第9話 鍵穴くんを知るために

 朝。いつもあった騒がしさはもうどこにもなく、その代わりに、勉強机の前にある木製の椅子が、寂しさを放っていた。


 窓からは、白い朝日が流れ込んでいる。


 ベッドの横で、鼻提灯を垂らして眠っている鍵穴くんはもういない。


 僕は貯金箱から、今まで使ってこなかった千円札を取り出す。これくらいで十分足りるだろう。僕は千円札を自分の財布に入れ、それをショルダーバッグの中に入れた。


 外はもう寒いだろうから、クローゼットから、上着を取り出して羽織った。


 ショルダーバッグを肩にかけて、僕は自室のドアを開ける。


 微かな冷気が、ひやりと僕の頬を撫でる。


 お母さんは、どうやら買い物に出かけているようだった。今のうちに、この家を抜け出そう。


 洗面所で僕は顔を洗い、鏡で自分の姿を睨んだ。


 いずれ、こんな日が来ると思っていた。


 今まで、僕はずっと目を逸らしていた。それでも、自分の真実は、今までずっと僕の周りにちりばめられていた。鍵穴くんや、僕がいつも見る不思議な夢、それに、かいちゃんと行った心霊スポットも、美香の存在も。それらが、思い出してと叫んでいた。忘れないでと訴えていた。


 玄関のドアを開けて、外に出て、鍵を掛ける。


 街中は、もう目を覚ましたみたいに、輪郭をくっきりとさせていた。この風景全部が、僕が乗り越えるべきもののように感じた。


 僕は微かな記憶を頼りながら、駅へと向かう。


 鍵穴くんも、かいちゃんも、誰も今は周りにない。


 僕は自分から確かめに行かないといけない。


 今までずっと、自分から行動を起こすことがなかった。そんな僕は、人間関係も、社会のことも、何も知らない。


 だから、今から行動を起こさないと、自分のことを何も知ることができない。


 線路沿いの歩道を歩き、大きな高校や背の高いマンションを通り過ぎた先にある駅への階段を上る。


 上った先の通路から、ガラス越しに僕の住む住宅街を見渡せた。


 小さい頃も、今までも、自分で電車に乗ったことは一度もない。


「あの、すみません」


 僕はガラス越しに、女性の駅員に声をかける。


「はい」

「えっと、切符の買い方が分からなくて……」

「はい、分かりました」


 駅員に頼らないと電車にも乗れない自分が恥ずかしかった。


 駅員の説明を聞きながら、券売機を操作し、路線図を睨む。僕が行くべき駅の名前を、僕は見つける。


 僕は切符を買い、駅員に頭を下げた。


 改札を抜け、ホームへと向かう。屋根の向こうのマンションを見上げていると、すぐに急行電車が到着した。


 僕はその電車に乗った。


 僕は座席に座るのを躊躇って、奥のドアの前で景色を眺めていた。


 電車の中には、スーツを着た男性だったり、スマホゲームで盛り上がっている兄弟だったり、おしゃれな服を着こなして読書をしている女性だったり、当たり前のはずの光景がそこにはあった。


 みんなにとっての電車に乗る目的はそれぞれで、みんなこの環境に適していて、みんなにはそれぞれの世界があるのだと思い、満員電車の中でもないのに、僕はいろいろなものに揉まれている気分だった。


 ドアの窓ガラスに、僕の知らない住宅街や、田んぼや山の景色が映る。もし、自分が見当違いなことをしていたらどうしようという、どうにもできない不安が湧き上がってくる。


 いや、きっと大丈夫だ。と僕は思い返す。


 あの何度も見る夢はきっと、僕の消えた記憶の中のものだ。大きな建物の中でさまよっていた夢、誰かに手を引かれる夢、真っ暗闇な空間で一人ぼっちになる夢、僕の知らない誰かと楽しく過ごしている夢。それらは、きっと本物の出来事だ。忘れてはいけない出来事のはずだ。


 僕の降りるべき駅の名前が、車内アナウンスから聞こえてくる。


 電車は目的の駅に到着し、僕はホームの床に足をつけた。


 電車は去っていき、僕は階段を上る。改札を抜けて、今までの僕じゃ知らなかった街の歩道に立つ。


 駅の入り口の時計を見ると、十時半に差し掛かっていた。




 そのままずっと、僕は線路沿いの通りを歩き続け、その中であるアパートの前で足を止めた。


 その建物は凹型の外形だった。白いタイルの床の入り口、一階の壁は濃い茶色、二階はベージュ色で、青緑の屋根。白色のフェンスに囲まれたベランダでは、洗濯物が涼しい風に揺られている。


 ここだ。僕はそう確信する。

 タイルの床に足を踏み入れ、僕は白い階段を上る。

 そして、僕は玄関のドアの前に立つ。

 僕は、そのドアの横にある表札を見る。


 長野、と名字が書いてあった。それを見て、僕は鼓動が高鳴る思いがした。少しだけ、輪郭のぼやけた僕の記憶が、明確になる。もう、こんなところで止まってはいけない。


 僕は、インターホンを押した。


 はい、と女性の人の声がする。聞き覚えのある声だ。


「すみません、櫂房令斗、という、ものですが……」

 少しだけ、僕の声が震えてしまう。

「えっと……」

 女性の人は、それだけでは分からなかったみたいだった。


 どう言おうか、少し考えて、僕は言った。


「あの、ぼーちゃん、と言ったら、分かりますか?」

「えっ……」

 インターホン越しに、女性の人の驚きが伝わる。


「わ、分かりました」


 そう聞こえて、僕は心の底から安堵した。よかった、自分のしていることは間違いでも、見当違いでもなかった。僕の中の記憶が事実なのかどうか、僕はこれから確かめないといけない。


 中から、玄関に向かう足音が聞こえる。

 がちゃ、と、ドアノブの鍵が回される。

 ゆっくりと、ドアが開かれ、不安そうな顔をした女性が現れる。


「あなたは……」


 まるで、崩れかけのジェンガに触れるみたいに、女性は言葉を放つ。


「どうして、ここに?」

 女性は、そう問いかける。

「知りに来ました。僕の、昔の友達のこと」


 覚悟はもう、できている。




 レールが、夕日の日差しを反射している。

 僕はとぼとぼと来た道を戻り、駅に向かう。

 すべて、分かった。僕の記憶の事や、その中にいた、友達の事。


 朝のことを思い出しながら切符を買い、改札を抜け、停まっている電車に乗り込む。


 背後で、ドアが閉じられる。


 僕は、ある思いにずっと心を支配されている。


 夕日が差し込む電車の中で、僕は一人で思う。


 ごめん……、鍵穴くん。

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