根絶やしのバベル

なかいでけい

根絶やしのバベル

そうしてあなたたちは、永遠の眠りにつく


 千切れた紙片に書かれた旧言語を、辞書を片手に翻訳し終えた少女は首をかしげた。

 ――それだけ?

 物陰にひっそりと、誰にも見つかることなく隠れていたような紙片なのだから、きっと旧時代の技術の一端が書かれているに違いないと期待したが、実際は詩か何かの一部だったようだ。

「それで、その紙にはなんて書いてあったの、ンクァタ」

 部屋の片隅で、車椅子に腰掛け写真集を眺めていた青年が訪ねた。

「そうしてあなたたちは、永遠の眠りにつく、だと思うんだけど、シェーベならなんて読む?」

 シェーベと呼ばれた男はンクァタの使っていた辞書を手に取ると、しばらくページを行ったり来たりさせてから、頷いた。

「うん、それであってるんじゃないかな」

 それを聞いて、ンクァタはため息をつきながら、壁にかけられたコルクボードに紙片をピン留めした。

「あーあ、結局また、役に立たないのか……」

 コルクボードには、過去に外で見つけた旧言語が書かれた紙切れがいくつか、同じようにピン留めされている。そのいずれも、宣伝文句や詩の一部のようなものばかりだった。

「そう腐らずにさ、地道に探していけば、いつかはきっと役立つものを見つけられるはずだよ」

「そんなこと言ってる間にさ、発電機だって耕運機だって、どんどん腐ってダメになっていっちゃうじゃん。私たちの生活は、日に日に悪い方向に向かって進むばっかり。何年もしないうちに、村の機械なんかどれも動かなくなっちゃうよ」

 かつて存在したはずの旧文明の恩恵を受けることもできず、日ごとに原始的な生活に逆戻りしている自分達の生活を思って、ンクァタは俯いた。

 昔々は、外にはたくさんの旧言語が溢れていたらしいのだが、それらは全て、爺様たち旧時代の生き残りたちが、消し去ってしまったのだという。あるものは塗り潰し、あるものは砕き潰し、あるものは焼き払って。それがどんな理由によって行われたのかは誰にも知らされておらず、今現在において、ただ一人の旧時代を知る生き残りである爺様に直接聞いてみても、無言で首を振るばかりで、なぜ旧言語を消し去ってしまったのかは教えてくれなかった。そうして、今や村には奇跡的に爺様に見つからずに済んだ数冊の本しか残されていないのだった。

 シェーベやンクァタが、こうして旧言語を紐解いている事実は、他の村人たちにとって暗黙の了解となっていた。爺様だけには知られないように、こうして村はずれの廃屋でひっそりと活動しているのだった。


 ◆

  

「タクゼガが、山を二つ越えた先にある谷間に、手付かずの旧文明の集落があるのを見つけた。腐ってない発電機があるかもしれない。明日、何人か連れて行ってみようかと思う」

 夕食時、粥をすすっていた父が言った。

「本当かい。それはありがたいね。腐ってない化繊の服も、見つかるかな」と、母。

「服くらいなら、おそらく見つかるだろう」

 父は頷いた。

「手付かずの集落って、それは旧時代の文字がまだあるってこと?」

 ンクァタは気になって尋ねた。もしも爺様たちが文字を消し去っていないのなら、沢山の書物が残されている可能性がある。

「そうだな、タクゼガはその集落には文字がたくさん残っていたと言っていた」

 父の答えに、ンクァタは胸の高鳴りを覚えた。集落の大きさがどれほどのものかは分からないが、書店や図書館があるかもしれない。もしもそんな書物の収蔵庫が見つかれば、失われた技術を大量に蘇らせることも夢ではないだろう。

「ねえ父さん、私も一緒に行ったらダメかな。その、荷物を運んだりする手伝いはさ、何人いたっていいでしょ?」

 ンクァタは興奮を抑えながら言った。そんなンクァタを、父は黙って見つめ返した。

「それに、ほら、私、役に立つと思うんだけどなぁ……」

 ンクァタはそこまでいって、父に目配せをした。ンクァタが旧言語を読めることを知っている父は、得心したように何度か小さく頷いた。二人の間で交わされている言外の意味が理解できない弟は、不思議そうに首をかしげている。

「明日は朝から夕方ごろまでずっと歩き続けることになるだろう。大変な思いをするだろうが、我慢できるか?」

「うん、大丈夫。絶対役に立つから!」

 ンクァタはそう言って勢いよく粥をすすった。

 

 翌日、ンクァタと父親たちは日が出る前に村の広場に集まった。この探索行に名乗りを上げたのはンクァタを入れて全部で7人だった。足の悪いシェーベは、この探索行に加われないことをひどく悔やんでいた。

 見送りには、大勢の村人たちがやってきていた。その中には爺様の姿もあった。

 ンクァタたちがいよいよ出発するその時になって、ずっと俯いていた爺様が突然、何かを言いたげに顔を上げた。

 爺様は、何かとても大切なことを言おうとするように、思いつめたような、泣き出しそうな顔をしていた。しかし、ンクァタが自分をみていることに気が付くと、爺様は慌てて顔を伏せ、そうして速足に自分の家に引き返していってしまった。

 てっきり、文字を消し去った張本人なのだから、「文字を消し去ってきてくれ」とか、「文字を持ち帰るな」などというような警告でもするのだろうと思っていたが、結局なにひとつ言葉を発することはなかった。


 山に入る前に振り返ると、夜明け前の薄明かりに沈むンクァタたちの暮らす村が一望できた。深い山に囲まれた、30人ほどが暮らす、小さな小さな村。昔々、爺様が大きな島の国中を旅して見つけた数人の生き残りと共に作ったのが、この村なのだと聞かされていた。

 ここからまた、自分たちは偉大な文明を築いていくのだ。諦めなければ、必ずできるはずなのだ。そのためにも、出来るだけ多くの、旧文明の知識を集めなければならない。

 ンクァタはひとり強く決心して、山の中へ足を踏み入れた。

 幾度かの休憩を挟んだものの、日が暮れる前に一行は目的の集落へ到着した。

 集落は近隣に残っていた廃集落のどれよりも広く、様々な建物の廃墟が建ち並んでいた。しかし、それらの建物はいずれも全て、植物に飲まれ、今まさに完全に腐れ果てる直前といった様相だった。

 やがて一行は、一つのとてつもなく巨大な建造物の前にたどり着いた。その広大な建造物は、まだ内部まで植物に侵されておらず、ほとんど昔のままの様子をとどめていた。内部にはいくつもの棚が並び、無数の袋詰めされたものや、箱詰めされたもの、あるいは何らかの装置などが整然と収められていた。建造物はおそらく、巨大な旧時代の店であるようだった。

「とてつもない数のモノがあるな」

 父はこちらを見下ろすように林立する棚の群れに圧倒されながら言った。

「こんなにモノがあって、旧時代っていうのはどんな世界だったんだ。爺様たちは、どんな生活をしてたんだ?」

 タクゼガがため息をついた。

 建物の中は文字で溢れており、その一部は辞書なしでもンクァタに理解できるものだった。

 肥料、電灯、速度、出口、時計、薬、トイレ、私、掃除、籠、壁、車、空、鉄、永遠、冷蔵庫、窓、あなた、靴、床、届く。

 自分が知る旧言語を見つけながら、ンクァタは建物内を見て回った。建物の中に書かれた旧言語は、棚ごとに並んでいる商品の種類を説明するもの、どこか別の場所を案内するためのもの、特定の商品について説明するものなど、それぞれ役割があるようだった。

 ただ、一つよくわからないのは、この建物のあらゆるところにベタベタと貼られた旧言語が書かれた白黒の貼り紙だった。それは他の旧言語と色とりどりの挿絵がついた貼り紙と違って、白い紙に黒い旧言語が書かれているだけの無味乾燥かつ画一的な貼り紙だった。建物内に入ったばかりの頃は、見知らぬ巨大建造物の景色に溶け込んでいた貼り紙だったが、ある程度この旧時代の建造物の有り様に慣れてくると、この白黒の貼り紙が異質なものとして景色の統一感から浮き上がって見えていた。他の貼り紙は整然と貼られているのにもかかわらず、白黒の貼り紙は手当たり次第に、乱雑な調子であちこちに貼られているのである。

 書かれているのは、それほど長くない文章が4行。ンクァタは、貼り紙に顔を近づけて、どうにか読めないかと文字を追ってみた。

 辞書なしでも分かるのは、

 空、届く、あなた、私、繋がる、速度。

 そうして読める文字だけを拾いながら、書かれた最後の行にやってきたンクァタは、思わず小さく声をあげた。

 一番最後に書かれた文章には、見覚えがあったのだ。

『そうしてあなたたちは、永遠の眠りにつく』

 それは、村の誰も使っていない廃墟の朽ちた棚の裏に挟まっていた、紙片に書かれていたものと同じ文章だった。

 一体この貼り紙はなんなのだろうか。ンクァタは書かれている文章に興味が湧いたので、一枚剥がすと、折り畳んで服の中に仕舞い込んだ。

 

 外が暗くなり始め、一行はその建造物の中で一晩を明かすことになった。建物の中ではかなりの物資が発見できていた。発電機、延長ケーブル、電灯、服、そして劣化していない工具や農具に石灰。そんなものが、ひとまとまりに山積みになっている。これだけで、生活にかなりの安心が生まれるのは確かなことで、皆でこの集落を発見したタクゼガを褒め称えた。

 翌日、日の出と共に、周辺の建物を軽く探索することになった。すでに持ち帰るべき物資は十分に見つかってはいるのだが、今後またこの集落に来た時のために、あらかじめ、もう少しこの集落に何があるのかを知っておこう、ということになったのだ。

 周囲の建物は全て小さな民家で、内部まで植物が侵食しており、使えそうなものは何一つ残されていなかった。しかし、そのなかでンクァタは民家の室内や、外壁に直接文字が書かれていた痕跡を発見していた。どれも文字は月日を経て消えかけていたが、一部はまだ読めるものが残されていた。

 判読できる言葉は、空、繋がる、あなた、届く、といった、あの白黒の貼り紙書かれていたものを同じもので、『そうしてあなたたちは、永遠の眠りにつく』の一文もあった。

 この文章が、どうしてあの建物の中や、民家の中や外など、そして遠く離れたンクァタの暮らす村まで、あらゆる場所に存在しているのかは分からなかった。

 結局、周辺の建物からは何も得るものはなかった。いくつか書物の残骸もあったが、それらはほとんどが朽ち果てボロボロになっていた。しかし、ンクァタはすでにあの巨大な建造物の中で、何冊もの『農耕』や『機械』に関する書物を見つけていたので、特に残念だったわけではなかった。

 そうして、一行は大量の物資を背負い、村へと帰還した。持ち帰った物資の中でも、未使用の発電機は特に喜ばれた。

 シェーベはンクァタの持ち帰ったたくさんの書物を見て、これまで聞いたことのないような大きな歓声をあげた。それが見られただけでも、ンクァタは長い道のりを歩いた甲斐があるものだった。

 

 帰ってきたばかりで疲れていたが、どうしても気になることがあったので、ンクァタはあの白黒の紙に何が書かれていたのか、調べてみることにした。書かれている文字で、意味がわからないものはわずかだったので、それほど時間をかけずに全ての意味が明らかになった。

 

 空からこれが届くとき、あなたはこれを見るだろう。

 どれだけ離れていようとも、私とあなたは繋がるだろう。

 あなたへ送る破滅の意思は、あらゆる速度を超越する。

 そうしてあなたたちは、永遠の眠りにつく。

 

 やはりそれは、詩か歌の歌詞のようだった。全体として、この詩が何を伝えたいのか、いまいちわからない。破滅の意思、という部分に、薄気味悪さがあるが、旧時代の人々が皆知っていた、民謡とか昔話とか、そういうモノだったのだろう。特に今のンクァタたちの役に立ちそうな気配は一切なかった。

 しかし、これがどうして、あの集落のいたる所に書かれていたのだろうか。しばらく考えてみても、これだという上手い考えは思い浮かばなかった。

 

 ンクァタはとりあえず、その白黒の貼り紙を、いつものコルクボードにピン留めした。

「さすがに今日は疲れちゃったから、帰るね。集落で見つけた古い詩の貼り紙は、いつものところに貼ったから、あとで見てみて」

 ンクァタは『農耕』に関する本を食い入るように読んでいるシェーベにそう伝えると、自宅へ戻った。

 自宅では、父が持って帰ってきた発電機を、どうにか動かせないかと悪戦苦闘しているところだった。ンクァタは父の手助けをしようかと思ったが、疲労から頭がかなりぼんやりしてきていたので、とりあえず少し横になることにした。

 

  ◆


 ンクァタは小高い丘の上に立っていた。そこからは世界中の全ての山と森と海を見下ろすことができた。

 丘の上には村中の人々の姿があった。人々は皆、目の前の空に浮かんでいる人影を見つめていた。

 人影は陽の光を背に、そこで一心不乱に踊りを披露していた。

 人影は確かに踊ってはいるのだが、しかし動きは滑らかにつながらず、切り取られた立ち姿が一瞬ごとに入れ替わっているように見えた。

 父も母も、シェーベもタクゼガも、食い入るようにその踊りを見つめていた。

 一瞬ごとに切り替わるその動きは、瞬間ごとの立ち姿に連続性がなかった。腕も脚も頭も、何もかもが好き勝手に現れたり消えたりして、それらが変化する瞬間が全く見えなかった。どれだけ眺めていても、ンクァタには次の瞬間の立ち姿を想像することができず、一瞬ごとに先の読めない不安が付きまとう。

 不意に、ンクァタは人影が人のものではないかもしれない、という可能性に思い至った。

 なぜかといえば、人影の腕は時おり3本あるように見える時もあるし、脚も人ではあり得ない方向に折れ曲がり、そして2本ではないように見え、頭だと思っていたものが脚である時さえあるからだった。

 皆はその踊りの持つ本当の意味をきちんと余さず理解しているようだったが、ンクァタだけは、ただ一人、踊りがどの様な意味を持つのか、まったく分からなかった。ンクァタは次第にその人影を眺めていることが恐ろしくなり、皆に家に帰ろうと呼びかけた。

 しかし、誰一人、ンクァタの呼びかけに応じるものはいない。

 誰も彼も、ずっと、人影が踊るさまを見つめ続けていた。

 皆一様に、涙を流しながら。

 

  ◆


 誰かが大きな声を出している。

 誰かが大きな声で、何かを訴えている。

 その声に促されるように、ンクァタはぼんやりと夢から目覚めた。

 外を見ると、傾きかけてはいるが、まだ陽が出ていた。眠っていたのはごくわずかな時間だったようだ。ンクァタは重たい瞼をこすりながら、大きな声の主の姿を探した。てっきり、声の主はンクァタのことを呼んでいるのだと思っていたのだが、どうやらそういうわけではないらしく、部屋には誰の姿もなかった。

 そういえば、声はもっと遠くからしていたのではなかったか。

 そう思った瞬間、外から誰かが大きな声で、ゆっくりとした調子で、何か大切なことを伝えるように、何事かを訴えているのが聞こえてきた。

 部屋を出ると、居間では母が繕い物をしていた。

「またケンカかね。お父さんが出て行ったけど、とばっちりを食うと危ないから、近寄っちゃダメだよ」

 母はンクァタへそう注意すると、眉を寄せながら外を見た。

 しかし、ンクァタにはそれがケンカの怒号には聞こえなかった。大きな声ではあるが、怒っているようには聞こえなかったし、何より声を出しているのはずっと一人だった。

 恐る恐る外へ顔を出すと、村の広場の真ん中で大声を出している人の姿が見えた。離れているためすぐには分からなかったが、目を凝らすと、それがタクゼガであることが分かった。やはり、ケンカをしているわけではなさそうだ。

 広場にいるのはタクゼガ一人だけで、他に人の姿はない。ああしてタクゼガが大勢に向かって何かを訴えているのなら、それを聞きにくる人がいてもよさそうなものだ。

 相変わらずここからでは具体的に何を言っているのかまでは分からなかった。

 陽がさらに傾き、村中を大きな影が覆おうとしていた。

 不意に、広場とンクァタの家との間の木陰から何者が転がり出るように現れて、こちらに向かって駆け出してきた。手に持った布きれを振りながら、勢いよく走ってくるそれは、父だった。

 父は、まるで子供がかけっこをするような調子で走ってきていた。そんな風に父が走っているのを、ンクァタはこれまで見たことがなかった。

「父さん、どうしたの、大丈夫?」

 父のただならぬ気配に不安になったンクァタは父へ声をかけた。しかし父はまったく意に介さぬ様子で、焦点の定まらぬ目で家の前までやってくると、手に持った布きれを外壁に釘付けにした。

 布切れには、見覚えのあるシェーベの字で、旧言語ではない、今の言語で、文章が書かれていた。

 

 空からこれが届くとき、あなたはこれを見るだろう。

 どれだけ離れていようとも、私とあなたは繋がるだろう。

 あなたへ送る破滅の意思は、あらゆる速度を超越する。

 そうしてあなたたちは、永遠の眠りにつく。

 

 どうしてこの文章が、ここに書かれているのだろう。

 ンクァタがそれを深く考えるよりも早く、家の中で母が「あんたどうしたの、大丈夫なの」と声を張り上げ、しかし父はそれに応えることなく、これまで聞いたことのないような大きな声で、ゆっくりと、とても大切なことを伝えるように喋り出した。

「空からこれが届くとき、あなたはこれを見るだろう。

 どれだけ離れていようとも、私とあなたは繋がるだろう。

 あなたへ送る破滅の意思は、あらゆる速度を超越する。

 そうしてあなたたちは、永遠の眠りにつく」

 父がそれを言い終えると同時に、それまで父に向かって、父を案じる言葉を矢継ぎ早に投げかけていた母の声が途切れた。

 家の中に父の姿はなく、母は先ほどまで繕っていた羽織ものに、短くなった鉛筆で文字を書いていた。

「母さん、何してるの? 父さんはどこに行ったの」

 ンクァタの問いに母は答えず、ただ黙って文字を書き続けていた。せっかく綺麗に直した羽織に、無理やり書かれた文字は歪んで読みにくかったが、しかし何と書いてあるのかははっきりと分かった。

 空からこれが届くとき、あなたはこれを見るだろう。

 母はさらに、続く文章を書こうとしていた。

 ンクァタは何度か母に呼びかけたが、それが聞こえている様子はなかった。

 突然、ぎしりと大きく家が鳴った。続いて誰かの小さな呻き声がする。

 ンクァタは呻き声のした隣の部屋を、恐る恐る覗き込んだ。

 部屋の中で、ロープに吊られた父がゆらゆらと揺れていた。

「父さん!」

 ンクァタは慌てて足元に転がっていたナイフを手に取ると父に駆け寄り、どうにか首元に食い込んでいるロープを切ろうと試みたが、なかなか上手く行かなかった。助けに来てくれと母を呼んでも、喉を枯らすほどに叫んでも、母はやってこなかった。

 ようやくロープを切断したが、床に落ちた父は捌かれるのを待つ獣のように、その場にただ転がっているだけだった。

 一体何が起こったというのか、父が自死を選ぶ理由など、ンクァタには思い浮かばなかった。そもそも死の直前に、あの、奇妙な詩を読み上げた理由も分からなかった。

 タクゼガの声は、ずいぶん前から聞こえなくなっていた。

 どこか遠くで、子供が大きな声を出しているのが聞こえた。

 家の中に母の姿を探したが、どこにも母はいなかった。釜戸の火はつけっぱなしだった。

 外は薄暗くなり始めていた。

 家のすぐ近くの薪小屋の壁に、母が先ほどまで鉛筆であの文章を書いていた羽織が、よく見えるように打ち付けられていた。

 薪小屋のすぐ裏の木で、母は父と同じように首を括って、動かなくなっていた。

 

 ンクァタはもう何も考えられなくなり、ただぼんやりと、風に揺れる母の姿を見上げていた。

「お姉ちゃん、お母さん、どうしたの……」

 声をかけられて振り返ると、そこには弟のルァンが立っていた。ついさっきまで川で水遊びをしていたのか、ズボンがびしょびしょに濡れている。

「分からない、お母さん、どうしてこんな風になっちゃったんだろう……」

 ンクァタは母の姿をもう一度見上げてみたが、相変わらず母は木にぶら下がったままだった。それが現実だった。

「お母さんも――」そう言いかけたンクァタの間近で、誰かが駆け寄ってくる足音がした。「お父さんも――」足音の主へ顔を向けようとしながらも、続く言葉を語るンクァタの肩を、足音の主がとてもとても強い力で、掴んだ。しかし、言いかけたンクァタの言葉は止まらなかった。「

 足音の主は、爺様だった。

 爺様は、大きく見開かられた目で、ンクァタを見つめていた。

「爺様……、お母さんも、お父さんも……」

 そう言いかけたンクァタの口を、爺様は手のひらで塞いだ。

 そのとき不意に、全くの不意に、いまそこに立っていた弟が、大きな声で、歌うように、叫び出した。

「空からこれが届くとき、あなたはこれを見るだろう。

 どれだけ離れていようとも、私とあなたは繋がるだろう。

 あなたへ送る破滅の意思は、あらゆる速度を超越する。

 そうしてあなたたちは、永遠の眠りにつく」

 ンクァタは、なぜ弟が父や母と同じように、こんな風に大きな声で叫んでいるのか、分からなかった。

 弟は叫び終えると、踵を返して川の方へ駆け出して行った。

 ンクァタは爺様の手を振りほどくと、弟の後を追い、その手を掴んだ。

「ルァン、ねえ、どうしたの?」

 しかし、弟はンクァタの問いに答えることなく、その場にしゃがみこむと、掴まれていない方の手で地面に穴を掘り始めた。

「ねぇ、ルァン、聞いてる?」

 その問いに、弟は全く反応する様子を示さず、弟はわずかに浅く掘られた穴の中に、顔を突っ込んだ。

 弟はそのまま、じっと何かを待つように、身動きをしなくなった。このままでは、息が出来ないであろうことは明白だったが、弟は一度も顔を上げることなく、ただそのままの姿勢で、地面に顔を埋めていた。

 ンクァタは恐ろしくなって弟の手を放すと、首を掴んで地面から顔を離そうとした。しかし、弟は強い力でそれに抵抗した。

 どうにか弟を地面から引き剥がしたンクァタは、土で真っ黒に汚れた弟の顔を覗き込んだ。

 弟の瞳は、どこか遠くで待ち構える暗黒とだけ、真っすぐに繋がり、もはや誰も、何も、見てはいなかった。そこにいるのはンクァタの知る、弟のルァンではなく、別のなにか得体のしれない存在だった。

 ンクァタから解放された弟は再び、川へ向かって駆け出していった。

「あれは……、伝えようという意思を含んだ言葉にすら、乗っていってしまうんだ……」

 背後で、爺様が呟くように言った。

「ルァンも、死んじゃうの……?」

 ンクァタは、小さくなっていく弟の後ろ姿を見つめながら言った。

「みんな、人類がみんな、ああして死んでしまった。生き残ったのは、私と数人の、言葉の意思が届かなかった人間だけだった」

 弟の姿は、もう見えなくなっていた。

「爺様。あれは、あの詩は……、一体何なの?」

 ンクァタはもう立ち上がることもできず、ただ力なくその場に座り込んだまま、爺様に尋ねた。

「あれは、数十年前に、私たちが……、人類が受け取った、地球外からのメッセージだったんだ……。人類は史上初めて受信した地球外からの短いメッセージひとつで、あっという間に滅んだんだ」

 爺様はひと気のなくなった村の広場を見下ろしながら、そう答えた。

 

 結局、生き残っていたのは、爺様とンクァタ、そして去年生まれたばかりの、言葉の分からないヘェネの3人だけだった。

 もうそれ以上、何も残ってはいなかった。

 それですべてだった。

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根絶やしのバベル なかいでけい @renetra

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