第四章

 凪人と一緒に病院に行ってから三日が経った。予約の日まであと一週間。詩月はまだ、母親に病院に行ったことを言えずにいた。

「詩月? どうかした?」

「え、あ、ううん。どうもしてないよ」

 食卓で朝食に用意されたトーストを持ったまま呆けていたようで、動かない詩月を不思議に思った母親に声をかけられた。

 どうもしていないわけがない。けれど、言えばきっと母親はショックを受けてしまう。そう思うとどうしても言えなかった。

「早く食べないと遅刻するぞ」

 詩月の向かいで、食パンにママレードを塗りながら父親は言う。高校生よりも社会人の方が始業時間が遅いなんて理不尽だ、と思いながら手に持ったトーストを三口で食べきると、コップに注がれたオレンジジュースを流し込み詩月は立ち上がった。

「じゃあ行ってきます」

「はい、気をつけてね」

「いってらっしゃい」

 両親はにこやかにほほ笑みながら、詩月がリビングを出て行くのを見送っていた。

 言えないと思ってはいても、いつかは言わなければいけないことはわかっていた。次に行くときは両親のどちらかに来て欲しいと、広瀬は言っていた。少なくともあと一週間以内には、病院行くことを言わなければいけない。でも。

「はぁ……。あれ? お弁当箱」

 重いため息を吐きながら、カバンを手に取った詩月は、弁当を持ってくるのを忘れたことに気づいた。取りに戻ろうと、リビングのドアに手をかけた――。

「詩月が元気になって本当によかった」

 瞬間、リビングから両親の会話が聞こえてくる。少しだけドアの隙間を開けると、詩月は息を殺した。

「そうだね。今年で、あれから六年か」

「無事今年を乗り越えられそうで安心してるわ」

「そうだね……。もうあの子には、辛い思いをさせたくないからね」

 両親の会話は、詩月の胸に突き刺さる。あんなふうに思ってくれている二人に、どうやって再発かも知れないことを伝えろと言うのだろう。そんな酷なこと……。

 ふう、と息を吐くと詩月は口を開けた。

「あー! お弁当忘れちゃった!」

 詩月はわざとらしく大きな声で言うと、数秒待ってリビングのドアを開ける。少し驚いたような表情を浮かべながら、母親は動揺を隠すように言った。

「な、なに? お弁当?」

「そう! 危うく忘れていきそうになっちゃった! 危なかったー! 玄関のドア開けようとしたところで気付いて、慌てて戻ってきたよ!」

 さも、今までの会話は聞いていませんでしたよ、とでも言うかのような詩月の言葉。冷静に考えれば白々しいし怪しいのに、母親はあからさまにホッとした表情を見せた。

「もう、ドジなんだから。はい、ちゃんと持って行ってね」

「ありがと! あのまま出発してたら、昼休みにお腹空きすぎて倒れるところだった!」

「大げさね。さあ、早く行きなさい」

「はーい、今度こそ行ってきます!」

 精一杯の明るさでそう言うと、詩月はリビングのドアを閉めた。

 まだだ。まだ崩れる訳にはいかない。

 靴を履く時間も惜しくて、かかとを踏んだまま玄関を飛び出した。外に出ると、詩月はその場にしゃがみ込む。

 上手く笑えていただろうか。明るく装えていただろうか。

 このままじゃいけないことはわかっているのに、幸せそうに、そして切なそうに話す二人の姿に、まだその決断を下すことが詩月にはできなかった。


 気が重いまま、一日二日と時間だけが過ぎていく。話さなければと思うのに、理由を付けて先延ばしにしてしまっていた。

 このままではいけないとわかっているのに。

「はぁ」

 帰り道、思わず詩月は溜息を吐いた。家に帰れば、母親がいる。病院の予約はもう明日に迫っていて、これ以上逃げ続けることはできなかった。

「どうした?」

 心配そうに隣を歩く凪人が詩月の顔を覗き込んだ。

「……帰りたくない」

「何かあ――まさかと思うけど、ご両親に病院のこと」

「言えてない……」

「予約、明日じゃなかったっけ……」

 無言のまま頷く詩月の隣で、今度は凪人が溜息を吐く番だった。

「言わなきゃいけないのは、わかってるんだけど……」

「言いにくい気持ちは、わかるけど……」

 帰り道で立ち尽くし、詩月と凪人は俯いたまま黙り込んでしまう。

 暫く黙ったままいた凪人だったけれど、突然「よしっ」と顔を上げた。

「とりあえずどこか行こう」

「え?」

「ってかさ、お腹空かない?」

「す、いたと言えば空いた、けど」

 けれど、それとこれに何の関係があるというのだろうか。そう思う詩月をよそに、凪人はそのまま歩き出す。

「ちょっと、どこに行く気なの?」

「クレープ食べたい」

「クレープ?」

 凪人の行動について行けない。仕方なく詩月はどこかに向かう凪人の隣を歩き続けた。

 十五分ほど歩いた詩月たちは、複合施設の中に入っているクレープ屋の前に立っていた。

「本当にクレープ屋来たし」

「だからクレープって言ったじゃん。詩月何にする?」

「え、えっと。それじゃあバナナキャラメルクレープで」

「おっけ。すみません。バナナキャラメルクレープとシーチキンサラダクレープを一つずつ」

 注文を終えた凪人は「しばらくかかるらしいから」と詩月を促し近くのベンチに座った。

 辺り一面に、クレープの甘い匂いが漂い始める。

「いい匂い」

「ホントにな」

 ふわっと香る甘い匂いにだんだんとお腹がすいてくる。それは凪人も同様だったようで「まだか店員さんに聞いてくる」と言って席を立った。

 その拍子に凪人のポケットからスマートフォンが落ちた。ケースも何も入れていなかったそれは、小気味いい音を立ててベンチから落下した。

「え、これ……。凪人!」

 どうしたらいいか悩み、凪人を呼ぶけれど店員さんと何かを話しているようで、こちらの声は聞こえていなかった。

 仕方なく拾い上げたそれをチェックする。傷は入っていないみたいだけれど、スマホ自体はどうだろうか。衝撃に弱いせいで、コンクリートの上に落とし外傷はないの電源が入らなくなったことを思い出す。

 詩月は凪人のスマホの電源ボタンをそっと押してみる。すると画面は即座に変わり、代わりに先ほどまでサイトが開いていたであおるページが目に飛び込んで来た。

「『眠り病』……? 何、これ」

 ページに書かれていた説明によると、身体の中の毒素を中和するために眠りについてしまう現代の奇病らしかった。そんなページをどうして凪人が見ているのだろう。

「お待たせ。……って、何やってるの」

 片手に一つずつクレープを持って凪人は戻ってくるけれど、詩月の手に自分のスマホがあることに気付いて慌てて駆け寄ってきた。

「なんでこんな……」

 咎めるように凪人は言うから、詩月は慌てて釈明した。

「さっき凪人が立ち上がった拍子にスマホが起きちゃったの。それで壊れてないかなって触ってたら電源が入っちゃって」

「……そう。でもやっぱり急に心配になるよ」

「……ごめんなさい」

 それっきり何も言えず、ただ俯いていた詩月だったけれど――。

「ごめん」

「え?」

「もとはと言えば、俺が落としたのが悪いからさ。もう気にしないで」

「わかった」

 結局何の解決もしていないけれど、行きよりも随分と楽しい気持ちを抱えたまま、詩月は自宅へと戻ることができた。


 

 数日後、詩月は再び大学病院の待合室にいた。凪人ではなく母親と一緒に。

 昨日の夜、凪人と二人でクレープを食べた帰り道、「話すとき、ついていようか?」という凪人の提案を断って、詩月は一人で両親と対峙した――。

 母親の趣味で物のあまりないシンプルなリビング。帰りが早かったのか、大きなビーズクッションに並んで座ってテレビを見ている両親。この和やかな空気を自分が壊してしまうのかと思うと、口を開く前から気が重かった。

「あ、おかえりなさい。遅かったのね」

 リビングの壁に掛けられた振り子時計は十八時を指し示してた。

「あ、うん」

「すぐご飯食べるでしょ? 早く着替えてらっしゃい」

 笑顔を浮かべる母親に「うん……」と返事をするものの、身体がまるで石になってしまったかのように動かない。

「詩月?」

 リビングの入り口で立ち尽くす詩月に、母親は不思議そうに声をかける。

 詩月は――努めて明るく、口を開いた。

「あ、あのね。今日病院に行ったの」

「え? 病院? どうして? え?」

『病院』という言葉に母親は過剰に反応し、父親も眉をひそめビーズクッションから立ち上がると、食卓の椅子に座った。

「……とりあえずここに座って。話しを聞かせてくれるかい?」

 父親の正面の席に座るよう促され、詩月は小さく頷いた。

 正面に難しい表情を浮かべた父親、その隣には今にも泣き出しそうな母親が座る中、部屋には振り子時計の振り子が揺れる音だけがやけに大きく響いていた。

「それで」

 どう切り出そうか悩んでいるうちに、父親が口を開いた。

「病院に行ったとのことだったけど、具合でも悪かったのかい?」

「……うん」

「どうして言ってくれなかったの!」

「……お母さん、少し落ち着いて」

 ヒステリックに言う母親をなだめるように父親は言う。「でも!」とまだ何か言いたそうではあったけれど、父親は静かに首を振った。

「今は詩月の話を聞こう。……それで、具合が悪いってことだったけど」

「……少し前から、頭痛くて」

「……なっ!」

 母親が息を呑んだのがわかった。父親は詩月に話を続けるよう促した。

「我慢、できるぐらいの痛みだったんだけどだんだん酷くなって……薬とかも飲んでたんだけど……今日、蹲ったまま動けなくなって。たまたま一緒にいた――凪人が病院に連れて行ってくれたの」

「凪人くんって、小学校時の、あの?」

 母親の言う『あの』に嫌悪感が込められているように感じたのは気のせいではないはずだ。小学五年生のあの日、母親には凪人と一緒にお祭りに行くと言ってあったから。

「うん。最初は救急車呼ぼうとしてくれたんだけど、私が断ったら「じゃあ病院に行くぞ」って――」

「断ったってなんで!?」

 詩月の言葉を遮るようにして、母親は声を上げる。そんな母親に詩月は。

「心配かけたく、なかったから」

 ポツリと呟いた詩月の言葉に、部屋の中は再び静まり返った。

「……心配ぐらい、させて」

「お母さん……」

 静寂を破ったのは、母親の今にも泣き出しそうな声だった。

「あのとき……詩月が救急車で運ばれて緊急手術になるって聞いたとき、どれほど私たちが怖かったか。心配どころか無事を祈るしかない状況で、無力さに打ちひしがれて……。今回もまたそんな思いを……」

「あ……」

 両親に心配をかけたくなかった。再発の不安に怯えるのなんて自分一人で十分だと思っていた。けれど、結果としてあの時と同じ思いを二人にさせることになるなんて思ってもみなかった。

「……ごめんな、さい」

「詩月」

 項垂れる詩月の耳に、父親の優しい声が聞こえた。

「詩月が僕たちのことを思って黙っていたんだろうってことはお父さんもお母さんもわかっているよ。詩月は人一倍、優しい子だから」

「お父さん……」

「でも僕たちは君の親だから。心配ぐらいさせてほしい。大切な子どもである詩月が一人で苦しんで不安に思っているのに、そばにいられないのは辛いよ」

「あ……」

 寂しそうに微笑む父親に、涙で顔をぐちゃぐちゃにした母親に、詩月は自分の行動が余計に二人を傷つけたことに気付いた。それから、二人がどれだけ自分のことを思ってくれているのかも。

 この話し合いの中――二人の胸元が光ることは、たったの一度もなかった。


 病院の予約を入れたその日、母親はパートのシフトが入っていた。けれど「詩月の方が大事だから」と休んだらしい。……そのかげで、何度も電話先に頭を下げていたのを詩月は知っていた。

 大学病院は詩月の自宅からバスで十分ほどの場所にあった。定期検査のときは気分転換も兼ねて自転車で行くこともあったけれど、今日は近くのバス停からバスに乗ることにした。検査をするとのことだったので、帰り詩月が自転車を運転できるコンディションかどうか定かじゃなかったから。

 二人がけのバスの席に母親と並んで座る。黙ったままの母親は時折不安そうに拳を握りしめたり開いたりしていた。

 病院に着いた詩月は、受付を済ませる母親を空いていた椅子に座りながら見つめる。平日の午前中だというのに、病院の中は随分と混み合っていた。

「しんどくない? 大丈夫?」

「うん、今日は平気」

 母親に笑顔を向けながらも頭を締め付けられるような、それでいて刃物で突き刺されるような痛みは続いていた。

 検査をするということもあって、さすがに今日ばかりは薬を飲むのをやめていた。ここ数日は気休めでしかなかった薬だったけれど、飲まないとなると気休めといえど微かに効いてはいたのだと思い知らされる。

 再発だと診断されるのが怖くて、頭の痛みから逃げていたし目を背けていた。けれど、こうなってしまえば早く診断してもらって薬を出してほしい。一秒でも早くこの痛みから逃れたかった。

 予約をしていたはずなのに、混んでいたからか呼ばれたのは三十分ほど待ってからだった。前回一人で入った診察室に今日は母親と二人で入る。

「こんにちは。具合はどうかな」

「この前ほどの痛みはそんなに。ただずっと頭は痛いです」

「そうか……」

 広瀬の眉間に今日も深く皺が刻まれる。そしてその話を聞いて、母親が慌てたように言った。

「ずっと痛いなんてそんなこと言わなかったじゃない」

「我慢できるぐらいだったし」

 そういうことじゃない、と言わんばかりの表情を母親は浮かべる。そんな二人のやりとりに苦笑しながら、広瀬はいくつか詩月に確認していく。

「あれから薬は?」

「薬の箱に書いてあるMAXの量を……」

「ちゃんと容量は守ってるね?」

「……はい」

 思わず目を逸らした詩月に広瀬は「しょうがないな」とため息を吐いた。

「とにかく検査をして、原因を突き止めよう。それじゃあお願いします」

 広瀬は近くにいた看護師に声をかけると、詩月を連れていくように言う。

「じゃあ、ついてきてください」

 看護師に言われて、詩月は診察室を出た。母親と、それから難しい表情を浮かべた広瀬を残して。


 朝一で来たはずなのに、検査が終わる頃には十六時を過ぎていた。ドッと疲れが出て、少し待っているようにと言われた待合室の片隅で、椅子に身体を預けるようにして倒れ込んでいた。

「お疲れさま……。結果が出るまでもう少しかかるみたいだから」

「そっか。……ねえ、お母さん」

「なに?」

「私が検査に行ったあと、先生と何を話していたの?」

 身体を起こすことなく、視線だけを母親の方へと向けると詩月は尋ねる。母親の表情が一瞬、強ばったのを見逃さなかった。

「たいしたことは話してないわ。前回の定期検査から今までどうだったとか、そういう話しよ」

 まるで用意していたかのように流暢に話す母親の胸元は、ぽわんと光っていた。嘘を吐いているのは明白で、けれど嘘を吐かせたのは他でもない詩月で。辛い想いをさせてしまっていることに、胸が苦しくなった。

「そ、っか。……ねえ、お母さん。もしも、もしもだよ。再発だとしたら、どれぐらい生きれるんだろ」

「馬鹿なこと言わないの!」

 午後の診察を待つ人たちで溢れかえる待合室で、母親の声が響いた。周りの人たちの視線を感じ、慌てて母親は頭を下げると、詩月に向かってもう一度「馬鹿なこと言わないの」と押し殺した声で言った。

「再発なわけないじゃない。それに……もし再発だとしても、初発のときだって助かったの。今回だってきっと大丈夫よ」

「……うん」

 今ほど、この能力を恨んだことはない。母親の胸元が光り続けるのを見ながら「そうだね」と詩月は力なく微笑んだ。自分がもう助からないことを確信しながら。

 暫くして詩月と母親が再び診察室へと呼ばれた。張り詰めた空気の診察室。そこにいた広瀬の、そして看護師の表情が硬かった。

「……検査の結果がでました」

 広瀬は視線を目の前の白いパネルへと向ける。そこには詩月のものと思われる頭部のCT画像があった。

「左が三ヶ月前、そして右が今日撮ったものです」

 何がどう違うなんて、一目瞭然だった。

「この部分に影があるのが見えるかと思います。これが詩月ちゃんの頭痛を引き起こしていたと思われます」

 伝えているようで肝心なことは伝わってこない。まるで奥歯に物が挟まっているような、そんな気持ち悪さを感じる。

「治療法としては――」

「先生」

 話を続けようとする広瀬の言葉を遮ると、詩月は真っ直ぐにその目を見た。

「つまり、どういうことなんですか」

「詩月ちゃん……」

「きちんと言ってください」

 詩月の言葉に、何かを確認するかのように広瀬は視線を上げた。まるで詩月の後ろに立つ母親の様子を窺うように。

「先生!」

 自分の話なのに、蚊帳の外にされるのは耐えられなかった。

「私の病気の話です。私には話を聞く権利があると思います」

「……そう、だね」

 観念したように詩月を見ると、息を吐いて、それから広瀬は口を開いた。

「再発かと思われます」

「あ……」

 やっぱりという思いとか病気に対するショックとか色々な気持ちが入り交じるけれど、それよりも――胸元が光ることなく、広瀬がきちんと本当のことを話してくれたことが嬉しかった。

「……私は、どうなるんですか? 死ぬんですか?」

「なっ」

 詩月の背後で、母親が息を飲んだのがわかった。けれど詩月には聞く必要があった。もう自分の知らないところでどうするかが決まって、何かが進んでしまうのはこりごりだった。

「……このままだと死ぬかもしれません」

「このままだと、ということは何か方法があるんですか?」

「方法は、一つだけ……昔と同じく手術をして腫瘍を取り除くことです。ただ……」

 話はそこで終わらず、どこか躊躇うように逡巡し、それから口を開いた。

「手術を受けても助かるとは限りません」

「どういう……」

「けれど、手術を受けなければ確実に――それも近いうちに、脳内を腫瘍が圧迫し、意識障害を起こし――やがて命を落とすこともあります」

「そんな……! なんとかならないんですか!?」

 ヒステリックに母親が言うのを、冷めた目で詩月は見つめていた。広瀬の胸元は今もなお光ってはいない。それはつまり広瀬が嘘を吐いていないことを示していた。

 手術をしなければ詩月は死ぬ。けれど、手術をしたとしても助からないかもしれない。

 偽りも、誤魔化すこともない広瀬の言葉は、まっすぐに詩月の胸に届いた。

 本来であれば、小学五年生のあの日に、死んでしまっていてもおかしくなかった。詩月にとって今こうやって生きていることは、ボーナスタイムのようなものだったのかもしれない。それなら、無理に手術をするよりも、残りの日数を腫瘍と付き合いながらも楽しくあやりたいことをして生きる方がいいのでは。そんな考えが胸を過った。

 でも……。

 今までの日々を、自分に誠実に生きてこなかっただろうか。やりたいことなんて、一つも思い浮かんでこなかった。

「――とにかく一日でも早く手術を」

 広瀬の声で、詩月は現実に引き戻される。

「はい、よろしくお願いします」

 隣に立って、母親は頭を下げていた。どうやら、いつの間にか手術をする方向で話が纏まったようだった。詩月の意思は確認されないまま。

「――待ってください」

「詩月?」

「詩月ちゃん?」

 遮るように言う詩月の言葉に、広瀬も母親も怪訝そうな声を上げた。

「手術を受けるかどうか、考えさせて欲しいんです」

「なっ……!」

 その瞬間、両肩を母親に掴まれた。

「何を言ってるの!」

 肩に母親の指が食い込む。こんなふうに力任せに何かをされたのなんて、生まれて初めてかもしれなかった。

「詩月! あなた自分の言ったことの意味がわかってるの!?」

「わかってる、つもりだよ」

「わかってたら言えるわけないでしょ! 手術を受けなければあなたは死ぬのよ!?」

「でも、手術を受けても死ぬかもしれないんでしょ」

「それ、は」

 詩月の言葉に、肩を掴んだ手に込められた力が緩んだのがわかった。

「どちらにしても死ぬかもしれないなら、受けないって選択肢についても考えたい」

「……受けなければ確実に死ぬとしても?」

 広瀬は真っ直ぐに詩月を見つめる。その目を、詩月も見返した。

「それでも。それを含めて、私の意思だから」

「……わかった。ただ手術を受けるなら、少しでも早いほうがいい。待てるのは二週間だ。それ以上かかるようなら、そのときは保護者の方の意見に基づいて、治療方針を決める。いいね」

 念押しするように言う広瀬に、詩月は静かに頷いた。隣に立つ母親が肩を振るわせて、静かに泣いているのがわかった。

 辛く苦しい想いをさせて、本当にごめんなさい。でも――。

 母親の涙には気付かないフリをした。気付いてしまえばきっと、自分の意思だけでは答えを出せなくなってしまうから。

 強めの痛み止めをもらって、その日の診察は終わった。市販薬よりも効果が高い代わりに、用法用量をきちんと守って飲んでね、という注意を添えて。

 

 翌日、朝目が覚めると身体がスッキリしているのに気付いた。

「……痛く、ない」

 久しぶりに痛みのない状態で朝を迎えることができた。夜に飲んだ処方された薬のおかげかもしれない。朝にも改めて一錠飲むと、詩月は学校に行く準備をした。

 家を出て暫く歩くと、前方に見覚えのある姿が見えた。凪人だ。

 一瞬、声をかけようかどうか悩んだ。けれど答えが出るより先に、凪人がこちらを振り返った。

「なっ」

「あ、やっぱり詩月だ。絶対そうだと思った」

 詩月に気付いた凪人は、こちらに駆けてくると優しく微笑んだ。

「おはよ」

「……おはよう」

「昨日休んでたけど体調悪かったり具合崩したりした? 今はもう大丈夫?」

「あ……うん、昨日はちょっと具合が悪くて。でも今日はもう大丈夫だから心配しないで」

「ならよかった」

 凪人は優しく微笑む。をの姿に胸の奥がギュッとなるのを感じる。

「詩月?」

「あ、ううん。なんでもない」

 慌てて誤魔化すと、凪人を促して詩月は歩き始めた。凪人は腑に落ちないような表情をしていたけれど、仕方なくといった様子で詩月の隣を歩く。

「……ねえ、詩月」

 暫くして、凪人がポツリと言った。

「昨日ってもしかして、病院に行ってた?」

「……っ」

 思わず、言葉に詰まってしまった。慌てて取り繕おうとするけれど、凪人は真っ直ぐ詩月を見つめている。その目にどうしても嘘は吐けなかった。

「……行った」

「そっか。検査、した?」

「……うん」

「そっ……か」

 どちらも検査結果については触れることなく、無言のまま歩き続ける。このまま学校に着いてしまえば逃げ切れる。他の人がいる前で、凪人は絶対に聞いてこないという自信と信頼があった。でも。

「ねえ、生きることを諦めないで」

 凪人の言葉に、詩月は心臓が止まるかと思った。どうして、それを。

「何か、誰かから聞いた?」

「いや。ただ詩月が、思い詰めたような表情をしていたから」

「私が?」

「そう。まるで死んでしまってもいいと、そう思ってるみたいな表情をしてた」

 凪人の言葉に、詩月は何も言えなくなった。実際にそう思っていたのは否定できない。

「……ねえ、詩月」

 前を向いたまま、凪人は言う。

「もしもさ、どうしようもないことがあって誰にも吐き出せないときは、俺に話してよ」

「……凪人に? 誰にも吐き出せないのに?」

「そう。なんだろ、その辺の壁だとでも思ってさ。誰かに話したら、少しは楽になることもあるよ」

 決して強制するわけではない凪人の言葉は優しくて、詩月の心の中にそっと染み渡っていく。そして――。

「再発、したって言われた」

「……そ、っか」

「今回もまた手術だって先生もお母さんも当たり前のように言うの。でも今回はなすがままに、気付けば手術を受けていた前回とは違うから」

 本音を吐露する詩月に、凪人は静かに尋ねた。

「……手術、受けないつもり?」

「それもいいかなって、思ってる」

「どうして……」

「……怖いから」

「怖い? 手術が?」

 手術もたしかに怖い。頭の手術ということは、頭を開く。お腹を切ったり、穴を開けたりするのとは全然違う。それに。。

「手術をしても、絶対に治るかなんてわかんないらしい。腫瘍を取っても助からないかもしれない。もしかしたら手術中にそのまま、なんて可能性もあるらしいし。どうせ助からないなら好きなことをして死ぬその日まで楽しく生きようってそう思ったの」

「そっか……」

 詩月は笑顔を浮かべる。心配をかけないように。

「それに、手術しなかったとしても今すぐに死んじゃうわけじゃないだろうしね。結果的に、手術するより長生きする可能性だってあるかもだし」

「うん……」

「だから、大丈夫」

「……本当に?」

 大丈夫、と言い切った詩月に、凪人は問いかける。

「本当に大丈夫なの?」

「なん、で? 大丈夫だよ」

 無理矢理笑みを浮かべるけれど、上手く笑えず引きつったような笑顔を作ってしまう。

「俺には、詩月が無理しているように見えたから」

「あ……」

「俺の前でぐらい無理せずに、本音で喋ってよ」

「……っ」

 凪人の言葉に、詩月の瞳から一つまた一つと涙が溢れ出す。頬を伝い、アスファルトに小さな染みをいくつも作っていった。

「しづ……」

「怖いの……」

「うん」

「私……怖くて、怖くて仕方がない……どちらを選んでも死ぬかもしれない。死ぬために手術するのも、死ぬために生きるのもどっちも嫌だよ……」

 涙を流す詩月の身体を、凪人はそっと抱きしめる。泣きじゃくる詩月の背中を何度も何度も優しく撫でた。

「俺がそばにいる」

「なん、で……」

 六年前の、後悔ならもういらない。罪悪感ならもう忘れてほしい。

「あんなの、凪人が悪いんじゃない。凪人と約束をしててもしてなくても倒れてた」

「でも、俺がいればもっと早く病院に行くことができた」

「そんなこと……!」

「詩月、あの日のことを今も後悔してるのは本当だよ。けどそれ以上に、俺が詩月に生きたいって思って欲しいんだ」

 顔を上げると、真っ直ぐに詩月を見つめる凪人の姿があった。その表情は苦しそうで、でもどうして凪人がそんな顔をしているのか詩月にはわからなかった。

「死ぬために手術を受けるんじゃない。生きるために手術を受けるんだよ」

「生きる、ため……。でも、なんのために生きたらいいかわかんないの」

 自分には何もないことを自覚してしまった。心を許した友達も、信頼できる人も誰もいない。夢中になれるものも、心から楽しめることもない。嘘がわかる能力のおかげで、常に人の嘘を浴び続けてきた。誰も信用なんて――。

「じゃあ俺のために生きて」

「な……」

「俺が詩月のそばにいる。詩月が生きたいって思うこと、絶対に見つけてみせる」

「そんなこと……」

 できるわけがない、適当に言っているだけ。そう思うのに、詩月の胸元は光ることなく、真っ直ぐに詩月を見つめ続けていた。

 あの日から、一度も嘘を吐いたことのない幼なじみ。凪人の言葉だけは、疑わなくていいことを詩月は知っていた。

 心臓の音がうるさくなるのを感じる。本気で伝えようとしてくれているからこそ、そんな凪人の言葉に、詩月の胸の奥が熱くなっていった。

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