いびつな微笑 Ⅲ

 女王はつと、顔をあげた。

 俺はもう一歩、前へ進み出た。やわらかな光のなかで、己の声は驚くほどよく透き通った。


「その手を離せ」


 ウェンディから。

 俺に名を呼ばれ、女王の腕のなかにいたウェンディも涙目のまま振り返る。


「どうしました? 人間の若者よ」

「……悪いな。運命って言葉、俺は嫌いなんだ」

「ふふっ」


 恐ろしく淡々とした声に、女王は笑った。


「……怒っているのですか?」

「当たり前だ」


 俺は妖精の女王を見すえた。静かな怒りを湛えたアイスブルーの瞳が、女王の微笑を捉える。


「みんな泣いているのに、どうしてあんただけ、ヘラヘラ笑っていられるんだよ」

「…………」


 ウェンディも、腕のなかで女王の顔を見上げた。途端、抱きしめられていた腕が解かれる。女王が俺の前へ出ようとして、彼女は慌てて脇によけた。


「あなたには、ウェンディとカールが大変お世話になりました」

「ああ。こっちも森で助けられたよ」


「そうですか。でも、残念ながらあなたでは、あの剣を引き抜くことは叶わなかったようですね」


 女王は口元に手を当てた。ここでようやく、女王は俺のことを単なる人間ではなく、一人の人物として見定めているよう目を上から下まで動かした。


「そのことを責めるつもりはありません。むしろ、わたくしたちの事情に巻き込んで申し訳なかったと思います。

 ……ワタクシが、つまらないことを言ったばかりに、ね」


 女王は全員を見渡した。そして全員に聞こえるように言った。


「裁判の続きをしましょう。ワタクシは人間への罪を取り下げます。言葉どおり、処罰はなし――ですが、おきてには従ってもらいますよ」

「えっ、掟?」


 鼻をすすりながら、ウェンディがたずねる。

 妖精の女王はウェンディに向かって、こくんとうなずいた。その目はおだやかであったが、憐憫れんびんの色が浮かんでいる。


「ええ、妖精族の掟です」


 あれを。

 と女王が後ろを振り返って言った。


 すると、奥に控えていたフードをかぶった一人の妖精がしずしず前へ進み出てきた。

 その手には、なにやら木のお椀を持っていた。お椀のなかには澄んだ液体が入っている。


「女王様、これは……?」


 カールが不思議そうに見つめて言った。どの妖精もきょとんとしている様子から、見知らぬものらしい。


「妖精に関わった人間は、必ずこの薬を飲んで頂くことにしています。猛毒ではありません、命は保証します。

 ……ただ、この薬には妖精のまじないがかけてあるのです」


「まじない、ねぇ」


 俺も、うさん臭そうにお椀のなかをのぞいた。


「人間の若者よ。あなたには、この薬で――」


 女王は妖精からお椀を受け取ると、それを両手に持って俺の前へ差し出した。


「記憶を消してもらいます」

「!」


 女王の言葉に、その場にいた全員がどよめいた。


「記憶を……」

「さぁ、お飲みなさい」


 言葉を失う俺に、妖精の女王はにっこり笑いかける。両者の狭間で、ウェンディは困惑した表情で二人の顔を交互に見つめた。

 木の器のなかで、無色透明の液体がゆらめく。俺は目だけを上げて女王にたずねた。


「もし、飲まないと言ったら?」

「その時は、光となって消えていただきます」


 女王は手のひらを上に、片手をあげる。彼女の手のなかでマーナの光がきらめきはじめると、俺はごくりと息をのんだ。


 記憶を消すか。

 それとも、死を選ぶか。

 二者択一の究極の選択ということだ。


「なにを迷う必要があるのです?」


 女王は優雅に小首を傾げた。同時に、彼女の額を飾るティアラの青い宝石があやしく光る。


「これは罰ではありません。むしろ、あなたにとって救いになると、わたしくは思っております」

「救い……?」


 俺は聞き返した。「ええ、救いです」と、女王はやさしくうなずく。


「だって、そうでしょう? なにもかも忘れてしまうことができるのですから。つらい過去はもちろん、自分が何者であったのかでさえも……」


「!」


 俺の顔がこわばる。はっと、微笑をたたえる女王と、その額のティアラの両方を見やった。


「やっぱり……」


 心が、読まれている。

 と、俺が身構えた瞬間、頭のなかに女王の声が響き渡った。


『そう。わたくしは、あなたの心が読めます』


 きれいな唇は閉じられたまま、女王はおだやかな目で俺を見つめている。


『あなたの記憶も、ね』

「ッ!」


『可哀想な人。とても厳しい目に遭われてきたのですね。……波にゆられ、遠い所からやってきて――』

「やめろッ!」


 悪夢を払うように、俺は両腕を振りまわして叫んだ。


 突然、取り乱した様子の人間に、周囲の妖精達はなにが起こったのかわからず、ただ震えている。妖精の女王だけが、ふふっと声を立てて笑っていた。


「それでは直接、口でお話しましょう」


 女王は俺に、この奇妙な仕掛けについて話しはじめた。


「妖精の源となるマーナですが、じつは人間や動物の体内にも、わずかに蓄積されていることをご存じでしたか?」


 女王はしゃがんで、足下に生える草を適当に摘んだ。すっと立ち上がると、彼女は摘んだ草を俺の前に見せた。

 草の根が揺れて、土がぽろぽろ地面へこぼれる。


「樹木や草花など、マーナは植物の生命エネルギーでもあります。

 時に植物は食物や薬として、あなた方の口に入りますね? 体力の回復や治癒効果を得られるのは、ひとえにマーナの力のおかげなのですよ」


 女王はぱっと指を離した。そのまま手を天上の彼方、大樹のあるほうに向ける。


「千年樹はマーナを通して、すべての生命と繋がっています。そして、ワタクシと千年樹は一心同体の存在。ワタクシは大樹を経由して、あなたの心を読み取っているだけ」


 無論、妖精たちが考えていることも、すべてお見通しです。

 と、女王は言い切った。


「――さて、話を本題に戻しましょうか」


 女王はフードをかぶった妖精から、薬の入った器を受け取った。それを両手で優しく包みながら、すっと俺の前に差し出す。


「飲むか、それとも命を消すか。お選びなさい」

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