琺瑯者たち

伊島糸雨

琺瑯者たち


 救いなどどこにございましょう。純然と在るのは錆びた月の色ばかりです。都市は星の海に変わるだろうと女王は仰せになりました。それももう、ひと月前のことにございます。

 私にはあの結晶が呪いか祝福かなど皆目見当もつきません。璟雪けいせつ瓈禳りじょうの姉妹神にまつわる逸話は多くの民が知るものですが、斯様に遠き日の争いが何ゆえ今降りかかるのか、陛下は明らかになさりませんでした。今や離宮からは月夜に錆びる結晶の階梯が伸び、陛下は我らを置いて月へ奔ってしまわれました。病者は都を彷徨うばかりで、私もまた、空を仰ぐ他に気の紛れることはございません。

 琺迹ほうせきの病は遍く民をささやかな光へ変えてゆきます。私もつい先日、皮膚にひとつ現れました。ごく小さなものですが、我らはもう、これが不可逆への道行であると心得ております。璟雪が捏ねた土塊に瓈禳が琺瑯ほうろうを施したその時から、このような日は予見されたのやもしれません。醜く儚い泥人形か、美しく愚かな琺瑯者ほうろうしゃか。どちらが人の本性か、解が示された例はございません。如何に試みようとも病は進み、錆びた星となるのが落ちでしょう。宮廷を離れて見えたものは、人に蔓延る昏い輝きばかりにございます。

 女王陛下の主治医であった篆刻家の瑝凜こうりん様は、体表より剥離した琺迹に玉象ぎょくしょうを彫って秞薬とし、これを飲むことで進行を抑制できるとおっしゃいました。お顔を拝見したことはございません。陛下の他には、姿を見せぬお方でしたので。

 寝室には瑝凜様だけが入ることを許されておりました。陛下はひとり露台から空を眺むのを好むようなお方でしたから、宮仕えの者は皆驚いたものでした。今ではその意味も、わかるような気がいたします。

 私はここに残るつもりです。陛下のおっしゃった都市の姿を──星の海を見てみたいのです。あのお方は、美しきものを愛しておいででした。私は終ぞお傍に立つことは叶いませんでしたが──こうしていると、陛下が私を見ていてくださるような気がするのです。遠く月の都から、私が錆びた光に変わりゆくのを、見ていてくださる気がするのです。

 陛下もきっと、今の私と同じ理由で、月を見上げておられたのかと思います。ですから、貴女は陛下にとってそのような存在であったのでしょう。

 ああ、どうかお気をつけて。貴女が手にした月の琺迹が、呪いではなく祝福でありますように。

 いつかお戻りなったその時には、貴女が叶えた願いの果てを、どうかご覧なさいませ。

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琺瑯者たち 伊島糸雨 @shiu_itoh

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