第29話

 時計の針を約7分前に巻き戻そう。ポレットは懐中電灯の光を左右の壁に交互に当てながらゆっくりと歩き、壁にずらりと備え付けられた燭台、そして美しい色彩の壁画を物珍しそうに眺めていた。近代美術のような遠近法を使ったリアルな質感はないものの、平面的で単純な線とはっきりとした色で描かれたそれらの壁画はどこかしらイノセント・アートのようにも見える。ポレットは燭台の1つに光を当てた。


「この燭台はシロガラス?でも鶏冠とさかが付いているのね。随分カラフルな鶏冠ね……」


 約3メートルの間隔で整然と並ぶそれらの燭台は、一見シロガラスのような鳥にかたどられていた。しかし鶏冠の付いたカラスなんて聞いたこともない。雄々しい鶏冠に似合わずくりっとした可愛らしい目をしたこの鳥は急降下時のように大きな羽を畳み、顔は天井を向き、そのくちばしにはラッパのような逆三角形のロウソク立てを咥えていた。


「新大陸のカラスかしら?ねえジュリアン。少なくともジュネにはこんな鳥いないわよね?」


 ポレットは隣で歩いていたジュリアンに不思議そうに尋ねた。ジュリアンは燭台を指さしながら解説した。


「これはネヴィルっていうアポリネール家の守護鳥さ。女神像が右手に乗せている鳥も実はネヴィルなんだ」

「ええ!?あの大きな女神像の鳥?鶏冠なんてなかったじゃない」

「うん、鶏冠はどうやら大昔に取れちゃったみたい。だから後世の人々はネヴィルをシロガラスと勘違いしたんだ。それでマルムの人々はシロガラスをこの土地のシンボルにしたのさ」

「へぇ~、なるほどねえ。それにしても守護鳥ってなによ?お金持はそんなヘンテコリンなものまで持っている訳?」


 ポレットはそう言いながらはたと足を止め、あることに気付いた。


「ジュリアン、そういえばロウソクを持ってきてるんだっけ?」


 ポレットはジュリアンのナップザックを見た。


「持ってきたけど……燭台がこんなに沢山あるとは思わなかったよ。全然足りないや」

「じゃあ砂場辺りだけでも照らそっか。マチアス様とコリンヌも明るい方が安心するだろうし」


 二人は踵を返して砂場まで戻っていった。穴から吐き出された時から今までのたった3分程度の間に分かったことは、どうやらこの空間は縦長の構造だということだった。横幅は10メートル程度なのだが、縦は相当に長いようで手持ちの懐中電灯ではとても奥まで照らし切れない。出発地点に戻った二人は早速準備に取り掛かった。ジュリアンは一番手前にある燭台のラッパ部分にロウソクを置いて火を灯した。ボウっとした光が優しく辺りを照らす。


「ひぃっ!」


 辺りが明るくなったと同時にポレットが声を上げた。彼女の怯えた瞳の先にあったのは半人半鳥の像だった。部屋の隅にあるこの像は180センチ程度と大きく、ローブを纏った体や五本指のある手などは人間のそれと同じであったが、頭部はネヴィルという鳥の顔だった。どうやら反対側の隅にも全く同じ像がある。二つの像は睨み合うかのように向かい合った格好で配置されていた。


「あー……、びっくりした~。化物かと思った」


 額を腕で拭いながら口をすぼめて大きく息を吐くポレット。その光景を見たジュリアンはプルプルと震えながら必死に笑いを堪えていた。ジュリアンのその姿がポレットの目に入るや、彼女の顔に赤味が増していくのが淡く弱々しい光でもはっきりと見て取れた。ポレットは震える人差し指で左右の燭台をあちこち指さしながら大声で叫んだ。


「ちょっとそこ、何笑ってんの!ほら、他の燭台にも灯しなさいよ!」

「ご、ごめん」


 ジュリアンは慌てながら左右に各5個ずつ、計10個のロウソクを燭台に灯した。壁に描かれた壁画の色彩が鮮やかさを増す。


「ん?」


 両手に手の甲を当てながら遠くを見るように少し上半身を前に倒したポレット。彼女の視線の先にあるのは、壁の一番手前に描かれた絵だった。


「あれ……これって……」


 ポレットはその絵の近くに立って、両腕を組みながらまじまじと見た。不思議に思ったジュリアンもポレットの真横に立ってそれを眺めた。


「この絵がどうしたの?ポレット」

「この女の人ってあの女神像じゃない?ほら、ゼーラーフィだっけ?」

「本当だ。隣の絵はへライス?向こうの絵はテーラスかな?あれ、でもこの絵は神様じゃない……?」


 壁画に描かれているのは、キリスト教が広まる前にジュネで祀られていた古代の神々だけではなかった。隅っこにある半人半鳥の彫刻のように、体は人間だが頭は兎、逆に上半身は人間だが下半身はライオンといった半神半獣の絵も神々の絵と一緒に描かれていた。木の枝を両手に握り締めた者、杯を片手に両手両足を奇妙に折り曲げている者(恐らく酔っぱらいを表現しているのであろう)、蛇を模った杖を怒ったように振り回す者など、絵に描かれた者たちはめいめい思うがままに振舞っているように見えるものの、皆一様にこの空間の奥側を向いていた。


「何かの行列かしら?」


 どこまで続いているんだろう?そう思ったポレットは懐中電灯で壁画を照らしながら空間の奥に向かって小走りに駆けていった。


「うわあー!」


 彼女の目には、褐色の肌をした髪の長い女性、ほとんど裸のような格好をして両手を広げる髭面の男、槍を今にも手前の人物に突き刺そうとしているオオカミ頭などが次々と映し出された。走っても走っても、絵は途切れることなく描かれている。


「物語みたいで面白い!」


 幽霊のことをすっかり忘れてしまったポレットは壁画を夢中で目で追い続けた。彼女は色彩豊かな壁画を目で楽しみながら、一方でシモン・アルカンの出世作「最果ての塔」のワンシーンを思い浮かべていた。死者の宿る地下遺跡に迷い込んだ主人公レモンが、ジュリーの小さな手を握り締めながらレリーフに刻まれた聖霊たちと対話をするという、レモンたちの運命を左右する重要な場面を。


「おおーっと!」


 絵に夢中で手前を見ていなかったポレット。終着点である壁に激突する寸前、彼女はキュキュキュキュキュ~と両足に急ブレーキを掛け難を免れた。ポレットは先程のように額を腕で拭いながらため息をついた。


「ふぅ~、危ない危ない。ま~たジュリアンに看病されるところだったわ。うん……?」


 ポレットの目に、大きな羽を生やした女性の絵が映し出された。彼女は懐中電灯の光を壁に当て、行列の先頭に立つその絵をまじまじと見た。それは砂場の隅に配置された鳥人間と同じデザインのローブを纏い、背中から天使のような羽を生やした長いベージュ髪の女性の絵だった。


「素敵……、天使みたい」


 遠近法が使われていない平面的な絵なのに、ポレットはその女性の横顔をとても美しいと思った。少し垂れた優しそうな目、端が上がった唇の端、きっと笑っているのだろう。どこか夢見心地のようにも見える。何やら手に丸い物体を持っている。風に吹かれているのだろうか、長い髪とローブは少し後ろに引っ張られているように描かれている。もっと近くで見たい。ポレットは憑りつかれたかのように、絵を懐中電灯で照らしながら少しづつその壁へ近づいて行った。すると懐中電灯の光の端に何やら薄っすらとした影が……。


(え……、薄っすら…………?薄っすらよね……薄っすら……?)


 青ざめたポレットは震える手で極めて、極めてゆっくりと懐中電灯の光を右にずらしていった。


「あ……、ああ……」


 その姿が徐々に明らかになるにつれて、ポレットの心臓はより一段と大きな音を立てていった。光に映し出されたそれは、ポレットより一回り小柄な、ぼろぼろの衣服を身にまとった子供だった。そしてなにより、服以外の生身の体は薄っすら透明だったのだ……。


「あ……、ああ……、あああ……」


 口をわなわなと震わすポレットは、その子供の燃えるような赤の左目、海のような青の右目とバッチリ目が合ってしまった……。彼女は体をブルリと震わせた後、石のように体が固まってしまった。そして彼女の手からは懐中電灯が滑り落ち、懐中電灯が地面に落ちた際の「カコン」という音と共に絶叫が空間中に響き渡った。


「んきゃあああああああああ!!!」


ポレットは砂場まで全速力で駆けて行った……。


◆◆◆

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