第五章

 子どもみたいに泣きじゃくったせいで、涙でグチャグチャになった顔を制服の袖口で拭う。小さな子どものように駄々をこねて、我が侭を言って、凪人に感情をぶつけたことが恥ずかしくて仕方がない。

 そっと顔を上げ、凪人の様子を窺い見る。凪人は何かを考え込むかのように、眉間に皺を寄せ難しい顔をしていた。

 困らせたかったわけじゃないのに――。

 思わず「ごめん」と詩月が呟くのと、凪人が「あのさ」と口を開くのが同時だった。

「え?」

「あ、ごめん」

「ううん。凪人、どうしたの?」

「ああ、うん。さっきの、生きたい理由だけど、今何かしたいこととかある?」

「したいこと……」

 言われて考えてみるけれど、全く何も思い浮かばない。

「たとえばどこかに行きたいとか、何か食べてみたいものがあるとか」

「うーん、行きたいところに、食べたいところ」

 どちらもすぐにはパッと出てこない自分自身に笑ってしまいそうになる。普通に考えれば、したいことの一つや二つ、パッと浮かんできそうなものなのに。

 でも、手術を受けて再発率が六十パーセントだと広瀬と両親が話しているのを盗み義いたあの日からずっと、何かをしたいと思うことなんてなかったのかもしれない。

 どうせ再発して死んでしまうのだから。頭の片隅で、ずっとそう思いながら生きてきた。きっと、これから先も――。

「ごめん」

「ううん、急に聞いた俺が悪いんだから気にしなくていいよ」

 何も思いつかないぐらい、生に対して執着がなくてごめん。あんなにも自分のことを想って生きたいと思わせてみせると凪人は言ってくれたのに。

 けれど、そんな詩月に対して、したいことを答えることができなかったことに謝罪したと凪人は受け取ったようだった。 

「じゃあさ俺が行きたいところに行くのでもいいかな」

「凪人の行きたいところ?」

 自分が行きたいところ以上に、凪人の行きたいところなんて想像つかなかった。だからこそ逆に気になる。

「たとえばどこ?」

「水族館でしょ。映画。カフェも行きたいし、博物館にも行ってみたいな」

「凪人、カフェなんて行くんだ」

 意外だと言うと失礼だろうか。そんなことを考えていると、言わずとも思っていることが伝わってしまったようで、凪人は少し恥ずかしそうに頬を掻いた。

「意外? それとも女子みたいで変、かな。でもなんかカフェとか喫茶店みたいなところ結構好きで。前は父親と二人で行ってたんだけど、最近は一人でも行くようになってさ」

「なんか、大人でビックリした」

「大人、かな?」

「うん、私一人で喫茶店なんて入ったことないよ。カフェもお持ち帰りならいいけど、一人で入って言うのは苦手かも」

 一人でいるとどうしても周りの目が気になってしまう。あの子一人で来てるんだ、とか友達いないのかな、とかすっぽかされたのかも知れないよ、とか。自意識過剰なのはわかっている。詩月が思うほど、周りの人は詩月のことなんて気にも留めていなくて、店の隅に置いてある観葉植物と大差はないのだと思う。それでも詩月自身が落ち着かないのだ。

 どうしても行きたいのなら、テイクアウトして帰るか、心陽たちを誘って一緒に行ってもらうしかない。喫茶店なんて、友達と一緒でも子どもだけでは行きにくい。

 それなのに凪人はそんなところに一人で行くという。それが詩月にとってどれだけ難しいことかも知らず。

「だから凪人のそう言う我関せずなところ凄いなって思うよ」

「それって褒めてる?」

「褒めてる褒めてる」

「嘘っぽい」

 おざなりに返事をする詩月の頭を軽く小突こうとして、凪人は手を止めた。

 そんな凪人の行動が何を指し示しているのか、そんなこと問いかけずともわかってしまったから――。

「……ごめん」

「ううん……」

 謝る凪人に首を振るけれど、硬くなった表情を崩そうとはしなかった。

「……歩きながら話そうか」

 立ち止まっていた凪人は、隣に立つ詩月に声をかける。詩月もそれに頷いた。

「たくさんあげてみたけど、どこか行きたいところあった?」

 歩きながら言う凪人に少し考えてはみるけれど、どれもとても楽しそうで、それでいてどれもそこまで興味は持てなかった。

「ごめん」 

 せっかく考えて言ってくれたのにと思うと申し訳なくなる。けれど、そんな詩月の言葉に、凪人は静かに首を振った。

「俺がしたいだけだから気にしないで。じゃあ、詩月には俺の行きたいところに付き合ってもらおうかな」

「いいよ、それでも」

 行きたいところなんてないのだから、それなら凪人が楽しいと思うところに行ける方がいい。

「さっきの中のどこかに行くの? それとも全然違うところ?」

「んー、秘密」

「え?」

 凪人は口元に一本だけ立てた人差し指を当てて微笑んだ。

「当日までのお楽しみってことで」

「当日って」

「今週の金曜日さ、創立記念日で休みでしょ。何か予定ある?」

「ない、けど」

「じゃあ、その日で。楽しみにしてて。あ、待ち合わせはいつもの交差点で」

 凪人が言い終えると、タイミング良く学校に着いて、周りが一気に騒がしくなる。ちらほらとクラスメイトの姿も見え始め、それ以上この話を続けることはやめた。

 今週の金曜日、一体どこに行くのだろう。

 そう考えると、ほんの少しだけ、心臓がどきどきと音を立てて鳴り響いた。


 その日が来るまで、何度も凪人に「どこに行くの?」「何か準備していくものはない?」と尋ねたけれど決まって「大丈夫だから」「詩月は何も心配しないで」と微笑まれ、結局詳しいことは何も教えてもらえないまま、約束の金曜日を迎えた。

 朝一で処方された頭痛薬を飲む。念のためにと一錠ポーチに入れて、それから姿見で自分の姿を見た。

 薄手のニットにカーディガン、スカートは膝丈デニム生地。夏は終わったとはいえ、日中はまだ汗ばむ日もある開き半ばにも合うm甘すぎず、けれどシンプルすぎない服装だと思う。決して気合いを入れすぎているようにも手を抜いているようにも見えないようにしたけれど。

「もうちょっと可愛い方がいいかな……」

 ワンピースにカーディガンを羽織ることも考えた。去年の秋に買ってもらった、お気に入りのワンピース。でも『デートじゃないのに気合い入れすぎだ』と思われるのが怖かった。

「そう、これはデートじゃない」

 ただ凪人が、詩月のために計画してくれた――。

「やっぱりデート、だったりする……?」

 デートなら、淡い水色のワンピースを着ていっても変ではない。むしろその方がいい気がする。

「~~っ。もういい! 着たい方を着る!」

 誰かのためじゃない。自分のために、自分が着たいものを着るんだと、詩月は着ている服を全て脱いでクローゼットに掛けてあった淡い水色のワンピースを手に取った。

 カーディガンを羽織り姿見を見る。先ほどまでの格好よりも似合って見えた。


 着替えたせいで、予定よりも家を出る時間が遅くなってしまった。平日でとっくに誰もいない家を出て鍵をかける。待ち合わせ場所はここから五分もかからないところだから、ギリギリ間に合うはず――。

「おはよ」

「え?」

 鍵を鞄に入れ振り返ると、そこにはいるはずのない凪人の姿があった。

「どう、して」

「迎えに来た」

「え、あ、ごめん! 私が遅かったから。ホントごめんね」

「え?」

 詩月の言葉に凪人は不思議そうに首を傾げた。待ち合わせ時間を過ぎても詩月が来ないから迎えに来た、のではないのだろうか。

 同じように首を傾げた詩月に、凪人はまるで心を読んだかのように言った。

「まだ待ち合わせ時間は来てないよ」

「それじゃあどうして?」

「俺が早く会いたかったから」

「……っ」

 凪人の言葉に思わず息を呑んだ。そんなこと言われるなんて想像もしていなくて、いったい何と言っていいかわからず鯉のように口をパクパクとさせてしまう。

「大丈夫?」

「う、うん」

 ドギマギしている詩月をよそに、凪人は「早く行こう」と詩月を急かした。

「少しでも早く行って早く会いたいんだ」

「え?」

「え? って何が?」

 聞こえてきた言葉の意味がわからず、思わず呟いた詩月に凪人が首を傾げた。

「え? ってどうしたの? 詩月は早く会いたくないの?」

「会いたいって、誰に?」

「今から行くところにいる子だよ」

 それ以上のことは教えてくれず、凪人は「行くよ」と言うと駅の方角に向かって歩き出した。

 詩月はどこかモヤモヤが残ったまま、それでも置いて行かれないように慌てて凪人を追いかけた。


 目的地を知らされないまま、詩月は駅へと向かい、電車に乗る。乗った電車のおかげで、目的地がどこの駅であるかはわかった。けれどそれ以上のことはわからず、もう一度凪人に「どこに行くの?」と尋ねたけれど、この後に及んでも答えてくれることはなかった。

に着くと、バスに乗り換えた。ここまで来るとさすがの詩月でも目的地がどこなのか漸くわかった。

 二人がけの席に並んで座った詩月は、隣に座る凪人の耳元で小声で尋ねた。

「水族館?」

 詩月の問いかけに、慌てることもなく凪人は笑った。

「あ、バレちゃった」

「そりゃこのバスに乗ったらバレるよ」

 乗り場にも大きく『水族館行き』と表示されていた。

「それもそっか。失敗しちゃったな」

 そう言って笑う凪人が、言葉ほどには隠す気がなかったことに気付いてしまう。

「じゃあ京都水族館にいる会いたい子って誰?」

「それは会ってからのお楽しみ」

「ヒントだけでも」

「えー、じゃあモフモフしてる子です」

「水族館なのに、モフモフ?」

 必死に考えるけれど、そんな生き物いただろうかと首を傾げてしまう。もっとヒントが欲しかったけれど、それ以上凪人が口を開くことはなかった。

 肝心なところは教えてくれないことを不服に思いつつ、少しだけワクワクしている自分もいることに気付いた。

 それから――会いたい子、が女の子じゃなくて良かったと安堵していることも、認めないわけにはいかないようだった。


 バスは駅を出てから十分ほどで水族館に着いた。バスを降りて水族館の方へと向かうと、左手には芝生の広場が、右手には水族館の建物があった。

「そういえば私、ここの水族館来るの初めてだ」

「そうなの? でもたしかに、遠足とかでも来なかったし、俺もそんなに何回もは行ってないな」

『何回かあったとは、はいったい誰と来たの?』とか、そんな問いかけを、しても許されるのだろうか。隣に座る凪人は近いはず直に、何故か今日は遠くにいるような、そんな気がした。

 チケットを買うのかと思いきや、凪人はそもまま入場口へと向かう。

「凪人? チケットは?」

「貰った優待チケットがあるから大丈夫」

 そう言うと凪人はチケットをもぎる女性の方へと歩いて行く。置いて行かれないように、詩月も慌てて凪人のあとを追いかけた。

 川の生き物や大水槽など、色々と水槽を順々に見て行く。楽しかったし、興味深かったけれど、凪人の会いたい子がどの子なのか、未だにわからなかった。

 しばらく魚や海獣を見ていると、不意に凪人が「こっちこっち」と詩月を手招いた。

「凪人? どうした――わ、ペンギンだ!」

 そこはペンギンエリアで、たくさんのペンギンたちが泳いだりちょこちょこと歩いたりしていた。あまりの可愛さに、詩月は思わず視線を奪われる。

 と、気付けば凪人の姿がなくなっていた。

「え? 凪人?」

 ついさっきまでそこにいたはずなのに、どうして。どこに行ってしまったのかと不安に思っていると、通路の影から凪人が顔を出した。

「詩月、ついてきて。大丈夫だから」

 そこはスタッフオンリーの場所で、本来であれば詩月や凪人は入ることができないはずだ。本当に入ってもいいのだろうかと不安に思いながらも「大丈夫だから」と言った凪人の言葉が嘘を吐いてはいなかったので、詩月はついていくことにした。

 普段は見ることのできない場所に視線をあちこちに向けつつ、凪人が入っていった部屋へと向かった。そこには一匹の小さな生き物がいた。

「これって……ペンギンの赤ちゃん……?」

 ふわふわの綿羽に包まれたちいさな生き物は、テレビでしか見たことのないペンギンの雛だった。

「よくわかったね」

 その声は凪人のものではなかった。慌てて顔を上げると、そこには水色のエプロンを着けた女性の姿があった。

「えっと……」

「俺の従姉妹。ここで働いてるんだ」

「はじめまして。春岡沙耶香って言います」

「あ、はじめまして。星野詩月です」

 にこりと笑みを浮かべると、どことなく凪人と似ている気がした。凪人曰く、沙耶香は詩月たちよりも十五歳年上で、この水族館で働いているそうだ。

「ねえ、この子が凪人が会いたかった子?」

「そう。可愛いだろ? 沙耶香ちゃんから写真見せてもらってからずっと会いたくてさ」

 視線をペンギンの雛から動かすことなく、凪人は言う。そうやって笑っている凪人が妙に可愛くて、つい笑ってしまいそうになる。

「なに?」

「ううん、ホント可愛いなって思って」

「なんか違う気がするんだけど。まあいいや。ねえ、沙耶香ちゃん」

 凪人から声をかけられると、沙耶香は頷いて詩月に向き直った。

「詩月ちゃん、今この部屋にはこの子一匹しかいないよね。でもね、本当は同じ時期に生まれた赤ちゃんペンギンは四匹いたの」

「え、じゃあ残りの三匹は?」

 一瞬、嫌な予感が脳裏を過る。けれど、そんな詩月の不安を払拭させるように沙耶香は微笑んだ。

「残りの三匹は、ペンギンエリアでお母さんペンギンと一緒にいるわ。この子はね、人工育雛じんこういくすうの必要があると判断されてここにいるの」

「人工、育雛?」

「ええ。……この子はね、他の雛よりも小さく生まれたせいでお母さんペンギンから見捨てられてしまったの」

「え……」

 沙耶香の話は詩月にとっては衝撃的なものだった。

「動物にはよくあることよ。生き抜ける可能性のない子どもを捨てることは。でも、私たちはこの子の生きる力に賭けてみたいと思って、こうやってバックヤードで育てているの。少しずつだけれど成長もしているわ」

 ホッとすると同時に、どうして沙耶香がそんな話を詩月にするのかがわからなかった。小さな小さなペンギンの雛は容器に敷かれたタオルの上で、懸命に動いていた。

「ねえ、詩月ちゃん。この子にはまだ名前がないの。いつもは公募でつけるのだけれど、もしものことがあれば……ということもあって、まだつけられてはいないわ。詩月ちゃん、あなたがこの子の名付け親になってあげてくれない?」

「私が、ですか……?」

「ええ。つけてあげてほしいの」

 その瞬間、凪人がここに詩月を連れてきた理由が漸くわかった。このため、だったんだ。

「でも、私……」

 この子に詩月が名前をつけて、詩月が死んでしまうようなことがあれば――。そんなことを思うと、引き受けることを躊躇ってしまう。

「そう重く考えなくてもいいの。ただ私は、この子にも、あなたにも生きていてほしいって思ってる。だから希望を込めて名前を付けて欲しい。そう思ってるんだけど、駄目かしら?」

「そんなこと、言われても……」

「ちなみにこのままだとこの子の名前は『シヅキ』になります」

「え?」

 沙耶香はイタズラっぽく言うと片目をつぶった。

「命名は凪人です」

 素知らぬ顔でそばに立つ凪人と、それからペンギンを見比べた。凪人の表情はまるで『自分の名前を付けられたくなかったらちゃんと名前を考えろ』と言っているように見えた。

 ペンギンの雛を見つめる。小さな身体を動かして、生きることを諦めていないその姿は、詩月とは似ても似つかない。詩月よりも――。

「本当に、私が付けていいんですか?」

「ええ。大丈夫よ」

「どんな名前でも?」

 頷く沙耶香に、詩月は口を開いた。

「『ナギ』」

 詩月の隣で、凪人が息を呑んだのがわかった。

「この子の名前『ナギ』がいいです」

 沙耶香は笑いを必死に堪えると「わかったわ」と頷いた。

「ちょ、待ってよ。沙耶香ちゃんも「わかったわ」じゃないって」

「諦めなさい。私は詩月ちゃんにどんな名前でも付けていいって言った。その詩月ちゃんが付けた名前が『ナギ』なんだから、この子は今日から『ナギ』よ」

「えぇ……マジか……」

 ペンギンの雛を見ながら「ナギ……お前はナギなんだって」と凪人が呟いているのを見ると、笑いがこみ上げてくる。

「何を笑ってんの。諸悪の根源が」

「ナギも凪人も可愛いなって思って」

「なんだそれ」

 そう言いながらも、凪人の表情が柔らかくなるのを感じる。それに呼応するように、ナギもタオルの上で小さな鳴き声を上げた。


 バックヤードを出たあとは、他のコーナーも一通り見て回り、詩月と凪人は水族館をあとにした。沙耶香は「またいつでも遊びに来てね」と人のいい笑顔を浮かべていた。

「素敵な人だね、沙耶香さん」

「まあ今でこそな。昔は怖かったんだよ。十五歳も上なのに、ちょっとしたイタズラに本気で怒ってさ」

「何やったの?」

 呆れたように尋ねる詩月に、凪人は「ナイショ」と笑った。

 ちょうどお昼時になったところで、このあとはどうするのかと尋ねると、凪人は「カフェに行く」と言って歩き出した。どうやら目的地はこの近くにあるようだった。

 そこはまるでおとぎ話に出てくるような店だった。鬱蒼と生い茂る木々を抜けると、小さな一軒家があった。

 重たい扉を押し開けると、中は木でできた落ち着いた雰囲気のカフェになっていた。

「俺は季節のオススメプレートにするけど、詩月はどうする?」

 向かい合って席に座ると、凪人は詩月にランチメニューの載ったメニュー表を差し出した。一通り見終えて、詩月も凪人と同じものを頼むことにした。

「ここ、毎シーズン違うメニューが出てくるんだけど、それが楽しみでつい四半期に一回来ちゃうんだよね」

 嬉しそうに言う凪人にこちらまで嬉しくなってくる。詩月はふと思い出して、凪人に話しかけた。

「ねえ、さっきにのペンギンの名前。勝手にごめんね」

「ん? 俺の名前をつけたこと?」

 凪人の言葉に、詩月は頷いた。すると凪人は「大丈夫だよ」と笑みを浮かべる。

「最初から詩月につけてって言ってただろ? だから、詩月がつけるならなんでもよかったんだよ。まあ、まさか自分の名前がつくとは思ってなかったけど」

 そう言うと、凪人は笑顔を引っ込め、真面目な表情で詩月を見た。

「なんで俺の名前を付けたの?」

「……凪人に似てるなって思って」

「俺に? 似てた?」

「うん。……ちゃんと前を見て、諦めることなく、前を向いて生きているところが似てる」

 詩月の言葉に一瞬、表情を崩し、それからどうしてか凪人は泣きそうな顔を見せた。凪人のそんな表情を今まで見たことがなかった詩月は、思わず動揺してしまう。いったいどうしたというのだろうか。

「凪人……?」

「……俺は、そんな――」

「どうか、した?」

「……いや、なんでもない。そっか、詩月からは俺ってそんなふうに見えてるんだ」

 そう言って笑う姿はいつもと同じで、詩月は安堵した。きっとさっきの表情は見間違い。そう自分に言い聞かせながら。


 季節のオススメプレートは凪人の言う通り絶品だった。秋の味覚がふんだんに使われていて、特にこの辺りで取れたという栗を使ったモンブランは、今まで食べた中で一番美味しいとさえ思わされた。

「ちなみに去年の冬は柚子を使ったデザートだった」

「柚子! え、凄く美味しそう!」

「春は苺」

「なんで連れて行ってくれなかったの!」

 思わず理不尽に怒る詩月に、凪人は笑う。そして。

「……来年、またあるよ」

 そう呟いたのを、詩月は聞き逃さなかった。けれど、その言葉に対する返答を、まだ持っていない詩月は、曖昧に微笑むことしかできなかった。


 そのあとは再びバスで移動し、映画を見に行った。ショッピングモールの最上階。そこにはいくつか上映中の映画のポスターが並んでいた。

「どれを見るかもう決めてるの?」

 泣ける恋愛映画からホラー、SFと色々な映画が上映されているようだった。詩月の問いかけに少し考えるような素振りを見せたあと、凪人は言った。

「ホラーとSFだったらどっちがいい?」

「SF」

「やっぱり?」

 頷く詩月に凪人は「ここで待ってて」と言い残しチケット売り場へと向かう。一人になった詩月は飾ってあるポスターを見上げる。SFは未来からやってきたヒーローが、自分が消えない未来を作るために過去に現れた敵と戦うスペクタクルファンタジーらしい。

 あらすじを読み終えると、詩月は一つ隣に掲示された恋愛映画のポスターへと視線を向けた。どれがいい? と尋ねたときに、泣ける恋愛映画を候補にいれなかったのは、凪人なりの気遣いだろう。

「『余命一年の恋人』か」

 白血病で余命一年と宣告されたヒロインと、交通事故で記憶をなくしてしまったヒーローの切ない恋の物語、と書かれていた。予告がテレビで流れていたので、この物語が悲しい結末を迎えることを、詩月は知っていた。

「何見てるの?」

「凪人」

「お待たせ」

 いつの間にか戻ってきていた凪人は詩月の隣に立っていた。手には二枚のチケットがあった。

「あ、チケット代払うよ」

「俺が誘ったんだから、これぐらい出させて」

「でも……」

「いいから。ね?」

 そこまで言われて「でもやっぱり」とは言えず、詩月は躊躇いながらも頷くとチケットを受け取った。

「ポップコーンか何か買う?」

「うーん、ご飯食べたばかりだからお腹空いてないかな」

「そっか、じゃあそのまま中に入ろうか」

 並んで映画館の中に入る。平日ということもあって、そこまで客は多くないようだった。

 映画の予告が始まって、子どもの頃に見ていたアニメの続編映画や先日までテレビで放送されていたドラマの完結編など、詩月でも知っているタイトルがいくつか流れた。そして――。

「余命一年の恋人」

 タイトルコールが聞こえた瞬間、まだ薄明かりの残る館内で、隣に座る凪人の肩がビクリと震えたのがわかった。

 それはテレビで見た予告よりも少し長いものだった。一度は寛解した白血病。けれど再発が告げられ、ヒロインはヒーローの幸せを祈って姿を消す。再び二人が出会えたのは彼女の命の灯が消える寸前だった。痩せ細り、変わってしまったヒロインのことをヒーローは一途に愛し続けるけれど、ついに別れの時がやってくる……。

「は……ぁ……は……っ」

 大丈夫、気にしていない、これは映画であって物語であって詩月とは何の関係もない。そう思おうとするのに、鼓動が大きな音を立てて鳴り響く、手が小刻みに震えて止まらない。怖い。いつか自分もあんなふうに再発を告げられ、そして命に終わりが来るのではないかと、怖くて怖くて仕方がない――。。

「詩月」

 詩月にしか聞こえないぐらいの小声で、けれど確実に詩月の名前を呼ぶ凪人の声が聞こえた。

「大丈夫だから。しんどかったら目閉じとけばいい。耳も塞いでおけばいい。映画が始まったら言うから」

 凪人の声が優しく詩月のことを包み込む。ほんの少しだけ鼓動を刻むリズムが、落ち着きを取り戻していく。

 目を閉じて二度、三度と深呼吸を繰り返すうちに、気付けば予告は別のものへと変わっていた。

「……大丈夫?」

 心配そうな凪人の声が聞こえ「うん」と小さな声で返事をする。詩月の答えを聞いて、凪人がホッとしたように息を吐くのがわかった。

 コメディ映画の予告を挟み、ようやくSF映画が始まった――。


「んー、おもしろかった!」

 二時間半後、詩月は館内の電気がつき、明るくなった客席で伸びをする。あらすじに書かれていた以上に面白くて、あっという間に二時間半が経ってしまった。

「ね、おもしろかったね。特にヒーローが敵を未来の武器ではなくて自分自身の手で倒すところとか」

 席を立ちながら言う凪人に、詩月は興奮したように手を打った。

「あそこもよかった! それから、過去で仲良くなった女の子ともう絶対に会うことができないことがわかっているのに「また会おう」って言って未来に帰っちゃうところも凄く切なかった! 私ちょっと泣いちゃったよ」

「ちょっと? だいぶ鼻をグズつかせていたように思うけど。まだ目赤いよ?」

「え、嘘」

「ホント」

 そんなに泣いたつもりはなかったのだけれど、思ったよりも目が赤くなっていたようだ。

「少し休んでから行こうか。そのまま外に出たくないでしょ」

「ありがと」

 近くにあったベンチに座ると、凪人は詩月に何かを手渡した。

「ウェットティッシュ?」

「目に当てるといいかなって」

「ふふ、凪人ってなんでこんなの持ってるの?」

 笑いながらも詩月はそれを受け取ると、赤くなっているらしい目に当てる。ヒンヤリと冷たくて火照った目に気持ちがいい。

 暫くそうしていると、凪人の声が聞こえた。

「さっきの映画、ごめん」

 一瞬、何のことを言っているのかわからなかった。けれど、すぐに予告のことを言っているのだと思い当たった。

「ううん、大丈夫」

「本当に……? 無理、してない?」

 その声があまりにも不安そうで、詩月は目の上に載せたウェットティッシュを取って凪人を見た。声よりもその表情の方が不安に覆い尽くされていた。

「うん……。本当はね、少し苦しかったけど、凪人がそばにいてくれたから」

「詩月……」

「それにね、映画がすっごく面白かったから途中から予告のことなんて忘れちゃってたよ」

 詩月の言葉に、凪人はホッとしたように笑った。

「あーでもあの二人、もう二度と会えないんだよね。絶対想い合ってたのに、気持ちを伝えることなく離れちゃったの凄く悲しい」

 見ているときは、どうして気持ちを伝えないのかと思っていたけれど、見終わった今ならあれでよかったのかもしれないと思う。だって、伝えたとしてもヒーローが未来に帰ることは決まっていた。それならもう二度と会えないのに気持ちを伝えて余計に悲しい思いをさせることもない。――そう、伝えても仕方がないなら伝えない方がお互いのためなんだ。

 隣に座る凪人に気付かれないように視線を向けた。きっと現実的な考え方をする凪人も同じように考えていると思って。けれど凪人は「そうかな」と言った。

「もしもう二度と会えないとしても、そのとき彼らが想い合っていたということは消えないから、それなら伝えても良かったんじゃないかと俺は思うよ」

「もう会えなくて苦しい想いをするのに?」

「苦しい想いをするかもしれない。でも、その想いが彼らのことを支えてくれるかもしれない」

 凪人の言うことはわかるようでよくわからない。そんな気持ちが表情に出てしまっていたのか、詩月を見て凪人はふっと笑みを浮かべた。

「伝えなかったからと言って想い合っていた事実はなくならないんだよ」

「事実は、なくならない」

「そう。一瞬でもいい、好きな子が自分のことを好きだったって知ることができたら、きっとなんでも乗り越えられる。そんな気が俺はする」

 映画の感想を話しているはずなのに、凪人の言葉に詩月は自分の鼓動が早くなるのを感じる。自分の好きな人が――凪人が――自分のことを――詩月のことを――好きだって知ることができたら――。

「それにね、あの映画って実は続編の公開が予定されてるんだ」

「え、続編があるの?」

「そう。なんと今度はヒロインが未来に行くんだって。ヒーローに会うために」

「好きな人に会うために、未来に……そう、なんだ……」

 未来に行ってヒロインはどうするのだろう。いつかはきっと過去に帰らなければいけないのに、それでもヒーローに会いに未来へ向かって、彼女は何と言うのだろう。

「……見たいなぁ」

 ポツリと呟いた言葉に、凪人だけでなく詩月自身も驚きを隠せなかった。

「え、あ、私……」

「映画、来秋公開だって。ちょうど一年後だね」

「一年後……」

 一年後、自分はいったい何をしているのだろう。どうなっているのだろう。生きて、いるのだろうか。

「……知っててこの映画にしたの?」

 詩月の言葉に、凪人は黙ったまま小さく頷いた。

 生まれたてのペンギン、季節限定のランチ、そして続きの公開が決まっている映画。どれも詩月に未来を求めさせるためのものだった。

『生きたい』

 また水族館に行って、あの子が、『ナギ』がペンギンエリアで歩いているところを見てみたい。冬の、そして春のランチを食べて、二人の物語がどういう結末を迎えるのかをこの目で確かめたい。けれどそのためには手術を受けなければいけない。百パーセント成功するとも限らない手術を。死ぬことと引き換えに決断することは、まだ詩月にはできなかった。

 詩月は黙ったままベンチから立ち上がった。

「詩月……!」

「……帰ろっか」

「でも……」

「ごめんね、今日はもう……」

 なんとか笑みを浮かべる詩月に、凪人は「ごめん」と呟いて立ち上がった。

 さっきまであんなにも楽しかったのに、今はまるでお通夜のように無言のまま並んであるく。

『詩月が生きたいって思うこと、絶対に見つけてみせる』

 あのとき、凪人はたしかにそう言っていた。けれどそんなこと本当に見つかるのだろうか。今もどうせ助からないかも知れないのであれば、手術なんてせずに死ぬ方がいいと本気で詩月は思っていた。

 でも――。

 凪人は落ち込んだ様子で詩月の隣を無言で歩き続けていた。後ろではなく、隣を。

 あの日以来、ずっと後ろを歩いていた凪人の心境の変化を詩月は知らない。ううん、知ろうとしてこなかった。自分のことばかり考えて、凪人のことを考える余裕なんてこれっぽっちもなかった。凪人はずっと詩月のことを考えて、詩月のために動き続けてくれたというのに。

 ふと、帰り道の掲示板に一枚のポスターが貼ってあることに気付いた。それは、二人の関係を変えてしまった、あの秋祭りのポスターだった。

 この秋祭りがなければ、今みたいに凪人と歪な関係になることはなかったのかも知れない。そう思うと、この祭りが憎くて仕方がない。もしあの映画のように、過去に戻ることができたのなら『絶対にお祭りに誘っちゃ駄目』とあの日の自分自身に伝えるのに。

「あ……これって」

 詩月があまりにもジッと見つめていたからだろうか。凪人も足を止め、ポスターに視線を向けた。

「……ねえ、詩月。この――」

「行かないから」

「え?」

 まだ何も言っていない凪人の言葉を遮ると、強い口調で拒絶する。行きたくなんかない。生きたくなんかない。

「そ……っか、そうだよね」

 凪人は詩月の言葉に、寂しそうに微笑んだ。その表情に胸が引き裂かれるように痛む。こんな顔をさせたいわけじゃないのに、どうしてこうなってしまうのだろう。

 そんな顔をするぐらいなら、どうしてあの日、待ち合わせ場所に来てくれなかったの……。

 喉まで出かかった問いかけは、あの日からずっと飲み込み続けてきたものだった。もう今さら聞くことはできない。答えを聞くのも、今さら何を言ってるんだと思われるのも怖かった。

「後悔ばっかりだ」

「詩月?」

「なんでもない。じゃあ、私帰るね」

 いつも待ち合わせに使う交差点で、詩月は凪人に手を振って、それから自宅まで駆けた。振り返ることなく、一心不乱に。そうじゃないと、溢れた涙が、こぼれ落ちてしまいそうだったから。

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