神の降りる夢

 夢の中であたしはあの山にいた。


 神様が降り、神様が静謐せいひつな地。あの人が目を細めて眺めた景色だ。


 紅葉の葉が映るひんやりとした川辺で、はしる水流の音を聞きながらあたしは辺りを見回していた。


 なんとなく夢だということは理解していた。だって、あたしがあの山に行った季節は五月だ。こんな静かな紅葉に染まる景色は想像の中だけでしか知らない。


 だからこそ、もしかしたら顔も知らないあの人に出会えるのではないかという予感に、あたしは胸がおどった。


 もし会えたら伝えたかった。あなたの書いた文章がすごく好きになったのだと、とても綺麗で憧れたのだと。そう伝えたかった。


 けれど辺りには誰もいない。永遠のような川の流れが目の前に映るだけだった。


 力なく落とした肩を、急に誰かに叩かれた。


 振り返った先に誰かが立っていた。知り合いではないと思う。でも分からない。その人にはしっかりとした顔がなかったから。ぼんやりとゆらめく姿は服装も曖昧あいまいで、年の頃だって分からない。ただ、その身長からなんとなく男の人のような気がした。


「……僕、あなたの書いた話、すごいなって思ったんです」


 その人が真剣な声であたしに話しかけてくる。


「白地に黒で埋めた活字の羅列られつのはずなのに、あなたの文章からは鮮やかな色がにじみ出てくるようでした。無味乾燥な画面を越えて、あなたの描く色彩が空気を染めていく気がしたんです。それを読んで僕、……自分も文章を書いてみようと思ったんです」


 あたしはぽかんとした。


 顔も知らないその姿は川の流れに溶けてしまいそうなくらいにおぼろげで、けれども万年雪が残るあの稜線りょうせんのように純粋でキラキラとしていた。それはまるで、あたしがあの人に向けた憧れのようにも見えた。


 ありえない、なんてことはないのかもしれない。


 だってここは、神の降りる夢の中なのだ。


 ……ねえ、あなたは令和より、いくつ先の時代の人?


「……ありがとう」


 あたしは大きく息を吸って、その人に向き直った。


「いつかあなたにそう言ってもらえるように、あたし、これからも文章を書く。たくさん書いて出す。ちょっとくらい嫌なこと言われても作品を下げたりしない。あなたの時代まで残せるように努力する」


 だから、とあたしはその人に見えるかも分からない笑顔を浮かべた。


「あなたもどうか、自分の良いと感じた文章を曲げることなく書き続けて。それが何もない白紙の上を染め上げた時、まだ見ぬ誰かの心にきっと届くはずだから!」



─了─



(※)浦松佐美太郎(1941)『たった一人の山』

   『名作で楽しむ上高地』大森久雄(編)

   ヤマケイ文庫 pp.8

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神の降りる夢に 上杉きくの @cruniwve

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