幕間5

 真っ白な診察室で広瀬と向かい合う。こうやって病院に来るのも今回で三回目だった。看護師に促され左腕を出すと、手早く採血された。真っ赤な血が、小さな瓶に吸い込まれていくのを見ていると、広瀬が凪人に声をかけた。

「体調はどうかな」

 視線をそちらに移動させると、肩をすくめ苦笑いを浮かべた。

「……微妙です。相変わらず起きられないし、急に眠気が襲ってくることも。そのうち通学中に寝てしまうかも」

「……そうか」

 冗談のつもりだったけれど、広瀬も看護師も母親も、誰一人として笑うことはなかった。

 仕方なく気を取り直して、凪人は広瀬に尋ねた。

「ねえ、先生。薬ってないんですか?」

「薬?」

「そう。眠くならない薬。ドラッグストアとかで売ってる栄養ドリンクを飲んでみたけど全然効かないし」

『これを飲めば目が覚める!』という謳い文句が書かれたドリンクを何種類か買ってみたけれど、全く効かずただお金を無駄遣いしてしまっただけだった。

「そうだね、ないわけではないけれど……。前も言った通り、この病気は眠っている間に身体に溜まった毒を中和している。睡眠時間が長ければ長いほど、毒素の濃度が高いんだ。だから――」

「そんなの別にどうでもいい。それよりもちゃんと起きて、学校に行って、っていう日常生活を俺は送りたいんです」

「凪人……!」

 背後で母親が、声を震わせているのがわかった。その声に、凪人の胸が痛んだ。日常生活を送りたいのも、学校に行きたいのも事実だ。けれど、その理由は全て詩月のためだった。詩月の病状が悪化して、手遅れになる前に、手術を受けたいと生きたいと思わせなければいけない。そのためには眠っている時間なんて、凪人には無駄だった。例えそのせいで、自分の身体を痛めたとしても、少しでも詩月に生きて欲しいと伝え続けたかった。。

 きっとこんなとき、詩月ならすぐに凪人の嘘を見破るんだろうな、と思うとほんの少しだけ頬が緩むのを感じた。人の嘘に敏感で、ある日を境にまるで人の心が読めるのかと思うぐらい、誰かが嘘を吐くと詩月は嫌悪感を表情に出していた。

 だから凪人は嘘を吐くのをやめた。些細なことでも、誰に対しても。凪人だけは詩月にとって信頼できる場所でありたかったから。

 凪人にとって、詩月が全部だった。

 でも……ごめん。

 背中越しに聞こえてくる母親の嗚咽に、凪人は心の中で懺悔した。悲しませて、苦しませてごめん、と。

 凪人の話を聞いて、広瀬は少し難しい表情を浮かべながら、渋々と言った表情で口を開いた。

「あるには、ある」

「ホントですか!?」

「うん。でも、さっきも言った通り、無理に起きていればその分身体に毒素が回る。そうすると、いつか薬を飲んでも目覚めることがなくなってしまう。その意味が、わからないわけじゃないよね」

 凪人は静かに頷く。『眠り姫』について調べたときに、この病気の患者が最後どうなるかも読んでいた。だからこそ。

「薬を飲もうと飲まないと、結局行き着く先は目覚めることがなくなり、毒素に負けて死ぬ」

「薬を飲まなければ――」

「わかってます。その方が少しでも長く生きられるって。その間に新しい薬ができるかもしれないって、先生の言いたいことはわかってます! でも!」

 膝の上で拳を握りしめると、俯いて真っ白い床を睨みつける。

 それでは遅いのだ。このまま眠る時間が増えて、詩月と過ごす時間が減り、手遅れになってしまったら――。そうしたら、今度こそ後悔してもしきれない。

 あのときの後悔を、どうしても晴らしたい。いいや、違う。凪人自身の後悔なんてどうだっていい。そんなものゴミ箱に捨ててやる。そんなことよりも、ただ詩月に生きていてほしいのだ。笑っていてほしいのだ。その隣に、凪人がいられなかったとしても。

 そのために手術を受けて欲しい。そしてその日までは、当たり前の顔をして詩月の隣にいたい。もう凪人が詩月にしてあげられることなんて、それぐらいしかないのだから。

「……詩月ちゃんのため、か」

「……っ」

 母親には聞こえないぐらいの声量で、広瀬は言う。思わず肩を振るわせてしまった自分を殴り飛ばしたかった。これでは広瀬の言葉を肯定しているようなものだった。

 違う、と否定するために顔を上げるけれど、広瀬は悲しそうな目で、凪人を見つめていた。

「僕は彼女だけでなく、君にも生きていてほしいって、そう思っているよ」

「でも……このままじゃ……っ」

「……ふう」

 溜息を一つ吐くと、広瀬はカルテに何かを書き込んだ。

「用法用量は必ず守ること」

「先生!」

「これを飲んでも眠気が来るのであれば、その眠気には逆らわない。いいね」

「どうせ逆らおうとしても逆らえないし大丈夫です!」

 凪人の言葉に、呆れたように広瀬は苦笑いを浮かべていた。


 血液検査の結果を確認してから、今日の診察は終わりとなった。母親が先に診察室を出て行ったことを確認して、凪人は広瀬に尋ねた。

「詩月は、あとどれぐらいもつんですか」

「それ、は」

 真っ直ぐに広瀬を見つめる凪人の視線を、どう受け止めるべきなのか悩んでいるようにも見えた。暫く悩んだあと、広瀬は近くにいた看護師に声をかけた。

「星野詩月ちゃんの次回の診察はいつだったかな」

「えっと、たしか来週だったと思います」

「そうか……。そろそろリミットが来る。次回かそれまでには決めてもらわなきゃだね。……っと、凪人くんまだいたのかい?」

 広瀬はわざとらしく、今初めて凪人がまだ診察室内にいたのに気付いたとでも言うかのように驚いて見せた。

「診察が終わったら出て行かなきゃ駄目だよ。君も、あまり無理をしないようにね。ちゃんと自分のことを大切にしてあげてね」

 心配そうに凪人を見つめる広瀬に頭を下げると、凪人は診察室をあとにした。

「あんた何してたの」

「や、靴紐がほどけて直してた」

「そんなの待合室に来てからしなさいよ」

 言い訳を述べる凪人に、母親が呆れたように眉をひそめた。

 けれど、凪人にはもう母親の言葉なんて頭に入っていなかった。

 来週までに詩月に決断させなければ。でも、どうやって。

 見つかることのない答えを、凪人はずっと探し続けていた。


 翌朝、スッキリと目が覚めた。夜寝る前に飲んだ薬が効いたようだった。ちゃんと朝目覚めることができたのは、いったいいつぶりだろうか。

「おはよ」

「……おはよ」

 制服に着替えてリビングに顔を出す。登校時間に間に合うように凪人が起きてきたことに対して、母親は複雑そうな表情をしていた。

「本当に大丈夫なの?」

 昨日の夜、薬を飲もうとした凪人にかけた言葉と同じ言葉を母親は言った。

「大丈夫だよ。別にしんどいとか苦しいとかもないし」

 だから凪人も、母親が昨日不安に思って言っていたことを一つ一つ否定していく。それでも母親は心配そうな表情を崩すことはなかった。

「具合悪くなったらすぐに連絡して。迎えに行くから」

「大丈夫だって。そのときは保健室に行って寝させてもらうし、連絡もしてもらうから。それより、久しぶりに遅刻せずに行けそうなんだ。そろそろ朝ご飯食べさせてよ」

 肩をすくめる凪人に、母親は「それもそうね」と小さく笑った。それは久しぶりに見る母親の笑い顔だった。


 久しぶりに朝から教室へと向かう。遅刻することなく登校してきた凪人を、クラスメイトは驚いた様子だった。それもそうだろう。ここのところ、毎日遅刻をするか休むかで、まともに登校したのなんてもう一か月以上も前のことなのだから。

『眠り姫』の病気のことは、担任とそれから保健室の先生にだけ話してあった。おかげで欠席や遅刻ので足りない授業分は補講やプリントで対応してもらえる手はずになっていた。

 ただそんなことをしても意味があるのだろうかと思ってしまう。このまま二年に進級できるかどうかさえ、今の凪人には不確定でしかないのに。

 凪人はそっと詩月の方へと視線を向けると、一瞬目が合った気がした。けれどすぐその視線は逸らされてしまう。

 苦笑いを浮かべそうになるのを堪えると、自分の席に座り詩月を見つめる。ついこの間までは、こうやって詩月のことを見つめることしかできなかった。何かあったら次こそは守るのだと、助けるのだとそう思うだけだった。

 けれど今は違う。昔のように、とは行かなくても詩月の隣にいることができている。

 凪人はズボンのポケットからスマホを取り出すと、昨夜凪人が眠りに落ちたあとに沙耶香から届いていたメッセージを開けた。そこには沙耶香の手から餌を貰う『ナギ』の画像があった。

 あのとき、まさか詩月がペンギンに自分の名前を付けるなんて思っても見なかった。ただ詩月が未来を見るきっかけになればいいとそう思っていただけだったのに。

 メッセージには『ナギ』の名前をもらってから、少しずつではあるけれど餌を食べる量が増えたこと。このまま順調に育てば、春にはペンギンエリアに移動できるかも知れないということが書かれていた。そして最後に。

「『春になったらまた二人で『ナギ』に会いに来てね』か」

 そうできればどんなにいいか。凪人は目を閉じると、スマホをギュッと握りしめる。『ナギ』がペンギンエリアに出る頃、凪人はもう目覚めることができなくなっているかもしれない。

 それでも詩月が生きているならそれでいいと思っていた。でも。

 そのとき、詩月の隣に凪人ではない男がいる。そんな想像をした瞬間、息ができないほど胸が苦しくなった。

 詩月が凪人のことを嫌いでもいい。詩月が生きていてくれるなら、誰の隣で笑っていても、それでいい。そう思っていたのに。

『ナギ』がペンギンエリアを歩くところを見たい。それも詩月と二人で。

 そんな未来が来ることがないことは、凪人が一番よくわかっているはずなのに、どうしても望んでしまう。

「この後悔は晴らせそうにないな」

 ポツリと呟いた言葉は、教室の喧噪に紛れて消えた。

 詩月との未来を作ることはできなくても、一つだけ五年前のあのときから残る後悔だけは晴らしたい。詩月との約束を守ることができなかった、あの日の後悔を。

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