第19章 見えず、言えず、気づかず


 恭一が目を覚ました先は、膝の上だった。ラミエルに抱かれて、昔の夢を見ていた恭一の頭の上に優しく手を置き、自分の右手をずっと握っていたアイテルの顔を見つけて、はっと意識が覚める。


起き上がろうとした恭一をアイテルが手で制し、このままでいてと促す。


 周りを見ると、そこは寂れた釣鐘型の小さな祠のようで潮水の臭いが近く、海のすぐ傍であることが分かる。

 アイテルの真後ろにある女性像から、オリハルコンの光と同じものを放ち、恭一のアミュダラから貰った腕輪が浮いており、修復されていることが何となく感じられた。そしてこの小さな祠によって、二人は護られていることを感じる。


「…」


 アイテルは恭一の頭を膝の上に戻すと、落ち着くようにと恭一の胸の辺りをポンポンと優しく叩き始めた。


「やめてよ、子供じゃないんだから」


「…」


でも、落ち着くでしょう?と言いたげな微笑を浮かべるアイテル。恭一は、どうしてアイテルと一緒にここにいるのかを全く思い出せなかった。最後に自分が覚えているのは、咲の複製である女に腹を刺されたところまでだ。


自分の腹を左手で触ると、傷は塞がっていた。アイテルが治したのだと分かった。

ふと、彼女の着ているドレスに、血痕がべっとりついているのを見て、車で運転手の肉片が身体に飛び散っていた事、咲に庇われた際、彼女のまだ暖かな血が肌にまで濡れていたことを鮮明に思い出してしまった。


その瞬間、何を見ても、何があっても、絶対に吐いた事がない身体が反応する。

アイテルの膝から転がり落ちて、下にあった段差から落ち、這うようにして傍にあった飾りの壺の中に顔を突っ込んで吐き戻す。


恭一はただ無心で口から出るものをとにかく吐き出す。血の味が舌に滲み、何を吐いているのかも分からないまま。とにかく、腹と胸の間が気持ち悪かった。


それを、後ろから追いかけてきたアイテルが背中を擦って助けた。


「っ………はぁっ…はぁっ………」


 終わった後、口を拭い、身体を起こしてぐったりと力の出ない身体と、肌が黒く変色している右手を見た。そして、献身的に背中を擦り続けるアイテルの方を向くが、彼女の手から離れる。


赤い瞳。アイテルの持つ瞳と同じあの殺戮者とアイテルが重なる。そして、血濡れた咲の姿にも。鮮明に思い出してしまった。あの時の事を。無意識に身体から切り離していたものが戻ってきて、身体の震えが止まらず、ぐっと身体に力を込めて抑えても、完全には収まらなかった。


「もういい、後は、俺一人でやる。俺が、片付ける…」


 赤い瞳の呪いも、死者が蘇ったりも、もう沢山だ。どうせ死ぬのなら、あの男も道連れにしてやる。自分一人でやる方が早いと、恭一の心中は普段の冷静さから外れていた。自分の身体は今そういう状態でないのにも関わらず。


そんな立ち上がろうと膝を立てた彼を、アイテルが後ろから覆い被さるように強く恭一の身体に抱き着いた。あまり力の入らない彼を留めておくのに、アイテルの力だけでも十分だった。


「離してよ。どうして放っておいてくれないの?」


「……」


アイテルは目を閉じ、恭一の肩の上で首を横に振った。


「…しつこいよ」


行かないで、ここにいて。

声が出せない中、必死でそう伝えようとしていた。そんな彼女に、黙って背を向けたままでいたが、やがて恭一は静かに重い口を開いた。



「昔、子供の時、化け物に襲われた。丁度、森で襲ってきた魔物と同じような怪物に」


恭一はただ思い出した記憶を語る。

運転手が死に、車が衝突し、亡骸の肉片が飛び散っていた事。死体を食う音を聞きながら、咲と逃げ出したが、何処にも逃げる場所がなく、さっきまで普通に通っていた街が火の海になっていたことも。


「あの日は、何かの祭りをやっていた気がする。車窓からそんなのが見えた。毎年見慣れてたから、咲との会話もそれほど気に止めもしてなくて。それが数分の間に全部、炎と灰になっていた」



 見たことがない、地獄の炎。戦後の時代でもう二度と見たくないと誓った先人達の時代から長く、見ることもなかった炎。改めて目にした時、今までの日常があんなにも遠く、平穏であったのだと思ったと、恭一は黙ってまだ身体に手を回して聞いているアイテルに語る。



「咲は俺を庇って死んだ。あの時俺が、赤い瞳を持った殺戮者の姿を気にせず走っていたら、生きていたかもしれない。今更、そんなこと思っても仕方ないけど」


そして、次目覚めた時には病院で、真実は覆された世界の中に一人、取り残された。


 最後に呟いた言葉とは裏腹に、恭一の手はぐっと力が入っていたのを、アイテルは分かっていた。口には出さなかったが、彼女が死んだのは、弱かった自分が余計なことをしたからだと、恭一が自分を責め続けている事も。

咲の複製であるというあの女に、身体を刺されても、何をされても仕方がない。と。


こんな時に、言葉を声にして出せれば良かったのに。


アイテルは悔しさともどかしさを感じてキュッと口を結んだがすぐに戻し、一度恭一から手を離して彼の横に移動し、膝を立てて、彼の頭をゆっくりと誘導し、胸に抱いた。


 驚いたように目を見開いた恭一は、彼女の柔らかな胸の上でアイテルに頭を撫でられていると言うことだけは分かった。すぐに離れようと考えたが、身体は何故か動かなかった。


 拒否反応どころか、この心地好さに身を委ねていたいと思った。


 アイテルは言葉はなくとも、ただ恭一の吐露した心中に対し、「辛かったでしょう?よく頑張りましたね」と優しく母性に溢れた抱擁を与える。


「…よく、俺にこういうこと出来るね。……咲にも、実の母親にもしてもらったことがない」


 規則正しくも早くなるアイテルの心音と、抱かれた事のない安心感に身を包まれた恭一は、震えていた身体を徐々に落ち着ける。

自らの本能をつつき、食らおうとする呪いも、死への誘いも、不安も、この抱擁の中では全て、なくなっていく気がしていた。


「…」


 アイテルはそんな恭一を、ただただ抱きながら思っていた。

この人も本当は、怖かったのだろう。硬い鎧も強さという武器も全て置いて、弱さを晒して安らげる場所がなかったから、ずっと一人で戦っていたのだろう。その為に、必死で強くなった。自分で選んだ未来を掴むために、過去と決別するために必死で、孤独を歩んで貫いてきた。


声があったら、どんな言葉を贈ろう?どうしたら、彼は一時でも安らぎを得てくれるのだろうか。


せめて、こうして慰められるのであれば、いくらでもしてあげたい。遠く離れて暮らす娘達が、別れの間際泣いて行かないでと叫んでいた時、この温もりを与えてあげていたように。


考えるアイテルの背中に、恭一の手が触れた。呪いの進行が深まり、病んだ手で、アイテルの晒した素肌に触れてぐっと力が入る。体重が乗り、そのまま後ろへとアイテルは恭一を抱えたまま、寝転がった。


「…?……」


 恭一はアイテルの胸の上で眠りについていた。色んなものを吐き出して安心したかのように寝息を立てているのを見て、アイテルは背中に当たる砂と寝心地の悪さを気にもせず、彼を抱いて目を閉じる。


二人の頭上では、忘れ去られたエバの子宮を表す女性像が見守っていた。



______




翌日の朝、恭一は一人で目が覚める。傍にいるはずのアイテルの姿が見えず、狭い空間の中を見渡すが、外から動物の鳴き声が聞こえるのに気が付いて、祠の入り口から顔を覗かせた。


波打ち際の砂浜の上で、何処からやって来たのか、小動物に囲まれて、角の生えた白い馬の口からかごを受け取って戯れている。


あれは俗に言う、ユニコーンという幻の動物ではなかろうか?というより、ドレス姿で動物達に囲まれ、戯れている姿はまさに、夢の国によく出てくるプリンセスそのものだ。あれで声が出せて歌ってたらもうそうだろう。


まあ、遠くに行っていないのならと、恭一は元の場所に戻って座っていると、アイテルが果物の入ったかごを持って戻ってくる。起きている恭一に明るい笑顔を見せて、駆け寄って傍に座った。


「…」


恭一はここに来て思い出す。

昨日の夜、自分としてはとんでもなく恥ずかしいところを見られてしまった事。まさか自分が女性の胸に顔を埋めて寝てしまったという事も全て。


「…アイテル」


「??…!」


アイテルは恭一にかごの中の果物を見せた。どれがいいかを聞いているみたいに自信満々に指差している。

その姿に、この女、全然昨日の事気にしてないなと、だんだん腹が立ってきた恭一は、アイテルの片方の頬をつまんで引っ張った。


「!?…っ…っぅ!?」


喉の奥から絞り出す声を発しながら驚くアイテルに、恭一は無表情で言った。


「勝手に離れるなって言ったよね。何やってるの」


「むぅ……」


「全く、じっとしてないね。君」


本当に女王なのかと苦言を言いながらも手を離すと、アイテルは、じゃあこの果物あげない!と言わんばかりにかごと一緒にそっぽを向き、むくれた表情を見せた。


「…お腹空いた」


「む~!」


昨日から何も食べていない恭一は真顔で訴えるも、むくれたアイテルは背を向けた。


「どうして欲しいの?君がいけないんでしょ」


「っぅむぅ!」


「いい加減にして。独り占めしたってそんなに食べれないでしょ」


普通にくださいと頼めない恭一は、戻ってきた体力で逃げようとしたアイテルを腰に片手を回して捕まえ、ぐっと自分の足の間に挟むようにして引き寄せた。


「っ!!」


 捕まったアイテルはそのまま背中が恭一の身体にくっつき、手に持っていたかごの果物に黒くなった右手が入り込む。

恭一の顔がちょうど肩越し右側にあるのを見て、細目の鋭い目付きと目があった。


「…何?」


「……」


 この体勢に何も違和感を抱かない恭一はミカンを取り、アイテルに手を回したまま、彼女の膝の上を勝手に使って皮を剥きだす。向いた皮を汚れてしまっているドレスの上に置いてそのまま食べ始めるのを、アイテルはきょとんと眺めていた。


恭一は口に含んだミカンの甘さが懐かしく感じており、久しぶりに甘いミカンを食べたとかそんなことをしか考えていなかったが、アイテルは多少食べづらさを感じながらも、満更でもない表情でかごに入っていたさくらんぼをつまみ、茎についている2つの実の内の一つを、恭一の口元まで持っていった。


「?」


恭一に向けて期待をかけた表情で茎を持ってそのまま食べるように促しているアイテルを見てから、恭一は実の一つを歯に挟むように口付ける。

口付けたと同時に、アイテルも、もう片方の実を唇にゆっくりと触れさせながら口に含んだ。密接な距離で、唇と唇が、触れあいそうになりながら。



 神聖な存在として清廉潔白で気品に溢れたイメージの強い真王であるアイテルが、唐突に見せた官能的な誘惑とも取れる行為をし、恭一は驚いて茎からプチっと離れた実がそのまま喉に流れそうになりながら、呆然と彼女を見つめる。


アイテルはちょっと恥ずかしそうにしながら口元を手で抑えてモグモグと動かして、背中を向けた。


何、今の。


一定の規則正しい心音が跳ね上がる。あと少しで唇が触れ合う危険を犯すところだった。

アイテルは政略的なものでも既に夫もいれば子供もいる。それなのに今のような危険を犯す意味が分からなかったが、流石に恭一も、彼女の誘惑的な行動に戸惑っていた。


でも、満更でもない気持ちがあるのは一体何故か。


意味が分からない。声のない答えを恐らく知っていながらも気づかないふりをし、恭一は青みがかった長い黒髪の後ろ姿をもどかしく眺めていた。



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