第14章 在りし日、目覚めずとも

静けさは喧騒へ変わる。奇妙な場所だ。人の姿も声も一切なかったはずの情景に、ある地点から突然切り替わったように現れた。


 何処から人が溢れたのか、何処から声や車の音が現れたのか。女王ニュイワンのテントにいた時に、こんな喧騒は聞こえなかったはずだ。

 すれ違う人の姿に用心深く恭一は目を向けて、ふと、近くのゴミ箱の上に置かれていた新聞の切れ端を手に取った。


__1989年。これは、日本の新聞だ。ラストエンペラーが退位した後、中国に年号はない。しかも、恭一が生まれる何十年前のものである。おそらくは何かの梱包材に混じって運ばれてきたのかもしれないが、にしては、汚れてはいるが新聞がまだ色褪せもしていない。


やはりここは、普通じゃない。周りで動いている人も街も、ありふれているもの全てが、不自然だと。


源氏げんじさん、こっちです」


アイテルの代わりにあてがわれた少女に声をかけられ、恭一は切れ端を手にしたまま振り向いた。


「ここ、普通じゃない」


「そうですね。ここは、貴方達にとって夢みたいな場所なんです」


 白いワンピースの儚げな雰囲気を持つ花のピンを髪につけた少女。彼女の首から下げられている丸い水晶の中から、アイテルのと同じオリハルコンの力を僅かに感じる。


 彼女は凛華リンファ九龍城砦クーロンフロントの祈り柱らしい。他の場所の祈り柱とは違い、花嫁姿でもないラフな格好で、自由に過ごしているらしいことが分かる。真王の干渉を嫌っている場所だからなのか、ここは独自の柱を持っているようだ。



「だから、気をつけてください。外の人は慣れてませんから、楽しかった事も嫌な事も、ここでは全部本当になってしまいます」


「…意味分かんないんだけど、要するに現実じゃない、本物の九龍城砦きゅうりゅうじょうさいでないってこと?」


「平たく言えば、そんな感じです。ここは、現実にあったものを模倣した場所。だからそっくりそのままで、失くなってしまったものも、ここには存在しています」


「…じゃあ、君達は何者?」


 夢の中と同じだと言われて、突然現れたこの周りの人間全てが夢の住人であるなら、君達は何者なのかと言う恭一の質問に、困ったように微笑んだリンファは、踵を返した。


「時間がないんでしょう?早く進みましょう。こっちです」


彼女の言う通り、こんな気味の悪いところにいつまでも居たくないと思った恭一は新聞の切れ端を捨て、足を踏み出した。


恭一の手が、災いに近づく程に、疼きだす。アパートだと言うどう見ても作りかけの建物の階段を登る時、それが顕著に現れる。

たとえ夢という無意識の中の幻想にいても、呪いは恭一を蝕もうとするらしい。


それに呼び寄せられてか、この地に巣食うモノが、恭一を観察していた。


 やがて鉄骨の橋を渡り、アパートの棟の扉の前についた彼女と恭一。右手の傷が痛みを滲み出す。そして恭一の直感へ電流が脳から脊髄に至るまで痺れるような覚えのある感覚が走る。


「この先です。何号室かは、分かりますよね?」


「…」


リンファは終わるまでここで待つと言う。恭一はコートの懐から、彼に退魔の術を教えた男から貰った物を取り出し、右手に巻いた。


「それ、なんですか?」


「捕縛数珠、悪いものを捕まえる。念のために」


 悪魔はすばしっこくてよく逃げる。しばらく使う機会がなく、手入れもあまりしていない。果たして従来の働きをしてくれるのかどうかは微妙だったが、恭一は棟に入るための扉に手をかけた。


「ここで待ってます」


「一つ確認だけど、俺が死んだら、真王はどうする気?」


「それは、私には分かりません。女王ニュイワンの意向に従います」


「…そう。まぁ、こんなことで死なないけど」



 棟の中に入ればすぐに分かった。硫黄の臭い、本能が吐き気を誘う、邪悪の念、この世に足を突っ込んできた人ではない天使とは対極にある存在が、このまっすぐ伸びた通路の先の部屋にいることを、恭一は感じ取った。


ごみや缶が散乱する廊下を進む。向こうはすでに気づいているだろう。恭一が来たことに。


__「"久しぶりだな、キョウイチ"」


 立て付けの悪い扉を開けた先、食べ掛けのまま捨て置かれた皿と食事、生活感の残っていた無人のリビングから寝室へ入るとその元凶が、何年も前の映画エクソシストのように、ベッドの上に鎖に繋がれていた。


 見た目は十代の中国人の少女の姿で会ったこともないが、まるで顔見知りのように話し掛けてきた地の底から響くような声と態度に覚えがあった。


 かつて、何かの仕事で地獄へ送り返した悪魔だ。奴らはこの世から追い払えても死ぬことはない。永遠に続く業火に焼かれて、あえて魂は死ねないまま、苦しみを味わうのだ。この世界で言う、煉獄、深淵と言う罪人の辿り着く世界で。


恭一は黙って傍にあった椅子を持ち、ベッドの真正面に置いて座り、無表情で悪魔の言葉を話す少女を眺めた。



「また叩き落とされに戻ってきたのかい。何処のどれだったか分からないけど、しつこいよね君達って」


__「他の連中もお前の恨み言ばっか言ってるぜ。いつかお前が、死んだ時にはどうやって礼をしようか、皆が話題にしてる。どうやらそれも近いようだな!歓迎するよキョウイチ」


「そう。…楽しみだね」


 恭一は悪魔の言葉に心からの不敵な笑みを浮かべる。自分があの世に行く時が来ても、退屈しないで済みそうだと。地獄へ落ちて、今まで送り返してきた悪魔に報復されるとしても、それはそれで、血生臭い戦いを楽しめると言うもの。


そもそも、天使に守られてる時点で地獄行きの可能性は低いのに、ある意味この男は、地獄向きである。


__「ムカつく野郎だ。てめぇを引き摺り込みたくても、手厚く護られてやがる。今度は"ママ"か」


「ママ?」


_「エバの子宮。もう何百年も現れてなかった一なる者が、よりにもよって、お前を気に入るとはな。何処が良いんだか」


「さあ」


_「すっとぼけて格好つけてんなよ。童貞野郎が」


下世話な笑い声を上げて挑発する悪魔に一瞬顔をしかめたが、恭一は無表情で言い放った。



「さっさと地獄へ帰してあげるから、大人しく引っ込んでなよ、雑魚」


__「出てきたくて出てきた訳じゃねぇ。呼んだのはここの連中だ。それで、俺をここに閉じ込めた。お前にあてがう為に」



 悪魔をわざわざあてがうとはどういう言い訳だと思いながら無視し、取り出した紙にペンで呪法を書き始めた恭一に、悪魔はベラベラと話を続けた。


__「遺物の場所を知りたくはないか?俺は、知っているぞ。よく知ってる。エバの物だ」


 お決まりの悪魔の誘惑だ。人の欲するものをを読み、誘惑し、割に合わない取引を持ち掛ける。たとえ言っている事が真実であったとしても、代償は大きいものだ。


__「"女王ニュイワンを信じるより、俺を信じるべきだ。お前は永久にここへ閉じ込められる。お前の持つその呪いと一緒に葬られ、魂はグェイに食い荒らされる。可哀想な事に魂は、何処へも行けない"」


「ふぅん」


恭一はグェイという名前を聞いて、この九龍城砦に巣食うものが何かが分かった。



 不浄から産まれる、または地獄へ堕ちた人間の成れの果てである魍魎もうりょう。鬼門と呼ばれる忌み地に多くいるが、基本的には何もしては来ない。ただ奴らは常に飢えている。生者の肉体から骨の髄まで狙っている。取り憑かれたら、まずは生気を吸い、段々と弱らせてから脳を食うのだ。



__「協力しているように見えるだろ?。すんなり交渉を受け入れて、情報を渡すと?奴は、絶対にゴーワンを裏切る事はしない。だが、ゴーワンの目論見を阻止したがってる。だからお前を消そうとしてる!本当だぞ!」


「ハッタリしか出来ないのに、ベラベラとよく喋る」


__「少なくとも俺は知ってる!その手に染みついた呪いは恐ろしい…」


 悪魔は縛られた鎖を鳴らす。悪魔が必死になっているのは本当だった。恭一の右手を見て、恐怖の色を目や表情に浮かべている。悪魔が呪いを恐れる事ほど、矛盾したことはない。


__「俺を見逃してくれれば、ここから出る方法も、遺物の事を教えてやれる。お前と一緒に喰われるのは御免だ。鎖を外せ、そしたら…」


「煩い」


恭一はペンで呪法を書き終えた紙を少女の額に抑えつけた。肉の焼ける匂いがたちまち上がり、悪魔の断末魔が響きわたる。ヘブライ語とラテン語が混じり合う声で恭一を罵倒し、ベッドが浮き上がるほど暴れた。



__「やめろ!!本当の話だ!!俺は呼ばれただけだ!!お前の餌だ!!」


「だから?誰が君ら悪魔の言葉を信じると?」


__「サブラン ネヘト エバ アフ 誓ってもいい!!母に!!エバの子宮に!!場所を知ってる!!何なら遺物の破壊の仕方も教えてやる!!」


悪魔の命乞いに一度恭一は手を離し、ベッドの足が宙から無造作に地に落ちた。

苦しみながら、悪魔は恭一を息も絶え絶えの中で見る。

恭一は次の段階への準備を着々と進めた。悪魔の話は耳にも入っていない。


__「…ゲバフ…この程度の呪法で出せる力を超えている…。お前を守るものが、何か分からない…」


「さあ、帰る時間だよ。俺、お前に構ってるほど暇じゃないから」


___「お前は騙されやがるんだよバカタレが!!感じてみろ!分かるだろ!!この場所は、モウ回域かいいきに入ってる!!」




_「恭一」


恭一が数珠を巻いた右手で少女の首を掴んで馬乗りになり、指で印を切ろうとした時、ラミエルの声が遮って現れた事で手が止まった。


__「今のこいつの言葉は本当だ。こいつは餌。建物をグェイが取り囲んでる。すぐに逃げなさい」


「悪魔を信じろと?」


__「放っておいてもこいつはグェイに食われる。でも逃げなきゃ君も食われる。早く!」


 天使が危険を知らせた時、恭一は背後の窓から無数の気配を感じて振り向く。そこにさっきまでの景色はなく、変わりに窓に張り付いていたのは、腹がぽっこりと膨らんだ目のない赤子のような異形の者。


_「やば。まずすぎ…」


「もう少し早く教えてくれたら助かったんだけど??」


_「文句なら後で聞くって!!」


囲まれたと知った時、既に逃げ道は塞がれていた。窓や部屋の扉の向こうに集まっていたそれが恭一と少女に飛び掛かる前に、恭一は急いで別の印を切り、紙を天井に向かって投げた。


「『爆』」


 言霊を唱えた瞬間紙が燃え、寝台の周りに火花が飛び散り、床が破裂する。


その衝撃に床は抜けて、ベッドと共に落ちる。

少女が繋がれていた鎖が千切れ、恭一は逃げられる前に手に巻いていた数珠を放ち、長く伸びた数珠は少女の体を捕縛した。


 落ちていく中で拘束した少女の体を脇に抱え、飛び移れる場所を探すが、そこはもう既に建物ではなく、淀んだ暗い空間の中にいた。


 在りし日の九龍城砦の姿など何処にもない、何処までも続く、暗い闇の中、やがて底に落ちた。地面に激突してベッドが壊れてバラバラになる中、落ちる直前で飛び、体制をとった恭一は何とか着地する。


 だがそこには、無数のグェイがいた。

まるで餓鬼のような姿。飢えに苦しむ地獄の罪人の姿。十分に肉も骨もある人間を見て今にも食らい付きたがっている異形に囲まれ、恭一は悪魔の言葉が正しかったのだと実感する。


 先ほどまで感じていた気味の悪い気配はこれの事だったと言うことも。



「なんだ、そいつを祓えって言ったのに。まだ祓ってないの?」


暗い闇の中から聞こえる声と、グェイを踏みつけながら歩く水面が揺れる音。


恭一の前に現れたのは、女王ニュイワンと同じチャイナドレスを着ており、容姿も似ている美麗の少女だった。髪型も目の形も、似通っている細身の少女。手には、一回り大きな黒い鎌を持っていた。


「誰?」


「ちょっと話をしようじゃないか。恭一くん?」


 暗闇に赤い灯籠が現れ、辺りを照らす。血の色のような赤い水が床一面に流れ、グェイの群れが恭一とその少女の周りを囲む。グェイは襲ってくる様子はまだ見せない。



「さっきの女王ニュイワンじゃないね」


女王ニュイワンだよ。私はどちらにでもなれる。今で言う…なんて言ったか、オカマとかオナベって言ったらまずいんだっけ?トランジェスターってのには、羨ましがられるけどね、この体質は」


「どっちでも何でも構わないけど、どういうつもり?」


恭一の目が女王ニュイワンだと名乗る少女を睨むと、あのそっくりなにやけ顔を浮かべているが目は笑っていない表情で言った。


「アイテルがその気じゃないなら、私が直接、ここで殺した方がいいと思ってね。というかさぁ、何処で手に入れて来たんだよ、それ」


 声は抑揚がなく、ただ敵意を伺わせていた。聞かれた言葉に恭一は返事を返す。


独眼竜ドゥイェンロンという組織が持っていたものを回収しただけ。どんなものだったのかは知らなかった」


「……独眼竜ドゥイェンロン。あんたなら、どんな組織だったかぐらいは知っているだろう。よく手を出そうと思えたものだね。そういう奴はまぁ、一人ぐらいいるものだけど」


「そっちもこの件に一枚噛んでるんじゃないの?組織は九龍城砦きゅうりゅうじょうの残党の集まりだ、猿山のボスが知らないわけないよね」


「あれは王派が勝手にやったこと、全く無関係だよ。だから驚いてるのさ。似たようなものを色々集めて、あっちこっちに売り捌いてはなんかやってたのは知ってたけど、それにまで手が出てたとはさ」


「俺をはめて殺そうと思った事についての返事がまだだけど?」


「言わなくても分かるだろう?存在してること自体がまずいからだよ。アイテルは犬の散歩感覚で連れ回してるようだけど、犬が爆弾だってことに気がついていない」


「爆弾に変わる前に始末する。アイテルと俺を一緒に呼び出したのも、最初からそうつもりだったからだね」


ジュドーやハルクマン達がいるところでは俺を簡単に始末出来ない。でも俺は一人でも簡単じゃない。

そう告げた恭一に、「あんたは本当に面白い」と女王ニュイワンは陰のあるにやけ顔を浮かべた。



「…そっちの世界で、結構最近、国一つが滅びた事があったでしょ。目立ちもしないほんの小さな小国。中東の方にあった」


 恭一はそう告げられてすぐにある事案を思い出す。それなりに一時期世界に知れるニュースにもなったことだ。



「その遺物にやられたんだよ、国一つだ。たまたまあの国の地下に保管されてたってだけの話で。最初それを目にしたのは、数人の政府関係者とエージェントだった。でもそこから約一週間ほどで、約300万人の国民が姿を消し、あっちこちで肉塊になって転がってた。大きい国の諜報に関わってるなら、知ってるよね?」



 勿論その真実は隠蔽されたが、女王ニュイワンの言う通りの事が起きていた事案。この異常に気づいたのは観光客だったが、結局原因は分からず、闇に葬られてしまった。恭一と同じ遺物が関わっていた事は、恭一も知らなかったが。


「邪な欲望と憤怒を増幅させる遺物。依り代とした者のいる範囲全てに、呪いを撒き散らし、やがて争わせる。互いの体が肉の塊に成り果てるまで、終わらない」



 恭一はアクロポリスの留置場で突然争い出して互いに殺しあった者達の事を思い出す。それが独房ではなく、国という大きな範囲で起きてしまっていたという事実に固唾を飲んだ。


 女王ニュイワンがここで殺そうとしたことも、納得がいく。恭一がエバというものに護られているからとは言え、影響が全くないということではないからだ。それがたとえ、アイテルであっても。



「それから何処に消えたのか分からなかったけど……あいつが持ってたとはね。你究竟在想什么一体何考えてんのか。いい?その遺物はね…」


「それで?俺をこのまま生かしてはおかないんだろう。…さっさとやれば?丁度…物足りないと考えていたんだよ」




___【殺せ、この愚か者を殺せ。"裏切り者"を、許してはおけない】



 恭一の頭に囁きが響く。それは天使のものではない。恭一の手から悪魔の依り代になった少女の体が落ちた。


女王ニュイワンは様子のおかしい恭一の言葉を聞いて、すぐに察知した。

この穢れた忌み地には、災厄を糧にする呪いにとって有利なのだと。


はめられた怒りと屈辱を少なからず感じていた恭一は、抗えない本能と強い憎悪に襲われた。



__「恭一…!恭一ちょっと待て!!冷静になれ!今の君がこれ以上怒ったら…!」



怒り、憎しみ、嫌悪、復讐、望み、力__



【殺せ、殺せ、殺し尽くせ】



恭一は持ち得る力と蝕む呪いに身を委ねた。委ねる他、なかった。

たとえ天使の声であっても、それを止められるものはなかった。



「…どうやらここまでになるね。残念だよ、恭一」


 そう溢した女王ニュイワンが手に持つ鎌に力を込めた。周りで蠢いていたグェイが次々に恭一に襲い掛かる。


 無から産まれる虚無と淀みの産物を前に、恭一の目の奥は、赤く怪しい光を帯びる。そしてその口元は、笑みを浮かべていた。

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