ロシュはもう限界だ

外清内ダク

1 情欲の目覚め


 今日も私はスズカの部屋に上がり込んだが、だからと言って何が起きるわけでもない。

 見慣れたカーペット敷の四畳半で、私はゲームパッドをペチペチとやり、スズカはスマホで小説書きまくる。あぐらをかいた私と、涅槃仏めいたスズカ。私たちは背を向けるでもなく見つめ合うでもなく、語り合うでも押し黙るでもなく、寄り添うでも離れるでもなく、何とも言えない微妙な距離を維持したまま、そこに居た。

 まるで、ワルツを踊る二連星のようにだ。

 狩人様が炎に包まれた獣のクロールに叩き潰され(ゲームの話だよ)、画面いっぱいのでかい文字で死亡宣告を下されて、私は奇声をあげながら仰向けにひっくり返った。スズカの短いスカートの裾が、すぐ頭のそばにある。モニタの中ではもう狩人が蘇り、私の操作をウズウズして待ってるようだったが、パッドを拾うつもりにはなれなかった。

 ちらと横を見る。小説と格闘するスズカの下アゴが見える。泣いたり笑ったり、目まぐるしく変化する表情も。彼女自身さえ気づいていない、私だけが知っている癖。彼女は、小説を書くとき登場人物と同じ顔をするのだ、いつも。

 それがなんだか可愛らしくって、私は時々、目を奪われてしまう。

「ね」

 スズカがいきなり声を上げたので、私はビックリして小さく震えた。バレないようになるべく動きは抑えたが、この忌々しい巨乳が揺れることばかりは止めようがない。

「んあー」

 わざと間の抜けた声を返したのも、動揺を誤魔化したい一心で。

 スズカが鬼の形相でスマホを睨みつけたまま言う。

「腹減ったね」

「晩メシ何?」

「決めてない」

「クラ駅の西口に、インド料理屋できててさー」

 タンッ、と一際力強いタップとともに、スズカが鼻息を吹いた。何か上手く書けたらしい。

「店員インド人?」

「パキスタン」

「スタンかあ……」

 不意に、イタズラ心がむらむらと湧き上がった。

 私は身を起こし、スズカの上に覆いかぶさっていった。蛇がうねって這い登るようにだ。すっかり彼女の上を塞ぐと、何やら自分だけの牢獄に彼女を捕まえてしまったような気がして、寒気にも似た快感が走った。私の髪が垂れ下がり、スズカの耳たぶをくすぐり流れる。スズカが吐息を漏らして身じろぎする。扇情的に、あまりにも扇情的に――

「……いく?」

 スズカの視線が滑り、私を捉えた。

 濡れた眼。

 その途端、私の中の、よろしからざるおどんだものが、手荒な撹拌を受けて踊り狂った。

 このまま彼女を抱き締めてしまいたい。いや、押し潰してしまいたい。この腕と脚で造った牢獄を徐々に狭めて、身動き一つ取れないように縛り上げてしまいたい。他のどこにも行かないように。誰のものにもならないように。近づきたい。触れたい。ひとつに溶け合ってしまいたい……

 だが、私は、そうしなかった。

 信じてもらえないかもしれないが、この体勢にあってなお、私の肌は指一本たりとも彼女に触れていないのだった。

 まるで、不可視の壁に阻まれてでもいるかのように。

「行こっか」

 呆けた声で私が言うと、スズカは目元に薄く笑いを浮かべた。何もかも分かってますよ――とでも言いたげな顔で。


 インドビールキングフィッシャーかっ喰らって、なんだかよく分からんドロドロした超美味いのを食いまくって、私たちは心ゆくまで騒ぎ立てた。ネパール人の店員は(パキスタンじゃなかった)、酔っぱらいのアホみたいな即興歌に調子を合わせてくれて、私とスズカはなんかもう死ぬほど楽しくなってしまって、途中からずっとゲラゲラ笑ってた。店を出た時には夜もとっぷり更けていて、夜風がカッターナイフじみた鋭さで肌を削っていくのだが、火照りきった身体にはそれすら心地よかった。

「ねースズカぁー」

 フラッフラと縁石の上を綱渡りしながら、酔っぱらいA(私)が言う。酔っぱらいBことスズカは、ピタリ私の半歩斜め後ろを付いてきていた。彼女はピンクの新しいコートを着てる。先週一緒に買いに行った、かわいいやつだ。私が選んだ、私好みの。

「何よ」

「帰るのめんどい。泊めてー」

「萌、明日彼氏と映画っつってたじゃん」

「あっ」

 忘れてた。これは素だ。別にとぼけてたわけではない。

 スズカは片方の眉を跳ね上げた。粗相をした子猫を見る飼い主みたいな目だ。

「なんであたしの方がアンタのスケジュール把握してんの」

「やー、んー、うっかりー」

「忘れてやんなよな……彼、けっこう頑張ってくれてんのに」

「そーなんだよーねー。けどなー、んー……行くのやめよっかなー」

「アホ」

 吐き捨てるように言うと、スズカは私を置いて先に行ってしまった。真面目な彼女に、私のちゃらんぽらんさは我慢ならないらしい。その割にいつもつるんでいられるのが謎なところだが。

 私はいつものようにスズカを追いかけた。追いついて覗き見た彼女の横顔は、常の如く無表情。私はダメ元で猫なで声を出してみる。

「にゃーん」

 これ猫なで声じゃないな。猫だ。

 しかし、効き目はあったらしい。スズカは小さく息を吐き、

「まあいっか……」

「ん?」

「明日ウチまで迎え来てもらえば」

「そだね」

 で、それっきり。

 さっきまでのインド馬鹿騒ぎが嘘のように、私たちは口をつぐんだ。

 泊めてもらって、ベッド一つしかないから一緒に寝て、それでもほとんど会話らしい会話はなかった。せいぜい、風呂空いたよ、とか、その程度。話さなきゃ、とも思わなかったし、話してくれないどうしたのかな、とも思わない。

 何しろいつもの事だったから。


 私はぐっすりと安眠して、予想通り寝坊して、スズカに蹴り起こされた。結局、彼が迎えに来るのには間に合わなくて、準備もそこそこに飛び出した。車にエスコートされる時は流石にお姫様気分だったけれど、後にして思えば、酷いお姫様もあったものだ。服も適当、メイクも雑。どう考えても、立派な白馬の王子様に釣り合ってない。

 彼は運転中よく喋った。

 デートで助手席に乗せられたことがない方々には分かるまいが、この助手席というやつ、ビックリするくらいヒマである。だいたい助手って。何を助けりゃいいの。そりゃ、ダカール・ラリーにでも出るんなら色々忙しかろうけど。生憎ここはサハラならぬコンクリートジャングルだし、そもそも人間より700%性能のいいナビゲータが標準搭載されている。

 そんなわけで、彼は喋った。私を退屈させないためにだ。話もよく練られていて、中身があった。興味深く、ためになり、しかも流暢だった。私はほんの十数分のドライブ中に、社会情勢や先端技術に関する新たな4つの知見を得たが、降りた瞬間、みんな忘れてしまった。

 それから私たちは映画を見た。まあ面白かったと思う。ディナーにも行った。そしてもちろん、いくぶんケバケバしいシンデレラ城に乗り込み、やることもやった。お決まりのコース。毎度おなじみの快感。期待された通りの喘ぎ声。

 スケジュールをすっかり消化して、私たちは帰路に着いた。助手席でむっつりと黙り込んでしまった私を、彼は最前からチラチラ盗み見ている。私は気づかないふりをした――だが実際は分かっていた。彼の、喉元まで出かかった心の声もだ。

「俺といるの、つまらない?」

 彼の全身がそう語っている。

 つまらなく、ない。むしろ楽しい。強いて言えば、そんな風におしゃべりや明るさを期待されるのは面倒くさいけど。彼と過ごす時間は疑いようもなく有意義だ。このまま関係を深めて結婚でもしようものなら、一生を有意義に過ごせるに違いない、と思う。

 でも、それがなんだと言うんだ。

 家まであと5分。というところで、私は唐突に、こう切り出した。

「別れよう」

 彼の運転が僅かに乱れ、車が蛇行した。

 変化といえば、ただそれだけ。

 あとは、沈黙、沈黙、そして――沈黙。


 自宅に戻るなりベッドに飛び込んで、LINEにたわごとをぶちまけた。

【別れた】

 その相手はもちろんスズカで、彼女の既読マークは1秒と待たずに点灯した。それからひと呼吸置いて――ああ! 彼女の困惑顔が目に浮かぶ!――返事がヒョコンと返ってくる。

【ほんと?】

【うん】

 私、何期待してるんだろう。

 自分がしていることの目的――私自身の意図を、私は、一瞬遅れて思い知った。スズカがくれた、次の言葉によって。

【萌

 こっち来な】

 痛快。

 正直に言おう。

 私、めっちゃくちゃニヤついてた。

 私は、この返信が欲しかったのだ。スズカの思いやりが欲しかったのだ。愛おしさが胸から溢れて零れそうになり、私は、スマホを胸元に抱きしめた。宝物だと思えた。スズカがくれたこの言葉が。私のためだけの、私の言葉が。

 だが、返事を送ろうと再び画面を見た途端、私の中で暴れ回っていた熱情は急速に沈静化していった。

 難しいことではないはずだった。【うん、行く】これでいい。【ありがと】と付け足せばなおよい。女の子らしく何か可愛らしいスタンプを添えるのもよいかもしれない。いずれにせよ、スズカは私の返事を歓迎してくれるはずだった。心配など何もない。

 なのに私は躊躇っていた。行きたい。スズカの近くに。彼女に触れられるところに。一言、電子的なメッセージをポンと送れば、それだけで望みは叶う、はずだ。ひょっとしたら、その先のことだってーー

 なのに……なのに。

 私、何を考えてるんだろうか。

 なんでこんなに舞い上がってるんだろうか。

 彼氏と別れてヘコんでるはずじゃなかったのか?

 私の指は石のように固まって、もはや、一文字も打てなくなっていた。

 長いことスマホを握ったまま悩んでいたが……ついに私はそれを放り捨てた。

 仰向けに転がっていると、熱い衝動がむらむらと湧き上がった。私は下の方に指を伸ばして、自分の身体の、とても魅力的な部分を撫でた。息を呑むほどの快感が走った。自分でしたことは何度でもある。でもこんなに燃えたのは始めてだ。まるで私のあの場所が、炎そのものにでもなったみたいにーー

 何度も獣じみた奇声をあげて、悶え、のたうち、腰をバネ仕掛けのように跳ねさせて、疲れ果ててドロドロになるまで自慰を繰り返してーーようやく私は大人しくなった。いや。飽きたのではない。単にもう、指一本動かす体力も残ってなかっただけだ。

 肉欲の後に訪れる妙に静かな心の中で、私は不意に確信した。

 近づきたい。

 そう思ってる自分に驚いた。だがどんなに意外であろうと、一旦閃光の如く訪れた確信は、恐るべき存在感でもって私を規定してしまうのだった。

 もはや、目を逸らすことは不可能だ。

 私、変なんだろうか。

 私、変になってしまった。

 私――私は、スズカが好き。

 スズカに欲情しているんだ。


(つづく)

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