③ 竹島雲母

 いつ頃から感じていただろう。

 それはまるで黒板で爪を立てるのと同じくらい、私は塚元寛太の存在そのものに、はっきりと不快感を覚えるようになった。

 会話を交わしたことはほとんどない。彼の人柄だって知らない。それでも、彼を見ていると、嫌でも思い出したくなかった記憶の数々が神経衰弱のように次々とめくれていってしまう。

 中年太りしただらしない体型。耳元に吹きかかる荒くて生温い鼻息に、やたらと早口な喋り口調。骨太で指先がカサついた手の感触。感情の読めない据わった目。

 記憶の中でいつも薄汚れたグレーの作業着を着ていたその男は、中学二年生だった私に毎回馴れ馴れしく声をかけてきた。

 ──ほら見て。これ、キララちゃんとお揃いなんだよ。

 最初は誰にでも同じように喋りかけているだけの、ちょっと変わったおじさんだと思って無視していた。しかし、それが何日も続くようになると、さすがに気味が悪くなり、下校する際は必ず裏門から帰るようになった。

 それから何事もなく一週間が過ぎた頃、私が学校から家に帰ると、近くの電柱に隠れていた例の男の姿を見つけた。その手には、私がよく化粧品を買いに行くドラッグストアのビニール袋が提げられていた。

 ただの偶然だと思った。でも、その偶然は何度も続いた。

 翌日から毎日のように家の前で待ち伏せするようになった彼の手には、いつも何かが提げられていた。愛用しているレディース向けアパレルブランドの紙袋。家の近くにあるスーパーのチラシ。週末に友達と訪れたゲームセンターの抽選券。週三で通っている塾のパンフレット──

 ふと、その男に生活圏を侵されていると気付くと、ゾッとした。

 恐怖に怯えた私は何度もその男に忠告した。

 これ以上つきまとうなら警察を呼ぶ、と。

 しかし、それでも懲りずに男は家の前で私の帰りを待ち続けた。

 きっと彼は知っていたのだろう。すでに私が何度か警察に相談に行き、毎回「証拠がないと動けないから」という理由の一点張りで、ほとんど相手にされていなかったことを。

 当時の私は絶望の淵にいた。

 今になって考えてみれば、親なり学校の先生なり、警察以外の大人に一言相談していれば結果が変わっていたのかもしれない。それでも、当時はまだ中学生だった私は、市民の安全を守ってくれるはずの警察に見捨てられた時点で、もう誰も助けてくれないのだと諦めてしまった。

 忘れるわけがない。

 その年の夏。私はその男に無理やり胸を触られ、口の中に舌を入れられた。

 彼の唇から馴染みある匂いがしたのはきっと偶然なんかじゃなかった。

 結局、その男は偶然近くを通りかかった女の子が警察に通報してくれたおかげで、現行犯逮捕された。しかし、その男が牢屋に収容されたところで、私の侵された傷口は全く癒えなかった。

 男という生き物をはっきりと忌み嫌うようになったのはその時からだ。

 その出来事を誰かに打ち明けたことはない。

 きっと、私は無意識のうちに、塚元寛太の背後にあの頃のストーカー男の影を見ていた。


「ずいぶん怒ってたみたいだけど、塚元に何かされたの?」

 昼休みになると、幼馴染でクラスメイトの有希ゆきは、いつものように弁当を持って空いていた隣の席に許可なく腰を下ろし、怪訝そうな面持ちで私の顔を覗き込んできた。

 三時限目の休み時間のことを言っているのだろう。おそらく彼女は、塚元寛太に釘を刺していた一部始終を見ていたのだ。

「別に直接的に何かされたわけじゃないんだけどね」と答えると、有希は眉間のシワを深くした。「ここ最近さ、ずっと見られているような気がするの」

 すっと有希の表情から強張りが消えていく。

「へえ、雲母きららってああいう男子からも好かれるんだね」

 隣から途端に興味を失ったようなため息が漏れ、彼女は適当に話を受け流しながら手元に目を落とした。二段からなるステンレスの弁当箱の中には、色とりどりのおかずと果物がぎっしりと詰まっていた。ダイエット中なのか、炭水化物は一切抜いているようだった。

「好きとか、そういうのじゃないと思う。だって告白もされてないし」

 有希は再び小さく息を吐いてかぶりを振った。

「いやいや、ただでさえ男子に敵意剥き出しの雲母を相手に、面と向かって告白できる人の方が少ないって」そう言って彼女はふんっと鼻を鳴らす。「しかも、塚元くんなんだから、なおさらだよ」

 やがてこちらから視線を外し、箸を握った左手で髪を耳にかけて卵焼きを一口咥えるその仕草に、思わずドキッとしてしまう。そのまま細かく咀嚼を続けている有希の横顔を何気なく見つめていると、やがて「ねえ、ものすごく食べにくいんだけど」と軽く睨まれてしまった。

「あ、ごめん」

 思い出したように机の横にかけていた学生鞄から、通学路の途中にあるコンビニで買っていたパンを取り出した私を見て、「そういえば雲母って売店のパン買わなくなったよね」と有希は言った。

 その時ふと、彼女もよく私のことを見ているんだなあと実感したが、不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、胸の中で温かい何かが、じんわりと広がっているような感覚さえあった。

「でもさあ、好きだからって普通、私が使ってるリップクリームまで真似するかな?」

「え、何の話?」と有希は箸の先端を咥えたままこちらを振り向いた。

「いや、だから塚元くんのことだよ」

 私がそう答えると、彼女はたちまち眉をひそめた。

「うわー、なにそれ。ちょっとキモいかも」

 とはいえ彼女もまだ半信半疑のようで、その後すぐに思い直したのか、「でもそれって、ただの偶然なんじゃない?」と続けた。

「最初はそう思ってたよ。でもさ、偶然が何度も続くと、もうそれは偶然なんかじゃないでしょう?」

「ってことは、他にも真似されたものがあったってことだ」有希は目を丸める。

 私はそれに肯いた。

 最近目についた限りでは、愛用している手袋やマフラー、靴下がそうだった。その他にも、私が以前まで使っていた柔軟剤、売店で購入していたパンやジュースのラインナップまで真似されていたらしい。私がコンビニで毎朝パンを買うようになったのも、それが理由だった。

 それらを全て有希に伝えると、たちまち彼女は嫌悪感を示すように顔をしかめ、「確かに。それは私でも気持ち悪いわ」と同調してくれた。

「でもよく気がついたよね」

「なにが?」と私は聞き返す。

「だってさ、手袋やマフラーみたいにわかりやすいものはともかく、リップクリームや売店のラインナップまで真似されてるなんて、普通は気付かなくない?」彼女はまだどこか腑に落ちていない様子だった。「それともまさか、塚元くんが自分から『実は真似してるんです』とか言って報告してきたの?」

「ああ、それは違くて」

 その続きを言いかけて私がかぶりを振ると、不意にどこかから声が蘇った。

 ──あ、それ寛太と同じやつだっ。

 その声はいつも私のすぐ隣でボソッと呟かれていた。

「教えてくれる人がいたの」

「誰?」

 有希の問いかけに私はクラスメイトの西村保の名前を挙げた。

 いつ頃からだったのか、何故か彼が忍び寄るように私に近付き、謎の一言を言い残してその場を立ち去っていくという現象が続いていた。それらを説明すると、有希は苦笑いを浮かべながら「へえ、あのパクリ魔がねえ」と、納得するように小さく肯いていた。

「パクリ魔って?」

 私はその聞いたことのない愛称に引っかかり、有希に聞き返した。

 どうやら、西村保はクラスメイトたちから陰でそう呼ばれているらしい。もちろんその呼び名に好意的な意味があるはずもなかった。

 前々から彼は、お笑い芸人の一発ギャグやエピソードトークを、まるでそれが自分の生み出したオリジナルであるかのような我が物顔で、堂々とクラスメイトたちの前で披露する節があったという。

 新学期が始まってすぐの頃は、みんなそのことに気付きながらも、特に気に留めていない様子で付き合っていたようだが、やがて彼が披露するお笑い芸人のエピソードトークの主語が「俺」に変わり始めると、いよいよ彼に対して疑問符を浮かべる生徒が増えていったらしい。

 ある日、我慢できなくなった一人の男子生徒が「その話って全部パクリだよな?」と笑いながら指摘すると、西村保はたちまち顔を真っ赤に染め、癇癪を起こしたように「適当なこと言うなっ」と怒号を飛ばしたそうだ。

 それ以降、西村保はクラス内を転々とするようになり、いつの間にか居場所を失くしていた彼はいつの日からか、どこのグループにも属していなかった塚元寛太の隣に落ち着いたらしい。

 以前、有希も彼の被害に遭ったことがあるようで、その時に披露された銭湯の話は、昨年末のテレビで放送されていたお笑い芸人たちが集うトークバラエティー番組で、その日最も会場を沸かせていたエピソードとして話題になっていたものらしかった。彼はそこでも懲りずに「結構前に俺が銭湯に行った時の話なんだけど──」と話し始めたという。彼女が話の序盤でそのことを指摘すると、鋭い目つきで睨まれたと教えてくれた。

「あの時はマジで殴ろうと思ったね」と笑いながら振り返るその喋り口調からは、明らかに西村保に対する軽蔑が滲んでいるように思えた。

「多分さ、塚元くんはお笑いに疎い感じだったから、アイツにとっても都合が良かったんじゃないのかな?」と有希は分析する。「でなきゃ、あんなパクリ魔の話なんかで笑えないでしょ」

 そう言われてみれば確かに、教室の隅の方でいつも西村保と会話している塚元寛太は、楽しそうに笑っていることの方が多かった。ただ、彼はそれらが全部誰かのパクリだったとは思ってもいないのだろう。

 気の毒だとは思うが、それを同情する気にはなれなかった。

「でもさ、西村はどういうつもりで雲母に教えてくれたんだろうね」

 不意に有希は話題を戻した。

「ああ、塚元くんの件?」

「そうそう」と彼女は首を縦に振る。

「単なる親切心だったんじゃない? 真似されてるよ、っていう」

 私は咄嗟に思いついた答えを口にしていた。

 しかし、言った後ですぐに、果たして、クラスから暗に除け者扱いされていた彼がようやく手に入れた友人を自ら貶めるようなことをするだろうか──と思い直し、なんだかそれは違うような気がした。

「いずれにせよ、わざわざそれを教えてくれる必要はなかったよね」と有希は言った。「だって、そうすりゃ、雲母も嫌なこと思い出さずに済んだわけだし」

 どうやら有希には全てを見抜かれていたらしい。「ねっ?」と言う彼女の声に、私は力なく「うん」と肯く。余計なことをしてくれたものね、と彼女はため息混じりに呟いた。

 知らなければよかった、と思うことは生きていれば何度だって起こる。きっと私はこれからも、それが起こるたびに有希のように現実を嘆くのだろう。平穏な日常は、不意に誰かの余計な行動で壊されてしまう。

 最後の一言で、私はそれを改めて実感させられたような気分になった。

 やがて、有希との会話が途切れたタイミングで、ちょうどよく教室前方の扉が開いた。あっ、と弾んだような声が隣から漏れる。教室に入ってきたのは、片手にいちごみるくの紙パックを持った隣のクラスの男子生徒だった。

 ワックスで逆立たせた襟足の長い茶髪に、ボールペンで描いたような細い眉毛を携えていた彼は、明らかにサイズの大きいズボンの裾を引きずりながら歩き、堂々と校則違反の金色のネックレスを見せびらかすように、学ランは第二ボタンまで開けていた。その派手な見た目通り、彼は校内でも噂されるほどヤンチャな生徒で、有希がそんな彼に好意を抱いていることを、私は薄々気付いていた。

 ふと、隣を振り向いてみると、輝くような眼差しで彼に釘付けになっている有希のその横顔に、私はついムッとしてしまう。

「中学生じゃないんだからさ、ああいう男を好きにならない方がいいって。もっと周りを見てごらんよ。有希のことを大事にしてくれる人は、意外とすぐ近くにいるんだから」

 そう言うと、有希はこちらに不貞腐れたように細めた目を向けた。

「余計なお世話だっつーのー」

 彼女の冗談っぽい声は、いつものように教室に響いた。

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