聖者の落角

芦花公園

 飯田橋のオフィス街から離れた、さびれたビル。一階にはトルコ料理店「とらぶぞん」、二階にはタイ古式マッサージ店が入っている。その一つ上の三階に、私の「佐々木事務所」がある。

 いかにも怪しげな外観と同じく、佐々木事務所の業務もまた怪しいものだ。

 専門は心霊現象。

 私は一応大学では民俗学を専攻していたが、せいぜい一般人よりは詳しい程度で、起こった怪奇現象を正確に、学術的に読み解くことができる、と自信を持って言えるわけではない。そのような私がなぜこのような仕事をしているのか。

 一つには、私のような人間がまともに就職できるわけがないからだ。

 容姿が悪く、配慮も気遣いもできず、人の嫌がることをわざわざ言ってしまう癖がある。私は、私をこの世に産み落とし、さんざん痛めつけてきた両親とそっくりのゴミ人間だ。

 両親が消えてから優しい養母に出会い、その人の家庭で愛情をかけられて育ち、その後何人かの信頼できる友人とも出会ったが、私のどうしようもない性質は変わらなかった。もう一生付き合っていくしかないだろう。下手に就職などして、私に迷惑をかけられる人間が増えるのは可哀想だ。

 もう一つの理由は、私には所謂霊能力があるからである。

 死人、化け物、神様、そういったものが見える。見えるだけでなく、干渉もできる。

 私の頭の中には押し入れがあって、その中にそれらを閉じ込める。恐らく人に話したら入院させられそうな話だが、それ以外の説明は思い浮かばない。

 押し入れとは、まだ両親が生きていたころ、日常の大半を過ごした汚いアパートにあった押し入れだ。母親が客を取っている間、私はそこで息を殺して、押し込められたゴミと一緒に過ごしていた。

 そうやって過ごすうちに、私は人魚姫を見るようになった。母親が気まぐれに買い与えた、一冊のアニメ絵本の主人公だ。華奢で可愛い顔をしていた。私は押し入れを、彼女の宮殿にするために、バナナの皮や、宝飾品のチラシなどで飾り付けた。

 人魚姫はなんでもやってくれた。

 両親を殺し、私をひどく甚振った小学校の同級生を殺した。

 実際は違ったわけだ。

 私は私の能力で、気に入らない人間を消していただけなのだ。

 気付いてから、宮殿から人魚姫は姿を消した。

 私は押し入れの女王になった。

 優しい養母のおかげで、それ以来人を傷付けてはいない。

 といっても、私の暴力性が消えたわけではない。

 今では、そういったものを、死人、化け物、神様などに、ぶつけているだけなのだ。

「好きなことで、生きていく」というのはYouTuberの標語のようなものらしいが、私もまさにそうやって生きている。

 このビルは確かにみすぼらしいし、エレベーターもないが、飯田橋の駅からそう遠くなく、立地もいい。こんな良いところに事務所を構えられたのは、このビルのオーナーが悩まされている怪奇現象を解決したからだ。

 オーナーの泉さんは物件を安く貸してくれるだけでなく、それ以降も定期的に仕事を紹介してくれた。だから、ほぼ直接依頼されることのないこの事務所でも、家賃と、私とパートナーの給料くらいは払える。

 パートナーの青山幸喜は、私の知る限り最も善良な男だ。

 彼が善良なのは、プロテスタント教会の牧師の息子だから、というのも関係があるかもしれないが、宗教者という点抜きでも、本当に優しい人間だ。

 大学で院生をしていた頃の後輩で、私のような人間を慕ってくれている。

 事務所を開所する、と連絡したら、一緒に働きたいです、と言って、なぜか事務処理の全てを引き受けてくれた。

 最初は単に便利な雑用係くらいにしか思っていなかったが、彼と接する時間が長くなればなるほど、彼が本当に私を信頼し、一緒に生きてくれようとしていることが分かった。彼は今の養母、百合子が死んだとき、母の代わりになってくれる人だ。それくらいには、大切に思っている。

「るみ先輩、サプライズってなんですか?」

「さあ、当ててみて」

 自分の誕生日に関する何らかだと分かっているだろうに、青山君ははしゃいだような素振りをしてくれる。彼は少年のように可愛い顔をしているだけでなく、振る舞いも可愛らしい。とても今日二十八歳になる成人男性とは思えない。

 一階のドアが開く音がした。このビルはどこもかしこも古いので、建付けの悪いドアの軋む音は三階からでも聞こえるのだ。

「ほら、そろそろいらっしゃいますよ」

 ゆっくりとした足音が段数分聞こえた後、彼は入って来る。

 片山敏彦。私の知る限り、最も美しい生き物だ。

「階段きつすぎる。どうにかエレベーターを取り付けられないものか」

「運動不足ではないですか?」

「佐々木さんみたいなフィジカルモンスターと一緒にしないでよ。三十代はこれが普通だよ」

 横で青山君が息を吞んだのが分かった。無理もない。まったく、何度見ても驚くような美しさだ。『絵画のような』だとかそういった表現は、彼に使うと全て陳腐に感じる。

 高校生の頃から付き合いがあり、彼の人となりなどを知っている私は、さすがに会うたびに緊張するというようなことはないが、青山君は違う。

 見るたびに美しさを増していく化け物のようなこの男には、いつまで経っても慣れないようだった。

「敏彦さん……」

「青山君の誕生日だって言うから、ケーキ買ってきたよ。佐々木さんが事前に言ってくれなかったせいで時間がなかった。プレゼントに関しては期待しないでほしい」

 敏彦はなんの情緒もなく、封筒に「商品券」と書かれた商品券でしかないものを青山君の膝に置いた。

「いやその、プレゼントどころか、僕にはケーキすらもったいないというか……」

 青山君はしばらくもごもごと口を動かした後、ありがとうございます、と小さな声で言った。とりあえずは喜んでいるようだ。

「では早速電気を消して歌でも歌いましょうか」

 俺も歌うの? という敏彦の困惑した声を無視して、私はケーキに立てた蠟燭に火をつけ、スイッチを消す。

 聞こえるか聞こえないかくらいの声で歌う敏彦に対して、青山君はきちんと歌っている。教会で子供と接することも多いからかもしれない。青山君に育てられる子供は幸せだろうな、と思う。

「さあ、火を吹き消してください。動画を撮りますからね」

「火を吹き消す前にお祈りをするんですよ」

「そういうものなんですか?」

 そう尋ねると、青山君は頷いた。

 百合子は私の誕生日──つまり、彼女と私が養子縁組を結んだ日付には、必ず大きなケーキを焼いて、お祝いしてくれた。児童養護施設でも、同じ月に生まれた子供を集めて、そういったイベントをやってくれたこともある。実の両親は私の出生届すら出していなかったが、私にも一応、そういった知識はあるのだ。

 蠟燭の火を吹き消す前に祈るというのは、西洋圏のバースデーパーティーではよく行われることのようだ。青山君の実家はプロテスタント教会だから、このような文化があっても不思議ではない。

 私はじっと青山君を見つめた。

 両手を合わせ、真剣に祈っている。

 もうそろそろいいんじゃないですか、そんな言葉が口から出る直前に、青山君はふう、と火を吹き消した。

 途端に部屋が真っ暗になる。

 立ち上がって電気を点けようとすると、急に手を摑まれた。

 敏彦の手ではない。彼の手は、顔と同じように、つやつやして石のように冷たい。

 これは青山君の手だ。料理をするからか、可愛い顔に反して骨ばっていて、掌が硬い。

 何事かと思って青山君の方に顔を向ける。

 全く慣れない目が、ぼんやりと彼の輪郭だけを捉えた。

「ちゃんと見ていてくださいね」

 青山君の口が動いたように見えた。

 硬い皮膚の感触がわずかな体温を残して離れていく。

 そして、明かりが点いた。

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