僕の好きなミッカ


 コルニクス音楽学院は、昼の国の中でも比較的小さな音楽学校だ。けれど地元では人気が高くて、ミッカも当然のようにこの学校へ進学した。


「こんにちは守衛さん。チェロのコンクールはどこでやっているかわかる?」


 正門の横にある守衛室を訪ねると、大きな丸眼鏡をかけたおじさんが不思議そうな顔をした。

「今日はどこのホールも閉まってて、コンクールはないはずだよ。教室でやる学内テストじゃないのかね」


 そうかもしれない。僕は音楽学院のことなんて知らないから、ミッカの言う「コンクール」と「演奏会」がどう違うのか、わからずに話を聞いていることがよくあるもの。


「今朝、白のパスポートが届いたの。教室の中に入ってもいい?」


 まるでテレビドラマみたいな台詞だけど、効果は抜群のはずだ。

 一つだけ難点を挙げるなら、ドラマや映画でこの台詞を言った主人公は会いたい人に看取られながら死んでしまいがちなこと。だけどそれはフィクションによくあるお約束に過ぎない。これが現実でも起きるなら「今日は娘の誕生日なんだ」と言った警察官は全員、娘に会う前に死ぬ。


 案の定、守衛さんはどこかへ内線で連絡を送ったあと「お行き」と僕の首に入場パスをかけてくれた。

「誕生日おめでとう」

「ありがとう、守衛さん。またね」


 ひとりで学内を歩くのは今日が初めてだ。僕が通っている児童学校プライマリーよりずっと広いけど、ミッカに何度か案内してもらったから、どっちへ行けばいいかは大体わかる。チェロ専攻クラスに割り当てられた教室やホールは、食堂より奥にある建物の中だ。


「ミッカ!」

 僕は走りながら思わず叫んだ。良かった、僕は早くもミッカの姿を見つけることができた!

 一階がガラス張りになっている新しい音楽棟。中は広々としたレッスンルームで、数人の学生がピアノのテストをしているようだ。


 ミッカはチェロもドラムも歌も上手いし、ギターだって見事に弾くけれど、正直ピアノは得意じゃない。たぶん、僕のほうが少しマシだ。


 僕は、ホワイトパスのことを一瞬忘れるほど心配になった。ミッカはこのテストをパスできるだろうか。

 どうせやかましく走っても中までは聞こえないのだけれど、僕はなんとなくこっそり近づき、そっとガラスに手をつけて教室の中を覗いた。

 目をこらして向こう側にいるミッカの様子をうかがうと、しきりに首を傾げて楽譜をめくっている。


 やっぱりどうしようもなく不安だ! 僕が代わりに弾いてあげたいとさえ思う。


 黒髪を顎の長さで切り揃えたミッカの横顔は印象的で、僕はそれを見るのがとても好きだった。

 聖歌隊で出会ったばかりの頃は、アシンメトリーにつり上がった目元が少し怖かったけれど、今はそれも『涼しげクール』だと思う。

 十五歳のミッカは去年より身長が伸びて、以前よりますます大人っぽくなった。豊かな感じのするテノールの声は音域がより一層広くなり、深みも増して、要するにすごく格好良い。


 僕は聖歌隊ではずっとソプラノで、ミッカはずっとアルトだった。僕らは互いに互いの歌声のファンになって、だからすぐに仲良くなれたんだと思う。


 けど、もし僕が声変わりしてソプラノを歌えなくなったら、ミッカは僕に興味を失くしてしまうだろうか? と思ったこともあったけれど、答えはすぐ出た。

 きっと僕らはこのまま変わらない。現に僕は、ミッカが聖歌隊を抜けた今でも彼のファンのままだ。


 突然、何か閃いたみたいにミッカは僕に気が付いた。手を振りながら立ち上がると、こちらへ近づいて少し屈む。そしてガラス越しに僕らは手のひらを重ねた。


 ミッカ! あのね、実は今朝、ホワイトパスが来ちゃったんだ。きみと同じレッドパスじゃない。だから僕、八時になったら夜の国へ行くんだ。

 だからもう僕らはお別れかもしれない。どうしよう、ミッカ。


 きっと僕が何を言っているのかわかっていないミッカは、いつも通りに微笑んでいる。首や胸の辺りを指さしてウインクしているのは、僕が着ているタキシードやタイを褒めているんだろう。

 これはきっと、僕がパーティー用の服を見せびらかすために来たと思ってるに違いない!


 先生のような人に呼ばれて、ミッカは再び、僕に手を振りながらピアノのある方へ戻っていった。まだリハーサルのようだけど、ミッカの番が回ってきたんだ。


 何もわかっていないミッカ。

 ちょっと呑気でたまに間抜けな、僕のミッカ。


 ああ! たとえ今日がテストでもコンクールでも、必ず僕の誕生日を祝いに来てねって、どうして昨日の僕は言わなかったんだろう。どうしてって、それは僕もミッカと同じくらい呑気で間抜けだったからだ。嬉しくないけど、僕らはそういうところも似てるんだ!


 ピアノのテストと僕の人生の一大事。どう考えても僕のほうが大事に決まっている。だけれど今、この教室に僕が乱入したら、ただでさえぎこちないミッカのピアノ演奏が、更に酷いことになってしまうかも。

 チェロクラスなのにピアノのせいで留年するのは可哀想だし、僕もなんだか悪いことをするようで気が引ける。


 僕はよし、とひとつ決めた。

 ミッカと話をするのは後回しだ。なにしろ今日は、たった一つの後悔もない日にするんだから。


 一番重要なことを考えよう。僕が八時までにしなければいけないことはどんなこと?

 答えが出るより先に、もう僕は走り出していた。学内広場の時計は午後五時を指し、どこかで時報の鐘が鳴っている。

 さあ、どうしよう! 僕は焦っているんだ。身体が勝手に動くくらい、それはもう激しく!




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