まで用意しているのさ。驚いたでしょう。でも、あたしだって、こんな船の一そうぐらい自由にする資力はあるのよ。あたしたち、陸路をとれない時は、いつもこの船を利用していますの。こういううまい道具がなくっちゃ、その筋の眼を、長いあいだのがれていることなんぞ、思いもおよばないわね」

「でも、あたし……」

 早苗さんが、何かしら強情な様子をして、上眼使いにチラと黒衣婦人を見た。

「でも、どうだとおっしゃるの?」

「あたし、そんな所へ行くの、いやですわ」

「そりゃ、あたしだって、あんたがすき好んで行くなんて思ってやしない。いやでしょうけど、あたしはつれて行くのよ」

「いいえ、あたし、行きません、決して……」

「まあ、大へん自信がありそうね。あんたはこの船から逃げ出せるとでも思っているの?」

「あたし信じていますわ。きっと救ってくださいますわ。あたしちっとも怖くはありませんわ」

 この確信に満ちた声を聞くと、黒衣婦人は何かしらギョッとしないではいられなかった。

「信じているって、だれをなの? だれがあんたを救ってくれるの?」

「おわかりになりません?」

 早苗さんの口調には、解きがたき謎と、不思議に強い確信がふくまれていた。かよわいお嬢さんを、これほど強くさせたものは、一体全体何者の力であったか。

 もしや、もしや……黒衣婦人はみるみる青ざめて行った。

「ええ、わからないこともありませんわ。言ってみましょうか……明智小五郎!」

「まあ……」

 早苗さんは虚を衝かれたように、かえってろうばいを感じた様子であった。

「ね、当たったでしょう。あなたの部屋でこっそりあなたをなぐさめてくれた人。みんなはお化けだなんて言っているけれど、お化けが物をいうはずはない。明智小五郎でしょう。あの探偵さんがあんたを助けてやると約束したんでしょう」

「いいえ、そんなこと」

「ごまかしたってだめよ。さあ、もうあんたから聞くことは、何もないわ」

 黒衣婦人はものすごい形相をして、スックと立ち上がった。

「北村、この娘を元の通り縛って、猿ぐつわをはめて、あの部屋へとじこめておしまい。そして、お前もその部屋へはいって、内側からかぎをかけて、もういいというまで見張りをしているんです。ピストルの用意はいいだろうね。どんなことがあっても、逃がしたりしたら、承知しないよ」

「よござんす。たしかに引き受けました」

 北村が早苗さんを引きずるようにしてつれ去るあとから、「黒トカゲ」もあわただしく廊下へ飛び出して行ったが、ちょうどそこへ、船内の捜索を終った潤一事務長が帰ってくるのとぶっつかった。

「あ、潤ちゃん、お化けの正体はね、明智探偵なのよ。明智が、どうかしてこの船の中に潜伏しているらしいのよ。さ、もう一度、探させてください。早く」

 そこでまた、船内の大捜索が行なわれた。十名の船員が手分けをして、懐中電灯を振り照らしながら、甲板、船室、機関部は申すに及ばず、通風筒の中から、貯炭室の底までもしらべまわった。だが、それらしい人影はもちろん、これぞという手がかりさえも得られなかった。

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