第28話

 マチアスは穴から吐き出された瞬間に羽のように両手を広げ、まるで体操選手のように両足の裏から見事に着地を決めた。彼は砂場に立つや、元帰還兵の習性により一息も付かずに周囲に視線を投げつけ、一秒でも早く状況を把握しようと努めた。その数秒後、彼は感心したように呟いた。


「早速燭台に火を灯されたのですね、ジュリアン様……」


 両壁に均等に備え付けられた石製の燭台にはすでに幾つかの火が灯されており、その弱々しい明かりが空間をぼんやりと照らし出していた。これなら数メートル先の人間の表情も難なく判別できるだろう。


「ジュリアン様……後から到着する者たちへのお心遣い、流石です」


 マチアスは、ジュリアンがクシャミで顔を覆っても褒めそやす男であった。ただ、マチアスとコリンヌのためにすぐに明かりを灯してあげようと提案したのはポレットだったのだが……。


「んきゃあああああああああ!!!」


 遥か数百メートル先から、ちょっと間の抜けた絶叫が聞こえてきた。


(今のはポレット様の叫び声!)


 マチアスが声のした方に目を凝らすと、遥か前方から小さなシルエットが浮かび上がり、その像は急速に拡大し鮮明な色を帯びていった。ポレットが空間奥から砂場に向かって全速力で駆けてきたのだ。


「ポ、ポレット様!?」


 一体何があったのかと落ち着いて考える暇もなく、今度はマチアスの数メートル先で背を向けたジュリアンが両手を広げ、まるで俺の胸に飛び込んでこいと言わんばかりにポレットを待ち構えた。


「ポレット、僕がいるから大丈夫だよ!」


 しかし凄まじいスピードで砂場の方に向かって走るポレットはジュリアンの胸には飛び込まず、彼の両肩に両手を掛け、跳び箱のように彼の上をジャンプした。そしてそのまま着地をするや、今度はタックルをするかのようにマチアスの胸に飛び込んでいったのだ。


「え……?」


 両手を広げたまま呆然と立ち尽くすジュリアン。彼の背中の数メートル後ろでは、ポレットが両手両足をマチアスの大きな体に巻き付けていた。その姿はさながら木に抱き着くコアラのようだった。


「マチアス様ぁ!ううう……もう二度と私を離さないで!」

「ポ、ポレット様、どうされたのですか?それに今の台詞はジュリアン様に誤解を与えてしま……」


 戸惑うマチアスははたと口を閉じた。彼の数メートル先から鋭い何かが突き刺さるような気がしたからだ。それはこちらを振り返り、顔を赤くし、目に大粒の涙を溜め、握りこぶしを小刻みに震わせたジュリアンの、嫉妬と哀しみが籠った2つの瞳であった。


「ジュ、ジュリアン様……」


(あれは本物の憎しみが籠った目だ……。こ、このままではジュリアン様に嫌われてしまう)


 戸惑い果てるマチアスにもお構いなしに、両手両足をぎゅうぎゅうと彼の体に絡ませるポレット。その姿にはロマンティックさの欠片もない。そのうえ彼女はマチアスの胸に顔を埋め、すーすーとその匂いを嗅ぐというちょっと危ない仕草すら見せていたのだ……。


(ああ……これがマチアス様の匂いなのね……。緑茶よりもずっと、ずーっと高貴な香りだわ………………)


 イケメンマチアスの香しい体臭がおさげ娘の鼻いっぱいに広がっていった。


「ポ、ポレット様、とにかく落ち着いてください。一体どうされたというのですか?」

「マチアス様、事情を説明する前に約束して!ずっと、ずっと、ずっと私の傍にいてくれるって!貴方の両腕はもう二度と私を離さないって!」


 どさくさに紛れてとんでもない事を言い出すポレット。恋愛小説脳もここまでくると重症なのである……。マチアスですら制御しきれない状況を打ち破ったのは、聞き覚えのあるピリッとした少女の声だった。


「あ~ら、元気いっぱいのお子ちゃまには10年早い台詞じゃないかしら?」


 声の主は、両手の甲を腰に当てながら顎を上げてポレットを見下げるコリンヌだった。実は彼女もマチアスのすぐ後に到着していたのだが、この騒動のため誰も彼女の存在に気付かなかったのだ。コリンヌはもう先程までの心ここに在らずいった雰囲気ではなく、普段の彼女らしい自信満々の表情を浮かべていた。ポレットはマチアスの体に両手両足を絡ませながら、顔を真っ赤にして言い返した。


「あ、あんただって私と同い年じゃないの!」

「私が言ったのは精神年齢のことよ。だいたい殿方の胸には寄りかかるように身を預けるのが淑女ってもんだわ。なんなら今のコアラみたいな姿を小型カメラで撮ってあげましょうか?」

「ぐ、ぐぐぐ……」


 悔しそうな表情を浮かべ、ひょいっとマチアスの体から地面に降りたポレット。マチアスはすかさず彼女に事情を聞いた。


「ポレット様、何があったのか説明していただけますか?」


 我に返ったと言わんばかりにはっとした表情を浮かべ、口をパクパクさせ、人差し指を立てた手をブルブルと震わせるポレット。


「そ、そ、その……で、で」


 彼女は何度もつっかえながらもやっとの思いで話し始めた。


「で、出たの!出たのよ!」

「出たってなにが?」


 その只ならぬ雰囲気に少し表情を引き締めたコリンヌ。


「出たっていやあアレしかないじゃない!ツルッパゲが言っていたユーレイよ!子供のユーレイが出たのよ!」

「子供の……幽霊?」


 大声で捲し立てるポレット、子供という言葉に反応し真剣な表情で聞き入るコリンヌ。しかしただ一人ポレットの話に上の空のマチアス。彼だけはジュリアンの様子が気になるようで、心配そうにジュリアンの方にチラチラ視線を投げていた。


「ジュリアン様……」


 ジュリアンは両手の拳だけは固く握り締めたまま、力なく項垂れていた。


(なんで?穴に入る前はあんなに頼ってくれたじゃん……。さっき感謝しているって言ってくれたじゃん!)


 コリンヌから深く、重~く、とっても濃ゆい愛を一心にを受けてきたジュリアンはまだまだ知らないのだ。浮き世の少女の心がどれだけ気まぐれで移ろいやすいものなのかを……。


◆◆◆

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