第26話

 二本の角(のような突起)が生えた恐ろしい形相の蛇の像、その口から伸びる舌の形をした石の橋。その橋の幅は二人分程度の広さしかない上に、欄干も子供たちの腰程度の高さしかない。体の大きいマチアスが足を滑らせたら一巻の終わりである……。いま橋の上に立つ4人の目の前には、足から入れば何とか体を入れられる程度の小さな穴がある。地上からは壁の小さなホクロのようにしか見えなかったこの黒い穴は、近くから見てもやはり小さかったのだ。マチアスが小型の懐中電灯で底なしの暗闇を照らした。


「滑り台のような斜面になっていますね。どうやら直線ではなく曲線のようです」

「到着点が見えないってこと?じゃあどれだけの長さが分からないんだ」


 不安げに訊ねるジュリアン。確かに真っ暗闇の、先が見通せないスライダーなんぞは恐怖以外の何物でもないだろう。


「残念ながら。しかしご存知の通り過去失敗した3人も全員無事に生還しております故過度に心配されることもないでしょう」


 マチアスはそう言って穴に手を突っ込んで穴の上下左右を丹念にさすった。他の荒くゴツゴツした感触とは違い、どうやら床部分だけはツルツルと滑りやすい材質の石で出来ているようだ。


(これではよじ登るのは無理だな。成程、一度第二ルートに入った試練者は自力で出口を見つけなければならないということか……)


 マチアスが顎に手を当てて思案している中、不安気な表情を浮かべるジュリアンの前にポレットが急に立ちはだかった。腰に両手の甲を当て胸を張った彼女はしかし、威風堂々とした姿勢と今にも泣きだしそうな表情があまりにミスマッチだった。


「ア、ア、ア、アラアラ~?ジュ、ジュリアンクーン?マータドドドドビクククシチャッテ(「おどおどビクビクしちゃって」と言っているつもりらしい……)。イイコイイコシテアゲマショカ~?」


 目に大粒の涙を溜めながら、おまけにビクビクどころか歯をガチガチ鳴らせながら顔面神経痛のような半笑いを浮かべるポレット。彼女には穴の滑り台よりも幽霊のほうが余程恐ろしいのである……。今やジュリアンよりも酷いどもりの彼女には、極度の恐怖を感じる時は他人に突っかかって心を落ち着かせようとする困った悪癖があった。そのあまりに憐れな姿になぜか不安が吹っ飛び庇護欲が搔き立てられてしまったジュリアン。彼は一秒に5回は震えているであろう彼女の右手を優しく握った。


「ポレット、幽霊なんていやしないよ。万が一いたとしても、そのー、いや、僕がその、君をね、守るっていうか……」


 臭い台詞はズバッと言わなくてはイカンのである……。青ざめたポレットの手を握りながら恥ずかしさのためにみるみる顔が赤くなるジュリアン。懐中電灯をリュックに仕舞い込みながら二人のやりとりを微笑ましく見ていたマチアスには、二人の顔のコントラストが左半分は赤色、右半分は青色の2色旗であるジュネの国旗のように見えた。


「アーラ、アナタナンカニタスケテモラウスジアイアイアイ……う……うううう」


 最早余裕の笑みも消え、ついにはジュリアンの手を握り返してベソを掻き始めてしまったポレット。彼の温かい手と不器用な優しさにちょっとだけほだされてしまった格好となった。しかし不思議なことにこの絶好の機会にコリンヌが反応しない。先程までだったら、


「あ~ら、青い花を咲かせちゃって、随分とやる気満々じゃな~い。さすが世界中を旅する夢をお持ちの方は一味違うわね~」


とか、自身も恐怖で下半身を痙攣させながらも強がってそう言いそうなものなのだが……(ジュネでは青い花は「もの知らずな若者の破天荒な情熱」の意味がある。要するに顔に青い花を咲かせているから滑り台も幽霊も問題にならないわね~という皮肉)。そもそもジュリアンに優しく手を握られるというシチュエーションに嫉妬しない時点でおかしい。

 マチアスはその様子が気になって仕方なかった。もしや先程のグリーンティーの作用か?(その作用とはもちろんアレである。マチアスは東洋に誤ったエキゾチズムを抱いていたのだ……)。いやしかし、それなら変化が起きるのは全員のはずだ。しゃがみ込んだコリンヌはマチアスの怪訝な表情にも気づかずに、土っぽい風がすさぶせいで美しい髪がすっかり乱れてしまったことも気にせずに、蟻の巣を覗き込む幼子のように無防備な表情で暗い穴の中を凝視していた。


「どうされたのですか?コリンヌ様……お体が優れませんので?」

「ううん、すごく懐かしい感じ……」


 それはマチアスへの返答ではなく、胸に広がる奇妙な感情を自分自身に教えてあげた風だった。


「は?」


 訳が分からないといった風のマチアスだが、コリンヌの様子に一抹の不安を覚えつつも今は前に進む他ないのである。マチアスは今までの優しい彼とは違う、威厳の籠った眼差しをジュリアンに向けた。


「ジュリアン様、先鋒をお願い致します」

「ええっ?僕が!」


 いつも一緒に遊んでくれるお兄さん役のマチアスはそこにはいなかった。いつとも違う彼に戸惑うジュリアンは、てっきりこの滑り台もマチアスが一番手だと思っていたので虚を突かれた格好となった。まあクライミングの様に手助けしようもないスライダーは誰から始めても同じなのだが……。


「最初に遺跡に足を踏み入れる者はアポリネール家の試練者でなくてはなりません。しきたりとはそういうものなのです」


 これまでどちらかと言えば兄というよりは母親のような気持ちでジュリアンに接していたマチアスだったが、今の彼には父性のようなものが芽生え始めていた。ポレットの檄が叩いたのはジュリアンの尻だけではなかったのだ。いつになく厳しい表情のマチアス。以前のジュリアンだったら尻ごんでいたところだが、女神像を登り切ったことで彼にはちょっぴり自信が付いていた。それにいつも優しいマチアスに似つかわしくない突き放したようなその態度は、一人前の男として扱われているような気さえした。男の子心を擽られたジュリアンは真剣な表情でゆっくりと頷いた。


「分かった」


 一言そう言って穴に足を入れようとする彼にポレットが急にしがみつく……。


「ジュ、ジュジュウウウウウ」

「ポ、ポレット。落ち着いて!ぐ、ぐるじい……」


 ひしっとしがみつくポレットの左手は、図らずも彼の首を締め上げる恰好となった。


「ジュ、ジュ、ジュリアーーーン!アタシヲヒトリニスルキ?マ、マ、マモッテクレルッテイッタジャナイ!!!」


 涙でくしゃくしゃの情けないことこの上ない顔でジュリアンを締め上げるポレット。今や尻を叩かれるのは彼女のほう……いや、女の子の尻を叩くなんてとんでもない!嘆き悲しむ女の子を慰めることに関してはコリンヌで散々鍛えられたジュリアン。先程の慰撫が功を奏し、思いがけずジュリアンに王子様役というラッキーチャンスが到来した。


「ポレット、わかったよ。一緒に入ろう」

「ジューリーーーアーーン!うわあああああ!」


 ジュリアンの胸の中でおいおい泣くポレット。心の中で嬉し涙を溢れさせるジュリアン。目の前の頼りない男の子が今や白馬の王子様に映るポレットだが、もちろんこれは一過性の珍現象であり、大方の少女の移ろいやすい心に漏れず1時間も経たないうちにまたマチアスに靡き始めるのは言うまでもない……。


「じゃあ先に行くよ」


 震えるポレットを仰向けの恰好で体に乗せたジュリアンは両足のひざを穴の床に掛け、そのまま体ごと穴の中に入っていった。マチアスは"サーーーーッ"という衣服と床が擦れる音が暫くして聞こえなくなったことを確認した後、未だ心ここにあらずといった風のコリンヌを一瞥した。彼は軍隊時代の一時期に吸っていたタバコの味が無性に恋しくなった。


◇◇◇

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