4-6 // 終

 円形の広々とした「神座の間」は、以前と同じままだった。

 純潔のように真っ白な壁と、聖堂の大天蓋を彷彿とさせる円形の天窓は割れており、灰色の空が見える。その空へと伸びるようにして中央には《命樹》が変わらぬ美しさでそびえ立っていた。紫と青色に光輝く硝子細工のような樹からは、桜色の塵が上方へと浮かび上がり、神の御業のようにも見えた。

 命樹の下、石灰石でできた冷たい玉座には女が一人、人形のように腰かけていた。白皙の美女は朔と由楽木の姿を認めると、長いダークグレイの髪を揺らして優雅に立ち上がる。身につけた深紅のドレスの上には黒豹を彷彿とさせる毛皮を纏っている。胸元には輝く青紫色の結晶が埋め込まれており、ふわりと青と白の幻想的な光の波を放っていた。


「こんにちは、最初の《私》」


 凜としたその声はクビキリと同じだが、声音は艶やかで全く違う。その声が笑う。


「いえ、今は『クビキリ』と呼んだ方がいいかしら?」


 ゆるりと赤い唇を花のように綻ばせて、女――雨宮咲羅は、朔と全く同じ容貌で微笑む。肉体は「雨宮咲羅」の複製なので、服装や雰囲気などを加味すると生き別れの双子のようであった。朔が死人のような背徳的な美しさだとしたら、雨宮咲羅の美しさは棘を持った薔薇のように華やさを秘めていた。

 生と死、それぞれの美を体現したような女が対峙していた。


「……雨宮咲羅」


 呟き、朔は鎌型の二振りの刃を手に女を鋭く見据える。咲羅は困ったように眉を下げた。


「あら、そんな物騒なものを持って……私は貴女と争う気なんて無いというのに」

「じゃあ何を望んでいるというんだい? まさか自害してくれる訳じゃないよねえ?」


 由楽木が顰蹙を買うような言い回しで尋ねかける。全く以て発言だけ聞いていればどちらが悪者か分からない。けれど咲羅は胸元へ手を当てて、やたら優しげな声音で答えた。


「ただ元に戻りたいだけよ。貴女と再び一つになる事。そしてこの世界を愛で満たすことしか私は望んではいない。その愛には死の哀しみも、苦しみも、痛みも無い。充足感と幸福感だけ。私は全ての人を無条件に愛し、全ての人は私を愛し、真なる神として楽園を創造するの」


 素敵でしょう、と咲羅はつい見蕩れそうになるくらい魅力的に笑む。しかし由楽木は不機嫌そうに目を逸らして傘から仕込み刃を抜いた。同じように朔も刃を構え、その切っ先を咲羅へと向けて、彼女の――《命樹の種子》の望みを真っ向から否定した。


「ならば私はお前の言う愛を否定し、お前を倒そう。全てを終わらせる為に」

「なぜ? どうして拒むの? 私に身を任せれば、ひとつになれば苦しみも痛みも、以前のようにすべて消えるというのに。貴女だってもう大切な誰かを哀しみや苦しみの中で失うのは嫌でしょう? 貴女の身体も二度と喪われない。欠陥だらけの人間を創造した神に代わって、損なわれない私が全ての苦しみから素晴らしい愛で救おうというのに」


 咲羅は憂いを帯びた表情を浮かべて説き伏せるように朔へと尋ねかけた。おそらく以前までの朔ならば痛みも苦しみもない肉体を強く望み、そして死神クビキリの名に相応しい冷徹な強さを肯としただろう。

 今の朔は、生まれ落ちた頃よりも良い意味でも悪い意味でも、人間らしくなってしまった。弱くなった。この戦いが終われば朔の身体は傷を負っても再生することも、身体の欠損部を再構築する事も、もしかしたらできなくなってしまうかもしれない。

 けれど朔の心は既に決まっていた。


「私にはもう、痛みも苦しみも感じぬ不死身の肉体など必要無い」


 きっぱりと言い放った言葉に咲羅は柳眉を逆立てる。穏やかな空気が変質し、逼迫する。しかし朔は恐れない。生きる為に戦う「意志」が芽生えていた。


「痛みを知らなければ、私は我が身を省みなかった。一人で世界に生きていると思い込んでいた。死の暗さも生の輝きも知らずに、人を愛するという事も理解できなかった」


 今のお前には分からないだろう、と朔はきっぱりと告げる。

 対する咲羅は高笑いする。

 愚かだ、なんて愚かな女だと――何度も何度も繰り返した。


「クビキリ。貴女は喪失の痛みも、死の別れも痛みも享受するというの? 愛し愛される幸福の中で、痛みも苦しみも無い死を迎えた方が方がずっと良いというのに?」

「そうだ。お前の言う愛は人の痛みも苦しみも知らない、ただのまやかしに過ぎない。人間の愛は違う。愚かしくても、醜くとも、苦しくとも、それは救いとなるものだ。その救いの光は、偏愛狂死病では見ることのできない光だ」

「救い? 笑わせないで欲しいわ。貴女だって人間の愛など知らぬくせに」


 くすくすと笑う咲羅。そんな彼女を静かに朔は見詰めた。そして思う。哀れな化け物だと。ずっと己よりも強く、死を恐れぬその存在は、魔力によって操られた偏愛狂死病患者にしか愛されない。心から彼女を愛している者はこの桜色の塵が降る世界に居ない。何処までも孤独だ。

 どれほど多くの者達が彼女の美を賞賛し、彼女の元で愛を育み、幸せであると微笑もうとも空虚な夢に過ぎない。愛していると嘯きを、この愛は真であると盲目的に信じて、逃げているだけに過ぎないのである。病によって発露した愛など、魔法が解ければ霧散してしまうまやかしだ。

 ――この世に生を受けたとき、確かに朔は愛など知らなかった。

 偏愛狂死病患者らを見続けて、愛など必要ないと思った事さえあった。けれど由楽木やセツ、ナグモといった人々との出会いの中で、いつの間にか人間らしい心が芽生え、そして気付く。

 愛するという事は、互いを慈しみ合うことだと。

 喪失した時に痛みや哀しみを伴う事だと。

 けれど、その愛は胸に抱き続ける事で哀しみを乗り越えさせ、人を強くさせるものだと。

 だから、救いなのだ。


「雨宮咲羅。お前は哀れだ。痛みや苦しみから逃げようとする、弱い化け物だ。その弱さを隠す為に多くを犠牲にし、更にお前は誰かを犠牲にさせ続ける」


 朔は剣を咲羅へと向けたまま、叫んだ。


「私はお前と違う。人間として生きる為に戦い、仲間と共に未来を掴んでみせる!」


 人間。人間として、もう朔は生きることができる。何故なら愛を知っている。

 咲羅はそんな朔を見て憎悪で瞳を黒く燃やした。


「ならば――精々抗ってみなさい。クビキリッ!」


 その一言で、遂に最終決戦の火蓋は切って落とされた。

 朔と由楽木は左右に分かれて駆ける。朔の両手には鎌のような刃。順手と逆手に持ち、猫のような速さとしなやかさで黒いコートをはためかせて駆ける。咲羅は生成魔術により、数本の槍を生成。それを朔へと投げ飛ばすが、一陣の黒い風の如く駆け抜ける死神は、悉くそれを避けて行き《命樹の種子》を狙って雨宮咲羅の間合いへと飛び込んだ。

 跳躍し、風を薙いで振り下ろされた鎌を咲羅は一瞥すると、高位の生成魔術によって生み出した剣を用いて応戦する。鋭い衝突音と火花を上げて、両者の刃は激しくぶつかり合う。黒真珠の瞳と黒檀の瞳が交錯し、激しい刃の応酬となる。

 そんな咲羅の背後へと仕込み刃を手にした由楽木が斬りかかる。普通なら反応できず切り裂かれるところだが、咲羅はそれを生成魔術によって形成した薄膜の鉄壁で防ぐ。刃は鉄とぶつかり由楽木は衝撃により弾かれ、一旦身を引く。ほぼ同時に朔は己の首を狙ってきた凶刃を躱し、身体を半回転させて逆手に持ち替えた刃を咲羅の胴体へ向かって振り抜く。

 切り裂く感触を手に感じていたが、咲羅の赤いドレスの布を切り裂いただけに留まったようで、逆に腹に受けた蹴りの一撃を受け止めた朔の身体は後方へと大きく仰け反った。

 咲羅は長い爪を朔へと向け、何か小さく呟く。


「クビキリッ!」


 由楽木が朔に向けて声を飛ばすと同時に、咲羅の周囲に鋭利な硝子刃の郡れが出現し、嵐のように朔へ向かって飛んでくる。咄嗟に由楽木が朔の前へ躍り出て、生成魔術により壁を形成。第一波は防ぐものの第二波によって壁は呆気なく崩壊し、残存した硝子片を朔の斬撃が迎え撃つ。相殺したのを見計らって朔は前方へと再び駆け出す。

 咲羅は愉悦を浮かべ、今度は宙に短刀を生成し再び放出する。飛んでくる刃を強靭な脚力で左右に避けながら朔は走る。避けきれなかった刃が朔の頬や手足、脇腹を掠め容赦無く切り裂いていった。熱さの伴った痛みに朔は顔を僅かに歪めながらも、鎌型の刃で飛来した凶器を弾き、そのまま咲羅の顔面へ向けて片方を鋭く投擲する。

 向かってきた刃を鼻で笑い咲羅は再び壁を形成。きん、と弾かれた刃は跳ね返り床へ落ちる。その数瞬の間に朔は腰へ刃を仕舞い、その流れで雨宮朔の血液が詰まった小瓶を取り出す。

 長剣を抜刀した朔はその刃を雨宮朔の血液で濡らす。血でぬらりと光る刃を後方に構え、しなやかな筋肉を駆使し、一気に咲羅の懐へと潜り込んだ。

 そのあまりの疾さに咲羅の顔が驚愕で歪む。一瞬の出来事だった。

 ――捉えた!

 朔の瞳が鋭く細められる。刀を握りしめ、斜め下から上方に切り上げる。咲羅の胸元、《命樹の種子》へと向かって。

 しかし、剣はあと一歩のところで止まる。寸でのところで咲羅が僅かに後方へ逃れ、放った斬撃を、腕一本を犠牲に受け流したのだ。

 刃に切り裂かれた咲羅の右腕は肘から下が消失していたが、すぐにその肘下から新たな腕が生まれた。どさり、と落ちた切り落とされた腕のほうは一瞬で腐り崩れる。どうやら癒着よりも再構築の方を優先らしい。後者の方が明らかに魔力を喰うが、底無しに等しい魔力を秘めている咲羅にとっては大した問題ではないのだろう。一度朔は間合いを取るために後方へ退く。

 ――矢張り簡単にはいかないか。

 不敵な笑みを浮かべる咲羅を前に、朔は再び刃を向ける。先程投げつけたもう一つの刃は丁度咲羅から二・五メートル程離れた場所に落ちていた。それを目視し由楽木へと目配せする。彼が小さく頷くのを認めてから朔は再び駆け出す。


「それじゃあ馬鹿の一つ覚えよ? クビキリ」


 猪突猛進する朔を見て咲羅はつまらなそうに唇を尖らせる。その周囲には再び長い刃の群れが生成される。回避は難しい。何より串刺しになった場合、動きを縫い止められる可能性があった。それでも朔は一縷の望みにかけて走る。

 咲羅は向かってくる朔をぎりぎりまで引き寄せると、矢の如く放った。それを由楽木の生成魔術が食い止めるも、防御しきれない刃が朔の脇腹を抉って行く。バランスを崩しながらも尚も進もうとする朔を狙うように、再び刃を生成しようと咲羅が笑みを浮かべたとき、


「――由楽木ッ!」


 朔が鋭く吠える。咲羅がはたと気付けば、いつの間にか由楽木が先程朔が落とした鎌形の刃を咲羅へ向かって投げつけていた。

 流石に避けられず、振り向いた咲羅の右目へと刃が突き刺さる。その一瞬だけ怯んだ隙を見て、勢いに乗ったままの朔が大地を這うように駆け抜け、構えた剣を力を溜めるように一度後方へ引き、一撃必殺を狙って朔は雄叫びを上げて白刃の切っ先を前方へ素早く突き出した。

 血を流す片目を抑えていた咲羅の胸、《命樹の種子》へと向かって一直線に白刃が伸びる。そして切っ先が、《種子》を捉えたような固い感触が手の平に伝わった。朔は渾身の力を込め剣を押し込もうとするが――それを阻むように咲羅の手が伸び刃を持った。


「――――惜しかったな」


 咲羅は平然と笑った。


「ッ、何……っ!?」


 咄嗟に朔が刃を引き抜き離れようとする。しかし完全に刃が引き抜かれるよりも早く、咲羅の指が朔へと向けられ生成魔術が唱えられた。


「貫け」


 冷ややかな咲羅の命により至近距離で放たれた刃が朔の身体を貫く。後方へと派手に吹っ飛び朔の身体が、放物線を描いて落下し床へ激しく衝突する。剣が傍らにからん、と落ちた。


「がッ、ァ……は、ぐっ……」


 血飛沫を上げ、目を見開く。仰臥し天を仰ぐ朔は起き上がろうと腹に刺さった刃を抜き、傍らに落ちた剣を取る。しかし起き上がろうとしたその身体へと再び刃の雨が降り注いできた。


「くそッ!」


 舌打ちし立ち上がった朔はすぐさま回避行動へと移り、横へ跳ぼうとする。しかし運悪く避けきれなかった刃が朔の右腕と左腕へと命中し、衝撃にバランスを崩した朔はうつぶせに倒れた。伏臥する朔は夥しい血を流しながら立ち上がろうとする。だが千切れかけた腕と足では無様に這いつくばるしかなかった。再生はしている。だが――遅過ぎる。朔は奥歯を噛み締めた。


「クビキリ!」


 叫び由楽木が朔の方角へ走り出そうとする。しかしそれを咲羅の生み出した刃の群れが阻んだ。意志を持ったような無数の刃は今度は狙いを由楽木へと絞る。由楽木は生成魔術の壁で防ぐが魔力の消耗が激しいのか、その端正な顔に疲労と焦燥が滲む。そして遂に反応が追いつかなかった刃が由楽木の太腿を裂く。裂傷からは血が溢れ、由楽木の顔が苦痛に歪む。それでも降り注ぐ刃を仕込み刀で弾き返し、躱しながら避けようとする。降り注ぎ地面へ突き刺さるそれに気を取られ、いつの間にか由楽木の背後に迫っていた咲羅が剣を振り上げる。


「由楽木ッ! 後ろだ!!」


 せり上がる吐き気と痛みを殺し朔は叫ぶ。気付いた由楽木は咄嗟に刃で受け止めようとするが、刃を弾かれ手から取り落とす。武器を失い由楽木は距離を取ろうとするも、背後から迫った生成魔術の凶刃が足へと突き刺さる。その隙を狙って咲羅が、剣を振り下ろした。

 その一閃は、由楽木の肩口から脇腹を一直線に切り裂く。朔は無我夢中で叫んだ。


「――――由楽木ッ!!」


 鮮血が由楽木の口と胸から噴出する。青の瞳は激しい痛みで見開かれ、深手を負った彼の身体はそのまま大地へ倒れた。それでも必死に彼の手は刃を掴もうとする。けれど咲羅は由楽木の伸ばした手を上から踏みつけると、骨が軋むほど強く踏みつけた。


「ッッァ――――ああああッ!!」


 由楽木の苦悶に満ちた叫び声が響いた。その苦痛に歪んだ顔を咲羅は平然と蹴り上げる。


「くそっ……止めろ! 由楽木! 今、助け――」


 再生しかけた手足に力を込め、血を噴き出すのも無視して朔は身を起こそうとする。しかしそれを邪魔するように、咲羅が再び放った刃が朔の背や腹へと突き刺し、言葉を紡ごうとした唇からは血が漏れた。起こしかけた身体は再び赤黒く輝く血溜まりへと崩れる。

 由楽木をまるでゴミのように見下していた咲羅は朔の方へと振り返ると「脆いものね」と嬉しそうに微笑んだ。朔は顔を上げ、そんな咲羅の姿を睥睨する。確かに捉えた感触はあった。しかしその胸元にある《命樹の種子》を見れば、傷一つなく輝いていた。何故だ、と朔は呻く。すると咲羅は可憐に微笑んだ。


「どうしてって顔をしているわね? でもね、クビキリ。すごく惜しかったわ。私もぎりぎりで生成魔術で鋼の膜を作ってなかったら危なかったかもしれない」


 地を這う朔に咲羅はくすくすと笑いながら告げる。そうして、咲羅は視線を朦朧としたまま地へ伏せる由楽木へと映した。その瞳は美味しそうな獲物を見つけた捕食者のものだった。


「咲羅……止めろ、何をする気だ……!?」


 嫌な予感に朔が制止の声を上げるも、咲羅は無視したまま由楽木の襟口を掴み、ぐいと引き上げた。ぐったりと血を流しながら脱力する由楽木を愛しそうに見詰めながら、もう片方には由楽木が取り落とした細身の剣が握られている。その冷たい刃の輝きがひどく恐ろしかった。


「ねえクビキリ」


 咲羅は朔を見下ろし、微笑む。


「この青年が死んだら漸く貴女は絶望を知って、私を受け容れるかしら?」


 嬉々として尋ねてくる咲羅の目は本気だった。由楽木の命を奪う事が本当の目的ではない。彼女の狙いはあくまで自分だ。信念を修復不可能な位に壊し、絶望に塗り替える事で、咲羅が謳う神の愛とやらを受け容れさせる気だ。

 気付いた瞬間には朔は咆哮を上げていた。


「くそ!! やめろ………止めろッ! そいつに手を出したら絶対に赦さない……ッ!」


 喉が裂けそうな程に叫び、届く訳も無いのに朔は手を伸ばして必死に立ち上がろうと這いつくばる。もがれかけた左足と、右腕からは力を入れる度に血が噴出し、その血で滑り何度も地べたを這う。惨憺としたそのさまを咲羅は笑う。朔は軋み悲鳴を上げる身体も、灼熱のように腕と足から脳天へと響く激痛も無視して、刃を地へと打ち立て遂に片足と片腕だけで立ち上がる。

 気絶しそうな苦痛を驚異的な精神力で押しのけ、体中から血を流しながら朔は睨みつける

 けれど咲羅は聖母のように微笑むと、朔を嘲笑うように由楽木の首へと狙いをつけ、剣を振り上げた。切り落とす気だった。かつて第一の咲羅がそうされたように。


「由楽木ィィィィィィ――――――――――ッッ!!!!!」


 朔は渾身の力を振り絞って駆け出す。襤褸雑巾のような身体で必死に彼へと手を伸ばし続ける。けれどその指先は虚しく宙を切るだけで絶望的な距離が朔の前に立ちはだかっていた。

 ――遠い。

 全ての音が消えてしまったようだった。全ての光が消えてしまいそうだった。

 スローモーションのような世界の中で、己の喉からは支離滅裂な言語を叫び散らしているが、遠い世界の事のように聞こえていた。脳裏に初めて出会った時の由楽木の姿が過った。あのゴミ処理場で自分へと手を差し伸べて、微笑んだ彼を。


 刹那、夢から覚めるような破裂音が死の静寂を切り裂き、鳴り響いた。


 急速に朔の意識が引き戻される。

 咲羅は何故か朔の方向を見て、目を見開いていた。その華奢な身体には赤い点が刻まれていた。再び銃声。何発も銃弾を打ち込まれた朔羅はびくびくと痙攣しながら、その手から由楽木の身体と剣を落とした。解放され、地に落とされた由楽木は背を強かに打ち付けた。だが、その痛みによって覚醒したのか、胎児のように身体を丸めて激しく咳き込みながらも、すぐさま自らに治癒をかけ始めた。淡い光が彼の傷口を癒して行く。

 朔は呆然としていた。剣を支えにしたまま、血まみれで立ち尽くしていた。

 一体何が起こったのか分からず、痛みを堪えながら振り返る。

 そして、



「……セ、ツ?」



 半信半疑のまま彼の名を呼んだ。

 夢かと思った。しかし見えた金髪は、都合の良い幻ではなかった。

 戸口に立つ自動小銃を手にした褪せた少年――セツが、己の名を呼び駆寄ってきた。


「朔さん! 大丈夫ですか!?」


 何度も耳にした声。セツは朔に近寄ると、身魂魔術の治癒をかけ始めた。再生能力との相乗効果でみるみる内に深手を負っていた手足は活動可能な状態まで戻って行く。


「セツ……」


 呆然と朔はセツを見る。じわ、じわ、と。産湯のような温い感情が胸の奥に染み出す。


「……ありがとう。また君に、助けられたな」


 そう告げればセツは何とも言えずに情けない表情を浮かべた。


「助けてなんか……俺はそれどころか、あなたをずっと裏切って……」


 唇を噛む。ナグモたちを殺した事も、裏切っていた事も、全て彼の心に重くのしかかっていたのだろう。迷った筈だ。だが、それでもセツは来てくれた。朔達を助けるために。

 だからもう、少なくとも今此処では、彼を責めようとは思わなかった。


「セツ」


 朔はセツへと一つだけ問う。


「また、以前のように共に戦ってくれるか? 私にお前の命をくれるか?」


 それはセツが選んだ道を確かめる為の言葉だった。セツの瞳に、決意の光が宿る。


「勿論です。俺はもう、逃げません。この命を賭してでも、あいつを倒します」


 その答えに朔は頷き、凛と姿勢を伸ばして立ち上がった。突き立てて支えにしていた刀を振り、赤く濡れたその刃に再び光の輝きを取り戻す。セツはいつものようにそんな朔の隣に立つ。随分とそれが久しぶりのように感じられた。そして嬉しかった。


「饗庭羅刹……ッ!」


 くわと目を剥き出し、咲羅は端正な顔が歪むのも気にせずに詰問する。


「何故? あなたは確かに神の愛を知っていたのに、なぜ目が覚めたの? 一体何故!?」


 セツは一歩前へ歩み出ると、目の前の女の瞳を真っ直ぐに見て答えた。


「過去に縋る事は止めたんだ。桜の樹は切られてしまったけれど、俺はもうあの場所にはいない。俺は確かに雨宮咲羅に恋をした。桜と同じ色を届けてくれた彼女を。でも、俺は……もう二度と朔さんが泣く姿は見たく無いと思ったんだ。おかしいかもしれないけど、そう思えたんだ。偏愛狂死病患者だと思っていた。でも多分、この心は違う」

「神の寵愛を捨て、くだらない人の愛に芽生えたというのか? そんな頼りないものの為に命を賭けるというのか? あなたのその罪を赦せるのは雨宮咲羅しかいないのに!?」


 尚も食らいつくように問う咲羅にセツは笑って、底抜けに明るい声で認めた。


「そうだよ。俺は罪を犯した! だからここで償う。あんたに赦しなんて求めない!」


 そのセツの声を合図に、生気を取り戻したかのように朔は再び咲羅へと向かって駆け出す。セツは自動小銃で後方から援護射撃を行なう。火花吹く銃口から吐き出される銃弾を鬱陶しげに生成魔術によって咲羅は防ぎながら、遂に前へと動き出す。ゆらりとはためいた黒毛皮と赤いドレス。漆黒の羽を生やした堕天使のような女の剣が疾走した朔の剣を受け止める。咲羅が身魂魔術の肉体強化を口ずさみ、腕力を強化して剣で朔を弾き跳ばす。

 押し合いに負けた朔の身体が一瞬だけ無防備になったのを咲羅は見逃さず、横薙ぎの剣で胴体を切り裂く。ぎりぎりで朔はそれを縦に構えた刃で迎え撃つも、凄まじい剣圧に負けて右へと投げ飛ばされる。壁に激しく側面をぶつけそうになるが、飛ばされた朔の身体と壁の間に弾力性のある水のような物質が出現する。衝撃を吸収して朔の身体を受け止めたそれは役割を負えて一瞬で弾け消え失せた。

 視界の向こうで立ち上がった由楽木がどうやら咄嗟に生成魔術を放ったらしい。荒い息で立っているのもやっとな状態だったが、その顔にはいつもの意地の悪い笑みが浮かんでいた。


「咲羅様、形勢逆転の兆しが見えてきちゃったんじゃないですか?」


 その由楽木らしい人の神経を逆なでする台詞に咲羅は顔を歪める。


「このっ、死に損ないがァァァあぁ!!!!」


 咲羅は忌々しそうに由楽木へと生成魔術を放とうとするも、それをセツの銃撃が阻む。一瞬で咲羅の標的は重傷の由楽木からセツへと切り替わり、長い爪先を向けた。魔力で形成した刃の群れをセツへ飛ばす。生成魔術を得意としないセツは横へと走り、逃れようとする。執拗なまでに狙う咲羅は気を取られ、朔の刀が迫っている事に気付かなかった。


「そこだッ!」


 朔が咲羅の首元を狙う。鋭い白刃の一閃が咲羅を襲う。気付いた咲羅は僅かに身を退くも、朔の放った一撃をまともに喰らい、首から斜め下の脇に至るまで切り裂かれた。溢れ出し朔はその身に咲羅の血を浴びる。しかし流石は《命樹の種子》を宿しているだけあって、通常であったら瀕死になる筈の傷もすぐに再生され始める。夥しい血を流しながら咲羅は赤い唇を釣り上げると、笑い声を上げて朔の腹を刃で貫いた。

 焼けるような痛み。内蔵を貫通し背へと抜けた刃に朔は目を見開く。最早穴という穴から血を流す朔は再生と破壊の釣り合いが取れず、蒼白な顔は死人のそれだった。

 しかし朔は小さく笑むと、隠し持っていた鎌状の刃――雨宮朔の血がつけたそれを、素早く咲羅へと打ち立てた。《命樹の種子》へと向かって強い一撃が繰り出される。


「ぐ………ァ!」


 咲羅の美しい顔が苦悶に歪む。その目は見開かれ、虚空を見詰めていた。

 刃は今度こそ確かに胸元の結晶を捉えていた。朔はより深く穿とうと力を込める。ずぷずぷと刃がめり込む度に咲羅の僅かに開いた唇から血が零れた。

 咲羅の身体が僅かにふらつく。倒れるかと思ったが、小さな笑い声が朔の耳に届く。まさかと思い咄嗟に朔が顔を上げると、自分を見詰める咲羅がいた。その瞳に死の色は無い。


 ――何故だ。

 確かに《命樹の種子》に雨宮朔の血は穿たれているのに、何故未だに咲羅は消えない?


 輪転する問いの中で、咲羅が笑う。


「ふふ、ふふふふ……頑張ったのは認めるわ、死神クビキリ」


 結晶に刃を穿たれたまま眼前の咲羅はふわりと微笑むと、朔を愛おしむように優しく撫でた。同時に朔を貫く刃を持つ腕が、ぐり、と抉るように回される。回転した刃に朔は悲鳴を上げるが、それでも咲羅は手を緩めない。更に奧へ進もうと朔の体内を抉り、刃を深く穿とうと突き上げる。


「本当に良く出来ましたと言っておこうかしら。ご褒美に、雨宮朔の血の刃を穿たれても未だに死なない私の謎。その答えを教えてあげる」


 朔の悲鳴に陶酔した表情を浮かべながら、咲羅は歌うように告げる。


「私の器は確かに雨宮咲羅の複製だけど、欠けた《命樹の種子》を穿たれた私自身は、『雨宮咲羅』に成り得ず、貴女と同じように新たな人格を形成したの。それが私であり、そしてこの器を浸食した。器の愛する者の血が《命樹の種子》を破壊する……それには変わりは無いわ。ただ私という器が愛しているのはね、クビキリ」


 くすり、とおぞましい位うつくしい声音で咲羅は笑った。


「人類全体なのよ。神のような無条件的な愛を私は全ての者へ与えたいと、心から願っていたから。だからね、私を倒すにはこの世界全員の血が必要なのよ」


 冷酷に告げられた真実に、絶望に視界が暗くなる。

 そんな、と声を震わせる朔の顎を、咲羅は指先でくいと上げる。口づけでも交わそうかという位に近くまで咲羅は顔を近付けると、耳元でぞっとするほどの美声で囁く。


「愛しているわ、クビキリ。無条件に貴女を受け入れられるのは、私だけ」


 どうか苦痛も哀しみも無い優しい世界を創りましょう、と咲羅は朔を見詰める。その底知れぬ闇を潜めた瞳に見入られそうになる。その長い爪の先が朔の血塗れた唇から首筋、鎖骨をなぞり、やがて朔の胸元にある《種子》の欠片で止まった。そして咲羅は、その手に生成した銀色に光る短刀で、朔の欠片を抉り出そうと振り上げた。

 だがその刹那、太陽のような金髪が朔の視界に入った。

 そしてその眼前に広がる闇を切り裂くような明るい声も。


「――――朔さんに触るなッ!」


 背後から飛びかかったセツが咲羅を羽交い締めにして、その振り上げた腕を掴む。


「っ、この……! 糞餓鬼ッ!!」


 衝撃に咲羅が目を見開き、鬼の形相でセツを振り払おうとする。だが必死でセツはその腕へとしがみつき、短刀を持つ腕へ猛犬のように噛み付いた。引き千切る勢いで噛み付いたセツに、血肉を喰い千切られた咲羅は短刀を取り落とす。咲羅の唇が何かを紡いだ。


「セツ!」


 咄嗟に朔は呼ぶ。気付いた瞬間には、咲羅が生成した刃がセツの背後に現れ、容赦無くその体躯を切り裂いた。セツは目を見開き、口から鮮血を噴き出す。セツの背には無数の刃が突き刺さっていた。まるで天使の羽のように突き立てられた刃の切り口からは、セツが呼吸する度に血が噴き出していた。生きているのが不思議なくらいの状態で、セツは顔を上げて朔を見た。


「朔、さん」


 ひゅうひゅうと、喉を鳴らしながら息絶え絶えにセツが朔の名を呼ぶ。

 そして朔が好んだ、太陽のように明るい笑顔で言った。


「約束を破って、すみ、ません。おれ、あなたと会えて」

 ――良かったです。


 そう告げるとセツの褪せた金髪の頭は事切れたように項垂れた。最早、その身体に魂は無く、骸に成り果てていた。朔は、セツ、と震える声で呼ぶ。けれど彼は動かない。動かない、のではない。彼の手は未だに咲羅の腕にしがみつき離れていなかった。


「こ、この、離せ!! 私を愛さずに死ぬ、愚か者の癖にッッ!」


 離れぬセツの腕を鬱陶しげに咲羅は身を捩らせ、思い切り振り払おうとする。そんな苛立つ咲羅の姿を見て、朔は僅かに微笑みのようなものを浮かべた。正確には死しても尚、朔を助けようとするセツに向けての笑みだった。


「……良いさ、セツ」


 ぽつりと呟き、朔は咲羅を見据える。その黒真珠の瞳は、絶望に陰ってはいなかった。


「私も……今回ばかりは、約束を違えてしまいそうだからな」


 渾身の力を込めて咲羅の胸元に埋め込んだ鎌形のナイフを引き抜く。そして結晶を抉るようにして切り裂いた傷口へと朔は手を思い切り埋めた。最大限の力で抉り――諸悪の根源である《命樹の種子》を遂に掴む。咲羅の顔に初めて恐怖が滲む。


「――うっ、ぐぁ……ッなっ、なにを……っ!?」


 そんな咲羅の声を聞きながら、朔は笑んだ。その壮絶なまでに美しく、強い光を宿した瞳に咲羅は気圧され怯む。感じた事の無い畏怖がその美貌を駆け巡って、冷静な判断も多幸感も麻痺させていく。微笑む朔の手の中には、咲羅の《種子》があった。


「終わりだ」


 朔は掴んだ結晶を、思い切り引き抜いた。ぽかりと咲羅の胸に空いた穴から血が溢れ出す。ずるりと朔が引き抜いた結晶、《命樹の種子》は多量の青白い光を溢れ出し、未だに咲羅との繋がりを持っていた。もう躊躇う事も迷う事も無かった。



 朔は手にした《命樹の種子》を――――己の胸へと突き刺し、深々と穿った。



 咲羅から分離され、穿たれた《種子》は朔の身体を新たな器として認め、ずぷずぷと浸食を始める。魂を引き千切るような苦痛に朔は声にならぬ叫びを上げ、意識を手放しそうになる。

 薄まる意識の中、朔はすぐ近くで己のものではない絶叫が聞こえた。


「――――――ぁぁっぁぁぁぁぁああああああッッッ!!!」


 怨嗟のような断末魔が目の前にいる雨宮咲羅の細い喉から振り絞られる。朔は後方へよろめき、膝をついて見上げた。咲羅の美貌は風化した石像のようにひび割れ、崩れ始めていた。

 だが叫びはやがて、狂気を孕んだ笑い声へと変わる。


「でも、終わ、らないわ。ふふ、ふふふふふ、今度は、貴女の番……! 種子を受け入れた貴女が、また、咲羅に、なるだけ。決して終わらない……私の身体が、意識が、夢が、楽園が崩れようとも……この愛は、永久に、《命樹の種子》は、新たな神は、あなた、を、うつわに、すべて、おわらな、い」


 崩壊の中で咲羅は支離滅裂とした言葉を紡ぐ。魂と呼ぶべき部分を奪われながらも、愛の囁きのような呪詛を吐き続ける咲羅は、器も自我も消滅へ向けて崩壊の一途を辿っていた。

 あ、あああ、ああ、あ、と嗚咽のような声を吐きながら咲羅は憎むような、それでいて愛するような目で朔を見詰め、その手を伸ばしてくる。

 ――痛かった。苦しかった。

 それでも朔は最後の力を振り絞り、立ち上がった。そして、




 鎌形のナイフを鋭く振り上げ――――雨宮咲羅の首を刎ねた。




 直後、首を失った雨宮咲羅の肉体は、長い爪先から砕け、あっという間に砂塵となり、形を失う。ぼろぼろと崩れる肉体の傍ら、地に転がった首も、砕けた。

 吹き込んだ一陣の風が雨宮咲羅だったものを攫う。

 そうして、完全に消え去り静寂が広がった。

 ――終わった、か。

 咲羅の最期を見届けた朔の手から、ナイフが落ちる。もう限界だった。


「クビキリッ!」


 倒れる、と思った瞬間には身体は糸が切れた人形のように、力を失い崩れた。

 けれど衝撃は無かった。痛みの中、どうにか目を開けば血塗れの由楽木がいた。酷い怪我を負っているのに朔の身体を抱き抱えて「この馬鹿」「どうして」と至近距離で喚き散らしている。正直五月蝿い。そんなに喚き散らしていたら出血多量で死ぬぞ、と朔は内心苦笑いした。


「……由楽木。耳が痛いから、もう少し落ち着いて、くれ」


 そう途切れ途切れに朔が不満を呟けば、由楽木は声を荒げて罵倒し始める。どうやら火に油を注いでしまったらしい。相変わらず己の対人能力は低いようだ。最期まで。


「巫山戯るなッ! クビキリ、君は本当にどうしようもない馬鹿だ! どうしてまた勝手な事をしたんだ!? 《命樹の種子》を身体に取り込んだら、雨宮咲羅の思惑通りじゃないか!」


 君は馬鹿だ、と由楽木は繰り返す。明らかに重傷者を前にして言う台詞ではなかったが、朔を支える腕は微かに震えていた。彼が騒ぐ度に血が飛び散り、朔の頬へと跳ねる。

 性格の悪そうな笑みを貼り付かせた、いつもの彼らしい姿はそこに無かった。みっともないくらいに取り乱して、気の毒になるくらいぼろぼろで、今にも泣き出しそうな顔をしていた。唇はすっかり切れて血が出ているし、所々腫れて青くなっていた。綺麗な顔立ちをしているのに勿体無いな、と朔は思った。


「由楽木。おまえ、ばかみたいに情けない顔、しているぞ……?」


 眉間に皺を寄せて朔が指摘すれば、してない、と由楽木は虚勢を張る。意地を張った幼い子供のような彼へと朔は手を伸ばす。

 強い吐き気と意識の混濁の中で、朔は己が呑み込まれるのも時間の問題だと悟った。

 朔は幾多もの戦いを共に居た剣を由楽木へと突き出す。そして言った。


「由楽木。私を、刺せ」


 それは、告白だった。


「お前の血で濡らした刃で、この《種子》を貫くんだ」


 刀を突き出された由楽木は、そんな、と声を震わせた。


「まさか、君は、僕に君を殺せとでもいうのか? あの咲羅では倒すのは無理だから、だから《命樹の種子》を完全に壊す為に、わざと自分の身体に植え込んだのか……!?」


 ああ、と朔は頷く。そんな朔を信じられないと言ったような顔で由楽木が笑う。


「なにを、何馬鹿な事を……っ! この期に及んで、君は何を愚かなことを言い出しているんだ? 種子を破壊するには、君が愛する人間の血が必要なんだよ? いい加減、馬鹿な事ばかり言うのは――」

「知って、いる」


 遮るように朔は言い、微笑む。


「だから他でも無いお前に、頼んでいるんだ」


 由楽木は益々訳が分からないと言った顔をする。朔はこの男は馬鹿かと心底思った。けれどそんな心中は流石に口に出さないと伝わらないのか、由楽木は笑った。泣きそうな顔で。


「クビキリ。こんな状況で、笑えない冗談は止めてくれ。だいたい僕の血で君が――」


 死ぬ訳ないじゃないか、という言葉は朔の唇によって塞がれた。

 触れたのは一瞬だった。

 血の味しかしなかった。残念だと朔は思う。けれど悪くは無かった。

 そうして少しして離れると、由楽木は呆気に取られた表情をしていた。何をされたのか全く理解が追いついてないらしく、ただただ幼子のようにきょとんとして朔を見詰めている。

 すまない、と朔の唇が謝罪を紡ぐ。けれど本当は、これっぽちも朔には謝罪する気などなかった。由楽木が予想外に阿呆過ぎる。いつも好きだとか愛しているとか言うくせに、いざ好意をこちらが向けたら、理解がやたらめったら遅い。それが悪い。

 それでも何となくこの場に於いては謝罪が適切かと思って口にしたのだ。可哀想なくらいに彼が動揺していたから。


「……は? いや。すま、ないって……どういう」


 目に見えて慌てふためいた由楽木が唇に触れ、その端正な顔を柄にも無く紅潮させていた。何だその反応は。この男、いつも偉そうな癖に初めてだったのかと朔は笑い出しそうになる。

 何でもかんでも知ったような顔をして始終人を見下したような態度で振る舞う癖に。私がお前を好きだと思うのはそんなに意外だったか? と朔は問いたくなる。

 けれど朔自身も正直驚いていた。

 よりによってこんな人格破綻者を好きになるなんて本当におかしな話だ、と。勿論、この思いが本当に愛なのかは、朔にも分からない。ただ、好きだという言葉が先走っていて、何もかも追いつかない。これはきっと多分――初恋だから、そうなのではないだろうか。何も知らない朔は、この初恋に賭けるしかない。世界の命運を。

 沢山の思いが朔の心から溢れ出す。それなのに、その全てを言葉にする事は叶わず、もどかしかった。悔しかった。けれど何故か心は不思議と満たされていた。


「……君は酷い。やっぱり残酷だ。君は、やっぱり死ぬ気だったのか? この僕に、嘘を吐いたっていうのか?」

「違う」


 即座に、朔は否定する。それだけは誤解して欲しくなかった。


「これは生に望みをかけて、やる事だ。この胸に埋まった《命樹の種子》だけ破壊し、欠片が傷付かずに、私を生かす魔力が残っていれば――生き残れるかもしれない」


 それに、と朔は続ける。


「これでお前の愛も本物か、確かめられるじゃないか。もしも魔法が解けても、お前が私を愛していたのなら、晴れて、相思相愛、という訳だ」


 自分で言って可笑しくて笑い出しそうになる。けれど本心だった。朔は溶け落ちそうになる意識をどうにか保って、由楽木の瞳を真っ直ぐ見詰めた。


「私は諦めない。希望は潰えないと信じている。だから生きる為に、由楽木、やってくれ」


 剣を由楽木の硬直する身体へと押し付けるようにして預ける。朔と由楽木は少しの間、見詰め合った。そうして由楽木の固まっていた身体がふと力が抜けた。やれやれ、と彼はいつもの軽薄そうな笑みを浮かべて剣を手にする。


「君は本当にどうしようも無い人間だ。この僕にこんな事をさせるなんてね」


 口調こそ平生通りに刺々しかったが、由楽木の瞳はひどく優しかった。


「クビキリ。悪いけど僕は何も言わないよ。君は生きて、僕の告白を聞かなきゃならないんだから。そして酷い君をたくさん困らせてやるんだから。……だから絶対に、死ぬんじゃないよ」


 そう囁かれたと同時に――由楽木の血に濡れた刃が《種子》ごと朔の身体を貫いた。

 衝撃に朔の身体が仰け反る。

 カシャン、と。繊細な硝子細工がひび割れる音が響いた。

 由楽木の血によって《命樹の種子》は一瞬で砕け散った。その時に朔はふとある事に気付いた。なんだ、由楽木。やっぱりお前は偏愛狂死病患者じゃなかったじゃないか、と。《服従》を誓った相手を殺す事は、偏愛狂死患者にはできないのだから――と。

 けれど朔がその言葉を口に出す事はなかった。粉々に砕けた《命樹の種子》から光が溢れ出す。その眩さに目を眩ませると、光は爆発するように広がり、霧散して消えた。直後に、天へと伸びていた命樹が呼応するように音を立ててひび割れ、同じように砕け始める。

 きらきらとした砕け落ちる命樹。やがて、轟、という突風が音を立てて其処に吹き飛んだ。砕けた命樹の破片は桜の花弁のように柔からな欠片へと変容し、激しい風に吹かれて放射線状に飛び散った。花弁が舞い上がり消えて行き、大気が動き出す。

 そよぐ風は灰色の雲に波間を描き、そして暗雲を蹴散らした。そして割れた天窓から、光が降り注ぐ。

 朔はその光に導かれるようにして顔を上げた。

 そして、息を忘れた。

 見上げた空は――美しい青と、輝く太陽の光を取り戻していた。

 薄れ行く意識の中、朔は求めていた空へと手を伸ばす。舞う桜の花弁と、突き抜けるような空の青さと、太陽の輝きがこれほど美しいとは夢にも思っていなかった。

 伸ばした手から力が抜け、落ちそうになる。しかしその手を、あたたかな手が取った。

 朔は滲む視界の中で、視線だけ動かして手の主を探す。

 すると、由楽木の冴え冴えとした青い瞳と、目が合った。

 彼の背後に見えた空の青さと、同じ色の瞳。

 朔は眼を見開いたあと、柔らかく細めた。

 ――ああ、何故気付かなかったのだろうか。

 そのとき、漸く朝日の残した謎が分かった。すると何だか腹の底から、「可笑しい」という感情が込み上げて、朔の顔は自然と綻び――――そして、笑った。






「空は、こんなにも近くに――あったのか」






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ファム・ファタルの恋──其の偏愛狂死病患者の末路── 一時匣 @hitotoki

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