夜、月、星、空、彼※全文ルビなしバージョン
彼は眠れなかった。誰にも言えない彼だけの悩み。親に縋るには少し年を取り過ぎたと思っている。一人で夜を明かすのは寂しい。寄りかかる相手がいない時間。
空が藍色に染まる頃、彼はのっそりと起き上がる。パチリとスイッチを押して、部屋の電気をつける。それを咎める人間はいない。彼だけの空間。
彼は椅子に座って考える。昼間は考えないこと。沢山の悩み。沢山の疑問。沢山の不安。一つ一つがふわふわと頭を巡る。頭は少しぼやけている。彼は眠りたい。でも眠れなかった。
考えていると、涙が出てくる。昼間は気付かなかったことが見えてきた。自分を疑っている。周りに怯えている。ここには彼しかいないのに。
彼は寒気を感じて部屋を動き回る。監視されているような気がする。誰かに咎められている気がする。彼は何かを恐れている。
彼は耐えきれなくてベッドに潜り込む。眠気はやってこない。まだ温かい布団にくるまる。体はくたびれている。ぼろぼろの心を包むものがない。彼はそれを欲している。温かい記憶。懐かしい思い出。
彼の脳裏に大切な人の笑顔が浮かぶ。最近はあまり電話もしていない。彼はそわそわと手を動かす。ぶつぶつと独り言を呟く。
目を閉じる。眠気はやってこない。彼はまた目を開ける。そして周りの音に耳を澄ます。風の音、建物の音、車の音、虫の音。昼間は忘れていることを思い出す。
彼は再び涙を流す。彼を責める声が胸を染めている。涙は透明。口の中に入ると少し生ぬるい。涙は色のない血。彼の傷付いた体から流れる血。痛みを訴えるもの。彼はそれを周りに見せたがらない。彼は怖がっている。自分が見放されること。自分の価値を失うこと。
暖かい布団に入っていても、彼は満たされない。彼は益々縮こまる。ぶるぶると震える。涙が止まらない。昼間に言われた言葉を思い出す。自分が発した言葉を思い出す。繰り返す。彼は震える。震えて空気を揺らす。
彼は声を抑える。涙を流しながら、声を抑える。泣いていると知られたくない。これ以上迷惑をかけたくない。自分を嫌いになりたくない。彼の心が叫ぶ。それを必死に抑える。彼は胸を抱く。そして浅く呼吸する。冷たい空気を吸い込む。吐き出す息は湿気をまとっている。熱い息。熱い頭。それなのに体は冷たい。手足が氷のように冷たい。
やがて意識が薄れる。彼の頭は重たいまま。涙を流したまま。熱い目を冷たい手で冷やしながら。彼は今日も悪夢を見る。追いかけられる夢。何か強大なものから逃げる夢。脂汗が浮かぶ。また涙が流れる。透明な血が流れる。彼の心から血が流れる。彼の心は眠っている間も休まらない。枕が湿る。涙が零れ落ちる。瞼が赤く腫れる。
彼の冷たい手が動く。夢の中で、彼の一番大切な人に、助けを求める。
空が白み出す頃、遙か遠くで鳥の鳴き声が高く響く。
────✴*🌙✴
ある日、彼はむくりと起き上がる。今日も彼は眠れない。眠りたいのに眠れない。
彼は少し窓を見る。カーテンがかかっている。カーテンに閉じられた窓を見ている。彼はそこに触れる。彼は僅かに高揚している。
カーテンを少し開ける。そこから見えた光景に息をのむ。彼は震えている。寒いからじゃない。
澄み渡る空。夜を包む光。月光が空を照らす。風に揺れる草木。星々が煌めく。天の川が空に流れている。
あまりの美しさに彼は息をのむ。夢を見ているのかと錯覚する。慌てて手元の機械を手に取り、写真を撮る。だが上手く撮れない。やがて彼は諦める。そしてこの光景を忘れまいと目に焼き付ける。
彼は動き出す。もう涙は流れていない。足を地面につける。僅かにぐらつく体。しかし彼は歩みを止めない。
傍にあったカーディガンを羽織る。靴下を履く。彼は喜んでいる。笑顔を浮かべて外に出る。
外には誰もいない。街灯と月光だけが彼を照らす。家々の電気は消えている。しんとした夜。彼だけが知った夜。夜の絶景。夜の青空。澄み渡る世界。誰もいないような錯覚。新鮮な空気が喉を通る。
彼は楽しんでいる。その美しさに圧倒されながら、普段は素通りする場所をゆらりと歩く。見えなかったものが見えてくる。美しいと彼は思う。何故この光景を今まで知らなかったのかと、感動する。その体は光を浴びて淡く喜ぶ。
喜びに心を浮かせた。彼を歓迎する夜の空気。雲は見当たらない。きっと今日も晴れるのだろう。途端に彼は晴れた空の中の月も見たくなった。この空より更に薄い色彩、透明度の高い朝の光を想像する。彼の頭に広がる光景。彼はふっと息を吐く。
空を見つめたり、道路脇のしぼんだ花を見たり、普段気にとめない景色を眺める。足が彼をゆるりと運ぶ。知らなかった美しい物を教えてくれる。
彼の目にとまったのは人工物。今はいない人の息遣いを感じ取る。たばこの吸い殻、はりついたガム、くしゃくしゃになったビニール袋。プラスチックの破片。片方しかない割り箸。彼は思う。もっとここを綺麗にしたいと思う。
やがて彼は寒さを感じて、後ろ髪を引かれる思いで家に帰る。頭の中に広がっている夜空。月、星、闇、空気、道端の雑草、小さな花、沢山のごみ。
彼は全てが夢のようだった、と思った。だが次に目覚めたとき、それは夢ではないと理解する。
彼はいつも通り出かけようとして、少し立ち止まる。普段なら気にもとめないことを思い出す。道ばたに雑に置かれたごみを。そして一つのゴミ袋を持ってくる。彼はゴミ袋を左手に持つ。その顔は明るい。俯いていた顔を起こす。体に力を込める。扉を開く。
彼の日常が少し変わった。少しだけ、彼は自分に誇りを持てた気がした。
目の前には、真昼の月と星々。真夜中、らんらんと夜の世界を照らした月は、昼の太陽の光に照らされて薄く微笑む。
そして彼と反対側にある国では、今まさに月が夜の世界を照らしていた。
夜の青空 月空 すみれ(ヒスイアオカ) @aokahisui
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