泉さんが慌てた様子で事務所に駆け込んできたのは、青山君の誕生日からひと月ほど経った日のことだった。

 連日残暑が厳しく、私はとにかく参っていた。このビルはやはり空調システムもそれなりで、どんなに低い気温に設定しようとぬるい空気が申し訳程度に流れて来るだけだ。

「るみちゃーん」

 ソファーで泥のように眠っていた私はドカドカという足音と、騒がしい声で目を覚ます。

「なんですか、泉さん」

「それがね、あのね……なんていうか、あの」

「まず落ち着きましょう。青山君、何か冷たいものを」

 泉さんは大量にあふれ出した汗を拭きながら、青山君の差し出したアイスティーを飲み干した。

 ふう、と息を吐くと、

「ごめん、うるさくして。でも本当に大変なことが起こっているんだよね」

 泉さんの顔を見ながら、この人は変わらないな、と思う。

 見ている人が気持ち良くなるくらいふくふくと太っていて、最初「心霊現象に悩まされている」と相談を持ち込まれたときも、まさかこの大らかで優しそうな人間に悩みがあるなんて、と思ってしまったくらいだ。

「本当に大変なこと」というのもいまいち真剣に受け取ることができないのは、やはり泉さんのこの見た目のせいだろう。

「それで、今回は泉さんご本人? それとも別の方?」

 泉さんは最初の相談事──元交際相手の霊に付き纏われていた件を解決してから、過剰なまでに私を信頼し、頻繁に仕事を持ってきてくれる。

「友人だね、昔からの友人の話。とても困っているんだ」

 泉さんは深呼吸を何回か繰り返してから、ゆっくりと話し始めた。


        *


 世田谷区にも一棟、物件を持ってるんだけど、そこの一階に〈アントルメ世田谷〉って洋菓子屋さんが入ってて。ガトーショコラが絶品なんだよね。ああごめん、今は関係ないね。

 そこの店長さんは丹羽桃子さんっていうんだ。実は、僕の小学校の同級生でね。クラスのマドンナ的存在だったよ、言い方が古いかな。

 桃子さんはシングルマザーなんだけど、娘の唯香ちゃんが心臓に病気があるみたいで。先天性らしいんだけど……定期的に、『モリヤこども医療センター』に通ってたんだよね。そうそう、モリヤって食品会社なのに、慈善事業というか、医療福祉事業もやってて、立派だよなあ。いろんな報道もあったけど、僕はもっとその辺の功績も含めて吟味する必要があると……ああ、「通ってた」っていうのが気になる? 大丈夫、今から話すよ。

 唯香ちゃんはちょうど、桃子さんが離婚したあたり、つまり、三歳くらいに病気が発覚して、それでちょうどその頃に東京に戻ってきたというのもあって、モリヤに通うことにしたみたいなんだよね。唯香ちゃんのお父さんはフランス人だよ。修業先の店長さんだったとかで。ハーフってやつだね。青山君と同じ──えっ、青山君はハーフじゃないの、その顔で? 隔世遺伝か、なるほどね。

 唯香ちゃんは可哀想に、入院を繰り返したりしていたんだ。僕も何度も会ったことがあるけど、いつ見てもなんか……青白い、っていうのかな。子供らしく、明るくはしゃぎまわっているところは一回も見たことがなかった。

 でもね、ちょうど半年くらい前かなあ、ケーキを買いがてら、桃子さんに会いに行ったら、自転車が停まっててさ。折り畳み式なのか、車輪が小さいタイプ。

「桃子さん、自転車始めたんだ」

 って何気なく聞いたら、

「やだ、泉くん、どう見ても私のじゃないでしょ。唯香のよ」

「ええっ、唯香ちゃんの?」

 よくよく見たら、確かに車体がピンク色で、キャラクターの絵が描いてある、子供用だった。

「でも、唯香ちゃんは外で……」

「ああ、なんだかね、急に元気になったのよ。今はモリヤにも行ってないわ」

 急に元気になる──先天性の病気を抱えている子が、急に元気になることなんてあるのかな? というのが正直な感想だった。それとなく聞いても、桃子さんにもなぜ急によくなったのかは分からないらしかった。同じ先生に診てもらっていて、新しい治療方法を試している、というようなこともなかったみたいで。

 そのときは本当に良かったね、と言って、今度唯香ちゃんと遊ぶ約束をして、別れたんだけど……。

 段々、桃子さんの元気がなくなっていったんだよ。ふつう、病気の我が子が健康になったんだったら、明るくなるはずだよね。僕はとても心配で、桃子さんは気が乗らないようだったけど、お茶に誘ったんだ。

 そしたら桃子さん、会うなり、泣き出しちゃってさ。

「泉くん、私、どうしたらいいか分からない」

 こういうとき女性にどう声をかけていいか分からないのが僕なんだ。ただ、まごついていると、

「唯香……唯香、唯香唯香唯香唯香唯香」

「どうしたんだよ……」

 桃子さんは急に唯香ちゃんの名前を繰り返しながら、机に突っ伏してしまった。閉店間近で僕ら以外に店に客はいなかったのが救いだったよ。いたら、間違いなく注目の的だっただろうね。

「唯香ちゃんがどうかしたの? もしかして、また具合が悪くなってしまったとか……もしそうなら、僕もできることがあれば手を貸すよ。時間もあるし……お金も困っているなら、勿論できる範囲で援助も」

「やさ……やさ、しいね、泉くんは、昔から」

 桃子さんはしゃくりあげながら言った。

「でも……お金とか、時間とかで……解決できないの。多分、そうなの、唯香はずっと……」

「桃子さん」

 僕は桃子さんをまっすぐに見つめて、

「どういうことなのか話して。どうにもできないかもしれないけど、人に話すだけで少しは気分が楽になるかもしれないよ」

 桃子さんはしばらく黙ったあと、ダムが決壊したみたいに話し始めた。

 唯香ちゃんはね、夜中、一人で出歩くようになったんだって。気付かないうちに外に出ている。桃子さん、思い余って夜だけ、唯香ちゃんの部屋に外から鍵をかけたそうなんだけど、それでも無駄で、不思議なことにいつの間にか外に出ている。鍵が壊されたとかはなくて、鍵はいつの間にか開いている。

 出ていくのを止めるのも限界があるだろう。ずっと起きているわけにもいかないし。

 医師に相談くらい、最初にやっているよ。でもね、医学的には夢遊病──正確には睡眠時遊行症、というみたいだけど。ストレスや疲れ、睡眠不足なんかが原因だと言われていて。テレビゲームを制限させろとか、家庭内のストレスを排除しろとか、そういうようなアドバイスしかもらえないみたいで。あと、ほとんどの場合、大人になれば治るんだって。

 でもさ、今困っているわけだし、桃子さんは本当に良いお母さんで、唯香ちゃんだって。ストレスがない、なんて断定はできないけれど、僕には本当に良い親子関係を築いているように見えたよ。

 まあ、そうだね。僕から見えていることが全てではないよ。でも、つまり何が言いたいかっていうと、お医者さんには解決できないことなんだよ。

 桃子さんはね、ある日、唯香ちゃんのあとをつけてみたらしいんだ。

 唯香ちゃんはまず、鍵のかかった部屋から普通に出てきて、そのまま玄関から外へと出て行った。

 慌てて一緒に外に出ると、唯香ちゃんはふらふらとした足取りで歩いていく。そして駐輪場まで行って、自転車に乗ったんだ。それもおかしな話。自転車には鍵はかかっていて、その鍵は桃子さんが持っていたから。

 桃子さんはもう、黙って見ていることはできなかった。大声で「唯香」と呼び掛けて、駆け寄って行った。でも唯香ちゃんは猛然と、子供とは思えない速度で自転車を漕いで、桃子さんは視界から消えないようについていくのがやっとだった。

 そして悲劇は起こってしまう。

 十字路から直進してきた大型バイクが、唯香ちゃんの体を自転車ごと撥ね飛ばした。

「唯香あぁあっ」

 桃子さんは喉が切れそうなくらい大声で叫んで──

 そこには、血だまりの中に、無残な子供の死体が転がっているはずだった。そうだろう。でも、違ったんだよ。

 バイクは急停止して、その勢いのまま横転した。

 でも、唯香ちゃんは、そのままだったんだよ。自転車にまたがって、地面に転がっているバイクの運転手を見ていたそうだ。

 桃子さんはどうしていいか分からなかった。だってそうだろう。加害者のはずのバイクの運転手は転がっていて、被害者のはずの娘には何も起こっていないんだから。

「ゆ、ゆ……」

 桃子さんは名前もまともに呼べなかった。それでもふらふらとわが子に近寄っていくと、

「痛えよ! ふざけんなっ」

 叫んだのはバイクの運転手だった。よろめきながら体を起こして、唯香ちゃんに向かって怒鳴っている。

「急に飛び出してきやがって、お前っ、お前っ」

 彼の怒りは尤もだった。一時停止もしないで飛び出したのは唯香ちゃんの方だし、一歩間違えれば唯香ちゃんだけではなく、彼だって重傷を負ったり、下手すれば死んでいたかもしれない。桃子さんは、今にも唯香ちゃんに殴りかかろうとする、ひどく錯乱した様子の彼の前に飛び出して、

「すみません! その子の母親です! ごめんなさいっ」

 頭を何度も下げて、それでも全く何も反応がないので、恐る恐る顔を上げた。

 風船から空気が抜けるみたいな音だった、と桃子さんは言ってた。

 男が、吊り下がっていた。

 ぷしゅう、というその音は、彼の口から漏れているんだ。

 桃子さんは固まって、それを見詰めることしかできなかった。

 吊り下がっている、というのは分かるのに、彼のどこが、何に引っかかってそうなっているのか、全く分からなかった。木もないし、電線はずっと上だ。それに、もし何かひっかかる場所があったとしても、彼の頭上に紐状のものは何も見えない。いくら暗いと言ったって、街灯の光である程度は視界が確保されているんだから。

 本当にただ、彼はキーホルダーについているマスコットのように、地面から数十センチ浮いてぶらぶらと揺れている。

 そのとき、ぞわぞわと、とてつもなく嫌な雰囲気を感じて、桃子さんは唯香ちゃんの方に顔を向けた。

 唯香、と呼びかける前に、

「邪魔しました」

 唯香ちゃんの声のはずだった。でも、そうは聞こえなかった。いつものお母さんに甘える可愛い女の子の声じゃなくて、大人の女性というか、どちらかというと、逆に言って聞かせるような、そんな声色だったそうだ。

「邪魔してはいけません」

 唯香ちゃんは困ったように微笑んでいた。

「邪魔……って」

 桃子さんはなんとか言葉を絞り出した。

「い、いくら邪魔でも……そんなことを、したら、その人……」

 唯香ちゃんは男と桃子さんを交互に眺めてから、ふう、と溜息を吐いた。それとほぼ同時にどさっと音がして、男が地面に転がっていた。

「大丈夫ですかっ」

 かけよってみると、男はとりあえず息はしているようだった。でも、目があらぬ方向を向いていて、とてもまともな状態には見えなかった。救急車を呼ばなくては、そう思ってスマホをポケットから取り出そうとして、その瞬間に腕をつかまれた。

「あなたも、邪魔をしてはいけません」

 桃子さんは悲鳴を上げることもできなかった。

 唯香ちゃんの目も、男と同じように、左右が別々の方向を向いていた。

 その後なんとか電話はしたから、救急車は来た。桃子さんも一緒に乗って行って、医者にも、遅れてやって来た警察やら保険会社の人やらにも、なんとか見たままの説明をした。唯香ちゃんは救急車が来る前に目にも留まらないスピードで走り去ってしまっていてその場にいなかったし、桃子さんは「頭がおかしい人」とか「噓を吐いている人」みたいに扱われたけど、結局、近くに停めてあった車のドライブレコーダーに、はっきりとではないけど映っていたみたいで、今度は「子供の面倒が見られないダメな母親」として扱われてしまった。どうしてバイクの男性がそんな風になってしまったか、というのは分からなかったから、賠償の義務が発生したとか訴えられたとかそういうのはなかったみたいなんだけど、子供を深夜に外に出すなと、警察官から厳しく言われたとか。酷い話だよね。一番悩んでいるのは桃子さんなのに、そんなの見たら分かるだろうに、責めるなんてさ。

 それをそのまま伝えて、僕は聞いてみたんだ。

「それで、唯香ちゃんはその後……」

「警察の人が言ったこと……何も、間違ってないの。私、すごくダメな母親だよ。最低だよ」

「そんなことない。他の誰がそう言っても、僕はそう思わないよ。唯香ちゃん、すごくいい子じゃないか。桃子さんはちゃんと働いて、立派に」

「勇気がないの」

 桃子さんは僕の言葉を遮って言った。

「あの子のこと、もう自分の子供って思えない」

「そんなこと言ったら……」

「ダメって言うよね。当たり前だよね。分かってるよ私だって。だから最低だって言ってるじゃん。当然当然当然、子供を愛するのは当然だもんね。どんなに辛くても、お母さんは、子供を守らなきゃいけないもんね。当然だよ。分かってる。でも、泉くんには言ってほしくなかった」

「ご、ごめん……」

「毎日毎日毎日、ご飯を作る。でもほとんど食べない。大丈夫なんだって。何もしなくても、邪魔しなければいいって。そう。邪魔するなって沢山言われるの。何しても、邪魔って。それでまた、目がぎょろぎょろって。私って何だと思う? 私やっぱり産まなければよかったの? みんなに止められたけど、子供は可愛いから……でも、あの子は父親にも、望まれてなかった。だから、ダメだった? 私は少なくとも、母親のつもりだったよ。ずっと、大事にしたかった。病気が分かった時も、唯香のためならなんだってできるって。私頑張ったよ。でも、それも邪魔なんだってさ。何してると思う? ずっと、手を合わせてるよ。夜、外に行って、それで、手を合わせてる? 気持ち悪いよ。何もかも邪魔で、無駄だって思う。唯香のことじゃないよ。自分のこと。でもね、私が無駄だってことはさ──唯香のことも、どうでもよくなった。もうどうでもいいよ。でもこんなふうに思う自分が怖い。助けてほしい。どうしたら」

 そこまで一気に言って、桃子さんはごめん、と言いながらまたぼろぼろと涙を零した。限界なんだって僕は思った。

 公私混同って批判されるかもしれないけど、僕は桃子さんに副業として、ウチの事務員、って形に、一時的になってもらってる。そうしたら、家に出入りしても不自然じゃないだろ。桃子さんは泉くんに悪いって断ってたけど、強引に。それ以外思い浮かばないから。だってさ、もし、このまま二人きりにして、放っておいたら最悪──そう、虐待。あんまり、口に出すのも嫌だけど。最近も、あったでしょ。なんかあれも、子育てインフルエンサー?みたいな人だったよね、母親。インスタに、手の込んだお弁当の写真とかアップしてて。ごく普通の、どころか、むしろ身なりが良くて何の不自由もなさそうに見えた女の子が──って話。だから、何が言いたいかって言うと、そういうことになってほしくなかったんだ。でも、家庭内のことって、気が付けないだろ。だから、いつでも見ていられるように、唯香ちゃんは一応、僕の母親と、スタッフたちが。桃子さんはなんとか、ケーキ屋で働いているよ。でも、ぎりぎりのバランス。

 だって、何一つ解決していないからね。

 ここだけの話、僕は桃子さんの言うことを信じ切れていなかったんだ。というか、疲れていると、変なものが見えたり聞こえたりするってよく聞くから、それかなと。でも唯香ちゃんを預かってやっと、妄想ではなく、本当のことだってわかった。

 唯香ちゃんは夜、外を出歩いている。どんなに頑丈な鍵をつけても駄目だ。

 そして、それを止めようとすると、見えない力で吹き飛ばされたり、叩きつけられたり、吊るされたりする。

 僕も吊るされたよ。重かったのか、すぐに下ろしてもらえたけど。これもまた不思議なことなんだけど、吊るされているときは、苦しくないんだ。意識がないっていうか、眠っているというか、そんな感じ。多分バイクの運転手もこんな感じだったんだろうなと思ったよ。

 桃子さんが言っていた、「邪魔をするな」というセリフも言われた。

 恥ずかしながら、もうどうしていいか分からない。学校には通っているんだけど──何度か呼び出されちゃってね。学校でも同じ態度なんだって。ただの暴力に見えているみたいだけど、被害に遭った子供さんの保護者からの苦情があるって。桃子さんは限界だから、電話があったことは伝えずに、僕が謝りに行ったりもしたけど、

「そもそも学校に来られない時間が長かったから急に集団の中でうまくやっていくのは難しいんじゃないでしょうか。お父様もいらっしゃらないから……と思っていたけれど、幸いサポートしてくださる男性もいらっしゃるみたいだし、しばらくご家庭で過ごされては」

 そんなふうに言われて。学校に来るなってことか、とカチンときたけど、まあ、暴力を振るわれた側からすれば当然か。こんなこと、やっぱり桃子さんには聞かせられないよ。もっと具合が悪くなって、お店だって開けなくなるかも──だから、何かと理由をつけて、二週間前から学校には通わせていない。

 どうしてこうなっちゃったんだろうねって、僕も思う。唯香ちゃんは全く別人だ。

 これは科学とか、そんなことでは説明がつかない何かだ。そう分かってから、るみちゃんのことが真っ先に思い浮かんだよ。

 真剣なお願いだ。

 どうか唯香ちゃんを元の通りにしてください。


        *


 泉さんは一気に話し終えてから、私の顔をちらりと見た。縋るような目だ。

 泉さんのこういうところに好感が持てる。知り合いだから、ビルのオーナーだから当然受けてくれるだろう、みたいな態度は微塵も窺えない。

「私が泉さんのご依頼を断る、ということはありえないのですが」

 そう言うと、泉さんの顔がぱあっと明るくなる。

「本当? 本当に? じゃあ……」

「いえ……話だけでは、なんとも。私はなんでもできるわけではありませんから。物部斉清あたりならあるいは話だけでもどうこうできるかもしれませんが」

「ああ、あのイケメン陰陽師」

 物部斉清は四国の山奥に住む拝み屋で、私より十歳ほど若い。片山敏彦ほどではないが、「イケメン」と呼ばれるにふさわしく顔が整っている。この業界で彼を知らない人間がいたら、それはモグリという証拠だろう。彼は何の理論もなく、あらゆる霊障を力業で解決してしまう。人間というより、神仏に近いと言ってもいい存在だ。

 数年前、お茶の水にある泉さんが持つ物件に、何故かどのテナントも三か月と持たず退去してしまうビルがあった。その土地は調べたところ、さかのぼると明治時代から、事件だの事故だのが絶えない場所だった。そのせいかどうかは分からないが、百年以上もかけて良くないものが蓄積されていて、どこからどうしたらいいか分からないくらいうじゃうじゃと集まっていた。無理です、と断ることもできたが、力の強い怨霊がいたわけではなかったから、時間をかけて解決するつもりだった。

 しかし、そのときたまたま、物部斉清が仕事で東京に来るという知らせがあったのだ。泉さんは困っていたし、少しでも早く解決した方がいいかと思って、私は物部に相談をした。何かアドバイスを貰うだけで、自分でどうにかするつもりだった。

 しかし彼は電話で話を聞いた十五分後に車で現場までやってきて、私が一年半かけてゆっくりと綺麗にしていった──もとい、それだけ時間をかけても全く解決できなかったその場所の穢れを、五分で綺麗にしてしまった。物部は自身の仕事のついでに来たので、彼の流派の衣装を着用していた。泉さんはそれを見て、彼を陰陽師だと判断したのだろう。

 泉さんは彼の仕事が終わった直後、「これでもう大丈夫です」「裏手に印を付けておきましたから、月に一回くらいそこに花を供えてあげてください」そんなことをにこやかな笑顔で、矢継ぎ早に言われて、はい、はい、と頷いていた。物部は常に傲慢不遜な態度だというのに、何故か泉さんに対しては非常に穏やかだったから、猫を被っているな、と思ったのを覚えている。あるいは、彼には泉さんの善性が分かるから、あのような態度なのだろうか。物部は青山君にもとても柔らかい態度だ。だから物部のことが苦手なのだ。私のどうしようもないところが全て見透かされているような気がする。

 泉さんのどうしたの、という言葉で私は思考の迷路から抜け出した。

「失礼。少々考え事です。陰陽師……かは分かりませんが、確かに彼に頼れば一発かも。私が彼を紹介するという手もあります。ただ、費用がかかるのと……」

 泉さんは心配そうに眉尻を下げる。

「もしかして喧嘩しているの?」

 泉さんは大らかなのに、妙に鋭い所がある。

「いえ、そういうわけでは」

「僕の案件とは関係なく、おじさんのお節介として聞いてね。どうしても絶対に心底許せないとかでなければ、仲直りした方がいいよ。年を取ってからは友達なんてできないんだ」

「私は、昔から友達が作れるタイプではありませんが」

「ごめん、余計なことだったね」

 泉さんはこちらが申し訳なくなるくらいごめんね、と何度も言った。

「いえ。それで、本題ですが……まず当事者の桃子さんと唯香さんにお会いしないと、判断できないということです。泉さんのことを疑うわけではないですが、霊的な現象ではないかもしれないですし」

「うん……そうだね」

 霊的な現象ではないかもしれない、という言葉にほんの少しだけ納得いかないような表情を浮かべたが、泉さんは特に反論することなく頷いた。

「そうだよね。僕の話は、僕の主観が入ってるもんね。それじゃあ、桃子さんに言っておくけど……こちらがお願いしている立場だから、こんなことを言うのは間違ってる。でも、桃子さんは随分参ってしまってるんだ。だから……」

「分かっております」

 はっきりとは言わないが、私の不用意な発言を警戒しているのだろう。全く失礼ではない。事実だ。過去に何人も、依頼人が怒って帰ってしまったことがある。言ってはいけないことだと分かっていても、相手に瑕疵があると、どうしてもそこを突かずにはいられない。悪い癖だ。

「お話を聞きに行く際には、青山君も付いてきてくれますから。青山君、私が失礼なことを言いそうになったら、お願いしますよ」

 青山君は曖昧に笑って、努力します、と言った。

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