幕間3
目が覚めると、今が何時か確認する。以前であればその行為は、寝坊しなかったか、学校に間に合うか、そのためのものだった。けれど、今は違う。
「十二時……」
スマホのディスプレイに表示された時間に、思わずため息を吐いた。今日は検査のために学校は休む予定にしていた。そうじゃなければ平日のこんな時間に目覚めなんてしたら大遅刻だ。
けれどその大遅刻を、この二週間ですでに四回も凪人はしてしまっていた。通常の時間に起きれたのは三回。その三回も、全てしつこく鳴り続ける目覚ましと、根気よく起こしてくれた母親のおかげで起きられていた。残りの三回は微妙な時間に目覚め、二時間目や三時間目から登校していた。結局、自分で決めた時間に目覚めることができたことは一度もなかった。
「……おはよ」
パジャマから私服に着替え、一階に下りる。母親が用意してくれていた朝食兼昼食を食べると、病院へと向かった。
午前の診療はとっくに終わり、午後の診療までは時間がある。そのせいで、大学病院の待合室はガランとしていた。検査の都合でこの時間に来ることになったのだけれど、時間を間違えていないか心配になるほど人の姿はなかった。詩月と一緒に来たときとは随分と差があった。
受付を済ませ、待合で母親と二人待っていると、凪人の名前が呼ばれた。診察室には――広瀬が待っていた。
「……どうも」
「こんにちは。この間はありがとね」
「別に」
広瀬の目の前の椅子に座るように促され、向かい合うように座る。こうやって詩月もこの部屋で、広瀬と対峙したのだろうか。
詩月を病院に連れてきたとき、主治医として現れたのが広瀬で凪人は驚くと同時に焦った。凪人と広瀬が初対面でないことが詩月に気付かれれば、病院に来たことがバレてしまう。病院に来たことがバレるぐらいならいい。お見舞いや付き添いで来たと誤魔化せるから。けれど、詩月と凪人が同じ医師に担当してもらっているということだけは、気付かれる訳にはいかなかった。
動揺を必死に押し込んで、咄嗟にはじめましてを装い、広瀬もそれに合わせてくれた。おかげで詩月に気付かれることはなかったのだけれど。
「ちょっと、先生に向かって何その口の利き方!」
詩月に付き添って病院に来たことを知らない母親は、不躾な息子の態度を慌てて咎める。
「母さんはちょっと黙ってて」
広瀬への態度に、そして口答えする凪人に母親が顔をしかめたのがわかったけれど、これだけは言っておかなければいけなかった。
「あの、俺のこと詩月に言わないで下さいね」
凪人の言葉に、広瀬は優しく微笑んだ。
「患者さんの個人情報を話したりはしないよ」
けれどその微笑みは、凪人には作ったような笑みにしか見えなかった。いざとなれば、手のひらを返すような。でも、それでは困る。
「話さなくても、俺のことを知ってるって詩月にバレないでほしいんです」
「……ここに来ていること、詩月ちゃんに知られたくないんだね」
広瀬の言葉に、凪人は静かに頷いた。今の詩月に余計な心配をかけたくない。再発かもしれないと怯えている詩月に凪人のことまで抱えさせたくないのだ。
たとえいつかバレたときに、詩月に怒られることになったとしても。
「わかった、気付かれないように気をつけるよ」
「ありがとうございます」
「ねえ、さっきから何の話? 詩月ちゃんって小学校からずっと一緒の詩月ちゃん? どうして詩月ちゃんの名前がここで出てくるの? まさか――詩月ちゃん、どこか悪いの……?」
状況についていけていないはずなのに、こういうときの勘が働くのは母親だからだろうか。不安そうに尋ねてくるけれど、幼なじみとは言え他人の病気のことを勝手に言う気にはなれない。
どう誤魔化したらいいかと考えていると、凪人が答えを見つけるよりも早く、広瀬が口を開いた。
「詩月ちゃん、昔ここに通ってまして、僕が担当を受け持っていたんです」
「あ……」
広瀬の言葉に、小学生の頃詩月が入院したことを思い出したらしい母親は「そういう……」と一人納得するように頷いた。
「今も定期検査で通ってまして。どうやら詩月ちゃんが凪人くんに検査の話をしたときに、流れで僕が担当だと気付いたみたいなんです」
嘘を言っているわけではないけれど、本当のことも言っていない。なんて自然にああいう言葉が出てくるのだと感心してしまう。
凪人がジッと見つめていることに気付いたのか、広瀬は母親に気付かれないように小さくウインクをして見せた。まるで『上手く誤魔化せただろう』とでも言うかのように。
広瀬の機転のおかげで助かったはずなのに、その仕草が妙に癪に障って凪人は思わず顔を背けた。
そんな凪人に苦笑いを浮かべながらも、広瀬は話を元に戻した。
「それじゃあ、今日は前回お伝えさせていただいたように脳波を調べる検査を行います。まずは――」
「ねえ、先生」
今日の検査の内容を説明しようとする広瀬の言葉を遮るようにして、凪人は尋ねた。広瀬の言葉を遮った凪人に母親は「凪人!」と慌てたような声を上げていたけれど、今さらもう怖いものはなかった。
「俺って『眠り姫』なんですか?」
凪人の言葉に、広瀬の表情が一瞬固まったのを見逃さなかった。
それは前回の診察のあと、スマホで検索して調べて出てきた病気の名前だった。正式名称は違ったけれど、長くて覚えきれず通称の方だけを覚えていた。
『眠り姫』それはだんだん起きていられる時間が短くなる謎の病。起きている間、原因不明の毒素が身体を蝕む。それを中和するために長い眠りを必要としている。毒素の中和が追いつかなくなると目覚めなくなってしまう、未だ治療方法の確立していない現代の奇病だった。
「……よく調べたね」
広瀬は感心したように言うけれど、その口ぶりは大人が子どもを相手にどう誤魔化そうかと悩んでいるように思えた。
「誤魔化さないで下さい。ナルコレプシーも調べてみたけど、俺とは症状が違う。それ以外の睡魔を伴う病気は日本では見つかっていないものばかり。そうなると候補はもうこれしか残っていないんだ」
まっすぐに広瀬を見つめる。広瀬は少し困ったような表情を浮かべたあと「凪人くん」と声をかけた。
「今はまだ何の病気かはわからない。この前言ったように思春期特有のものである可能性も残っている。今後の治療方針も含め、確実に何の病気か調べるために今日は来てもらったんだ」
「それはわかってるけど、でも!」
「僕は医者だからね。検査をすることもなくあやふやなことは言えないんだ。そしてそれが患者さんにとって一番誠実な向き合い方だと僕は思っている」
そんなふうに言われてしまうと、凪人はもう何も言うことができなかった。俯いて膝の上で自分の手を握りしめる。
――その瞬間、ふわりと詩月のぬくもりがよみがえった。小さく震えた手。冷たくて、強ばった手。どうにかあたためたくて、必死にずっと握りしめていた。
ほんの少しでも、詩月の手をあたためることはできただろうか。僅かでも、そばにいたことに意味はあったのだろうか。
「……わかりました」
頷いた凪人に、広瀬はあからさまにホッとしたように息を吐いた。
「それでも自分から病気について調べようと思う気持ちは悪いことじゃない。病気かもしれないことから目を逸らさずに、真っ直ぐ向き合っているってことだからね」
広瀬はそう言った後、近くにいた看護師に何かを指示した。
「この人が連れて行ってくれるから、凪人くんはついていってもらえるかな。お母さんは待合室でお待ちください」
頭を下げ、診察室から出て行く母親とは分かれて凪人は検査室へと向かった。歩くたび、まるで全身が心臓になったかのように、身体中から鼓動の音が聞こえてくる。どんな検査をするか、よりも検査をすることで病名が判明することの方が怖かった。
もしも『眠り姫』なのだとしたら、どうしたらいいのだろう。もし『眠り姫』だとしたら、このままどんどん睡眠時間が長くなれば、やがて凪人は目覚めなくなるだろう。そして――。
自分の最期を想像して、背筋が寒くなるのを感じた。
それに……。
凪人の脳裏に詩月の姿が過る。詩月にそばにいると言ったのに、もしも『眠り姫』なのだとしたらまた約束を破ってしまうことになる。もう二度と詩月に、ううん。詩月だけじゃない。誰にも嘘を吐かないと六年前のあの日、誓ったのに。
「詩月……」
でも――。
凪人はふと思う。
もしもいつか凪人が目覚めなくなった、詩月は悲しんでくれるだろうか。
そんな答えの出ない問いかけを考えつつ、凪人は看護師によって開けられた検査室のドアをくぐった。
全ての検査が終わり、再び凪人と母親が診察に呼ばれたのは病院に来てから三時間以上が経ってからだった。がらんどうだったはずの待合室は午後の診療に来た患者で溢れかえっていた。
「お待たせしました」
診察室に入った瞬間、答えを聞かなくても結果がわかった気がした。それほどまでに広瀬の、そして看護師の表情は固かった。
「……検査の結果が出ました。凪人くんが眠りから目覚めないのは、やはり――」
「『眠り姫』でしょ」
「……間違いないかと」
まるでお通夜かと言わんばかりの表情で、重苦しい空気を作りながら言う広瀬の言葉を、わざと遮ってみたけれど、凪人のことを咎める人間は誰もいなかった。
「確定なんですか?」
「……はい」
念押しをするように確認する凪人に、広瀬は神妙な面持ちで頷いた。
「血液を検査したところ、凪人くんの身体からは『眠り姫』患者特有の毒素が検出されました」
「あ、あの。さっきからおっしゃってる『眠り姫』ってなんなんですか? そんなふざけた名前の病気があるんですか? いえ『眠り姫』でも『白雪姫』でもなんでもいいんです。治るん、ですよね……? 目覚めなくなるなんて……ないです、よね……?」
凪人と広瀬の間で交わされる会話についていけなくなったのか、一人蚊帳の外にされた凪人の母親が慌てたように、それでも息子に何か良くないことが起きているのことがわかったのか、悲痛な表情を浮かべて尋ねた。
「……今は身体の毒素を中和するために、通常よりも睡眠時間が長くなっています。ですが、この毒素が中和しきれなくなると――目覚めなくなることも」
「そんな……! で、でも! 治るんですよね……?」
「……今の医療では、まだ」
「どう、して……どうして、凪人が……!」
絶叫する母親の声を聞きながら、凪人はもしも自分が目覚めなくなったら――誰かが詩月の隣を歩く日が来るのかもしれないと思うと、張り裂けそうな程胸の奥が痛むのを感じていた。
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