少年と老馬

夢想曲

少年と老馬

 少年は眺めていた。

 色とりどりの布が丁寧に折り畳まれ、その下に小さく値札が貼られている。

 色鮮やかな刺繍で菊や胡蝶蘭などが描かれたそれらが籠の中に綺麗に整頓されている様子はまるで花壇のようで、古着を纏う少年はそれに触れることはない。


「もう遅いから、連れて帰りな」


 少年の後ろを通り過ぎながら、神主は子供をあやすように声をかけた。

 声にハッとして立ち上がり空を見ると、空は茜色に染まりはじめていた。

 年季が入って木と苔の香りがする神社の本殿、その横で無人販売されていた生地を眺めていた少年は、人々のざわつく声に目線を空から下ろした。

 参拝客が皆一点の方向を見て、面白そうに、楽しそうに驚いたり笑ったりしていた。

 それは神社の境内の端っこで木に繋げられていた。


 馬である。

 年老いた栃栗毛とちくりげの少し焦げ茶色が入った黄褐色。体毛が夕焼けに照らされて、暗い茶色のたてがみが風に揺れている。老いてなお健在と思わせる威厳と美しさを放っているが、その馬体には相応しくない古びて色褪せた馬着ばちゃくを着せられていた。ツギハギだらけで、もう何年も着ているのだろう。

 少し長い耳と大きくて優しげな瞳が少年の方を向いている。柵に囲われているでもなく、木に繋がれているだけで大人しくジッと佇んでいた。

 境内に数組程度しかいない参拝客の中から五歳くらいの小さな子供が急に列から飛び出し、馬に駆け寄って行ってしまい、保護者らしき女性が慌てて連れ戻そうと後に続く。あっという間に馬の傍に来てしまった子供はまじまじと好奇心で目を輝かせ馬を見上げた。

 馬は全く驚かず、怒りもしない。それどころか、子供の方を向くと手で触れられる高さまで頭を下げたのだ。子供は恐る恐る柔らかな鼻に触れる。馬は動じない。弱く長く、フーッと鼻息を漏らすと子供は馬と意思が通じたのか無邪気に笑いながら馬の鼻や下顎を撫で回す。


「凄い、大人しいのねぇ」


 驚きと安堵の声を漏らす女性もいつの間にか栃栗毛に触れていた。気性の穏やかな馬は耳をピクピクと動かしながら人間を観察しているようだった。


「ウィズ」


 少年が声を出す。名前を呼ばれた馬は少し眠そうなタレ目をパッと開くと頭を持ち上げて少年の方を向いた。そしてウィズは木に結ばれている紐に鼻息を吹き掛ける仕草をすると、通りかかった神主がその紐を解く。

 ウィズは暴れたり走り出したりする事もなく、ゆったりとした歩様で砂利道を進み、花崗岩の階段をカパカパと心地よい音を立てながら上がっていく。

 真っ直ぐ少年の前まで来た馬は撫でて欲しそうに鼻先で少年の薄い胸板をつつくと、少年は馬の頬を撫でた。


 ウィズを引きながら歩き出す少年の表情は暗い。馬の顔以外はずっと下を向いて歩いていると階段の前で足を止める。人間が上り下りする階段である。段数は大してないのだから、若馬であればポンと飛び降りれるだろうが、しかし少年の引く馬は年老いている。大丈夫だと分かっていても少年は馬に対する愛情故の不安が過ぎってしまう。

 足を止めた少年が階段を見下ろしていると、視界に大きな鼻がヌッと入ってきた。顔を上げるとウィズの大きく愛嬌のある琥珀色の眼が少年の感情を探るように見つめていた。暫く少年の顔を眺めていると、ウィズはおもむろに階段を降り始めた。


「ああ! 待って!」


 少年は自身が非力なのを忘れ馬体を支えようとしたが、十代の柔な体で馬の体など支えられる筈もなく寧ろ階段の上で引っ張られて足を滑らせてしまう。

 あわやハミにから伸びるリードロープを掴んだまま階段から転げ落ちるかといった時、少年は馬着に掴みかかりぶら下がる。

 ウィズは焦りで青ざめる少年を尻目に呑気にカパカパと小気味よく階段を下りきった。馬着にしがみついたままの少年。だが少年の体重など幾ら老いていても馬にとっては大した問題にならなかった。恐らく、若かりし頃は重い斤量を背にターフを駆けていたのだろう。

 なんでそんな所で抱きついてるの? そんな事を言いたげにウィズは首を曲げて少年を一瞥していると少年は慌てて着地した。


「ごめんよ」


 何について謝ったのか分からぬ声を零す少年。曇る表情。肩を落とし、手には力が入らない。

 俯いたまま動かない少年が歩き出すまで、ウィズはずっと待ち続けた。




 少年が歩き出しすのに五分か十分か。

 人気の無い商店街を行く一人と一頭。

 左右に並ぶ商店の半分は既にシャッターが下ろされている。

 埃まみれの硝子天井から見える茜雲は不安を煽る暗い赤と黒。

 建物の間にある狭い路地には腐肉を漁る鴉の群れ。

 そのどれもが少年にとって恐ろしく見えたが、隣を歩くウィズのお陰でへっちゃらだった。

 真っ直ぐ出口に差し掛かると、串カツ屋から目を逸らして少しだけ早足に商店街を出た。




 舗装されていない道に出てしばらく歩き、家が見えてきた所で急にウィズは足を止めた。

 少年は急かすことなくウィズを見つめた。

 大人しく従順なウィズが珍しく見せた我儘に、少年は感極まってぽろぽろと大粒の涙を零した。


「ごめんよ」


 少年は震えながら老いた馬に謝った。

 馬の隣で立ち尽くし、啜り泣く少年。

 その泣き声は届いていなかっただろうけれど、遠くからふたりを見つけた少年の父が駆けつけた。

 少年の父は眉間に皺を寄せ、少年の頭に声をぶつけた。


「何処に行ってたんだ!」

「神社」

「どうしてそんな所に……」

「昔、あそこには神馬しんめが奉納されてたって」


 少年の理由に、それ以上父は何も言えず、茜色の空の下で二人して俯いてしまった。

 父はしゃがみ込んで少年の肩に手を置いた。


「いいか、忘れたり、逃げたり、背いたりしちゃダメだぞ」

「でも」

「お前はこの先、沢山悲しい事と向き合わなければいけなくなる。ウィザードはお前に大事な事を教えてくれるんだ。そうだろ?」


 父がウィズの方を見ると、言葉が分かるのか分からないのか、ウィズは一度だけ息を吐きながら頷いた。


「さ、帰ろう。母さんも心配してる」


 少年の握るリードロープを掴み歩こうとすると少年はロープを渡すまいと手に力を入れた。


「どうしたんだ?」

「僕が、面倒見るから」

「……そうか」


 父は少年の頭を優しく撫でると、軽く背中を手の平で叩いた。


「じゃあ行こうか、新米厩務員さん」

「うん!」


 二人と一頭、灰の敷かれた道を行く。

 空には幾つもの星が見え始めていた。

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少年と老馬 夢想曲 @Traeumerei

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