雨宿りに、茶が香る

青川志帆

雨宿りに、茶が香る

 一体、いつぶりだろう。


 炎天下のなか、俺はあぜ道を歩いていた。


 帽子をかぶってくればよかった、と思ったが、引き返すのも面倒だ。


 日焼け止めクリームが本当に効いているのだろうか、と疑問を抱くほど、夏の陽光はじりじりと肌を焼いた。


「……ああ。ここか」


 ようやく、目的地の空き地を見つける。


 しばらく、草むらのなかでぼうっとして突っ立っていた。


 ここは、父さんの故郷だ。祖父母が住んでおり、中学生になるまでは、夏休みに必ず帰省していた。


 しかし祖父が死に、俺の部活は夏休みも忙しかったから、今――高校三年生になるまで、帰省できていなかった。


 今回帰ってきたのは、ばあちゃんが施設に入居すると決まったからだ。


 その手続きのために両親が帰ると言い、俺も部活を引退して暇だったので連れていってくれと頼んだ。


 夏休み、近所の子供と一緒にこの空き地でよく遊んだ。彼らは、今どうしているのだろう。


「……あ」


 物思いにふけっていると、額に冷たいものが落ちてきた。


 夕立だ、と見上げる間に、空から降り注ぐ雨の量はどんどん増えていった。


 


 走って、軒先の下に隠れる。


 土地柄なのかたまたまなのか、俺が幼い頃、遊んでいるとよく夕立が降った。


 それを合図のようにして、解散したものだ。


 俺はいつも、空き地近くのこの軒下で雨が止むのを待った。


 俺が何歳の頃だったか忘れたが、ある日いきなり後ろの戸が開いて驚いた。


 きれいな女のひとが立っていて、彼女は『キミ。なかに入って、雨宿りしていったら?』と声をかけてくれたのだ。


 俺はお言葉に甘えて、なかに入った。ここがお茶屋さんであることも、店内の陳列品を見て初めて知った。


 店の奥にある畳の間に通してもらって、いいにおいのするお茶を淹れてもらった。


 家で飲むお茶は、麦茶ぐらいだったから、フルーツの香りがするお茶に幼い俺は驚いた。


『ふふ。フレーバードティーって、いうんだよ。おいしいでしょう』


 彼女は微笑んで、俺に教えてくれた。


 フルーツなどの香りを茶につけたもの――フレーバードティーというものを、俺はそこで初めて知り、覚えた。


 それから、俺が雨宿りしていると、彼女は必ず声をかけてくれるようになった。


 そのたびに、種類の違うフレーバードティーを振る舞ってくれた。


 ……もう、いないかな。


 ふと、後ろを振り返る。


 改装したのか、記憶にある店より、新しくなっているように見えた。


 お茶、という暖簾がかかっているので、商売は続けているのだろうが。


 最後に、彼女に会って六年も経つ。


 雨宿りしていると、お茶屋さんのお姉さんが、お茶をご馳走してくれた――と祖母に報告すると、祖母は『ああ。あそこの、出戻り娘か』と、なんでもない口調で呟いたのだった。


 おそらく祖母に悪意はなかったのだろうが、なんとなく嫌な感じがした。成長して、意味を知ってからはもっとだ。


 そんなことを思い出しながら夕立が止むのを待っていると、後ろの戸がからりと開いた。


「こんにちは。大丈夫? 傘、貸してあげようか?」


 聞き覚えのある声に驚き、振り向くと――彼女が、立っていた。


 七年前と、変わらないように見える。透き通るように白い肌に、つややかな黒くて長い髪。目は黒目がちで、潤んだよう。


「…………お、お姉さん」


 思わず、呼びかけてしまった。


 俺は彼女の名前を知らないのだから、そう呼ぶしかなかった。


「はい?」


「覚えてませんか。俺が雨宿りしてたとき、声をかけてくれて……お茶を飲ませてくれて」


「ああ! あのときの子! うそー! びっくりした。すごい、大きくなったね」


 彼女は破顔し、いつかのように俺を手招いた。


「よかったら、またお茶飲んでく?」


 俺は頷き、汗ばむ拳を握った。


 


 俺は畳の間に通された。店の内装は変わっていたが、この部屋や卓袱台は変わっていない。


「今日のお茶はねー、レモンフレーバー。甘酸っぱい紅茶だよ」


 そう説明して、お姉さんは俺と自分の前に冷たい茶の入ったグラスを置いた。


「いただきます」


「どうぞー」


 彼女は笑って、俺の正面に腰かける。


「久しぶりだね。片岡かたおか夏樹なつきくん」


「……え。なんで、俺の名前を」


「ここは田舎だからね。毎年帰省してた子の名前は、噂で知るようになっちゃうの。私の名前は知ってた?」


「ううん」


 祖母の台詞を聞いてから、俺はこのひそやかな時間を誰にも言わないようになった。ひっきょう、彼女の名も知ることはなかった。


 そして、どうしてか彼女に「お名前、なんていうんですか」と聞けなかった。幼い日の俺は彼女の前にいると緊張して、なんだか恥ずかしくて、ろくに口を利けなくなっていたのだ。


木元きもとあざみ」


 彼女は、なんでもないことのように名乗った。


 あざみ。心のなかで、繰り返してみる。


「夏樹くん、久しぶりだよね。ここには帰ってきてたの? それとも、ここに来てなかっただけ?」


「じいちゃんが死んで……俺も中学にあがって部活で忙しくなったし、帰省しなくなったんです。今回は、ばあちゃんが施設に入る手続きしにいくって両親が言ったんで、連れてきてもらったんです。部活はもう、引退したし」


「へえ。部活って、何部だったの?」


「……テニス部です」


 最後の大会は、一回戦負けという有様だった。同輩と後輩の同情の視線を思い出すと、苦い気持ちが湧いてくる。


「そっかー」


「あざみさんは……その、俺のばあちゃんが言ってたんですけど……」


 言いかけて、俺は失態に気づく。


 だが、彼女は気にした様子もなく顔を近づけてきた。


「出戻り娘って?」


「……はい」


「そんな、小さくならないで。別に気にしなくていいよ。本当のことだしね。私、すごく若い頃に結婚したの。高校卒業して、すぐだった。あのときは燃え上がってて、夫を運命のひとだと思って……幸せ、だったの」


 あざみさんは、冷たい紅茶を一口すすってから、続けた。


「でも、いつしか気持ちがすれ違って。気がついたら、夫に浮気された」


「えっ。そんなこと、俺なんかに言ってもいいんですか」


「いいの。どうせ、この町のひとはみんな知ってるしね。夏樹くんのおばあさんも、知ってると思うよ」


 あざみさんは、紅茶のグラスを揺らしてからりと氷の音を立てた。


「それで、ここに戻ってきたんだ。外に働きに出る元気もなくて、しばらくはこの店を手伝ってた。ここは、私の祖父母の店だったの。もう閉めるっていうから、三年前に私が継いだの」


「そうなんですか。そういえば、外装も内装も変わってましたね」


「ふふ。うん。今は、お茶を売るだけじゃなくて、なかでお茶や簡単な食べ物を提供できる、一種のカフェみたいになってるんだよ」


 そういえば、と店内を歩いたときに、テーブル席が三つほどあったことを思い出す。


「雑誌に載ったおかげで、お客さんも結構来てくれるようになったの。地元のひとも、気軽に利用してくれるし。今は親戚の女の子に、お店手伝ってもらってる。でも今日は、私だけ。……夕立、止まないね」


 あざみさんの言葉で、俺は耳を澄ませる。雨音は、まだ止んでいなかった。


「……もうお店、閉めちゃおうかな」


 そう呟いて、あざみさんは立ち上がり、軽やかに走っていった。




 戻ってきたあざみさんは、お茶の袋を手にしていた。


「さっきのお茶、気に入ったら是非もらって。レモンフレーバーの紅茶」


 それを受け取り、俺はうろたえた。


「もらう、なんて。俺、金払います」


「いいの、いいの。再会記念、ってことで」


 あざみさんは元の位置に戻って座り、お茶の残りを飲み干していた。


 俺の分は、とっくになくなっており、氷が底のほうで薄まった茶に溶けているところだった。


「お代わり、いる?」


「いえ……。もう、止んだみたいですし」


 雨音が、いつの間にやら絶えていた。


「あ、本当だ。夕立って、降るのも止むのも突然だよね」


 あざみさんの笑顔にどきっとして、俺はつい「あざみさん、俺と――」と言いかけてしまった。


「ん? 君と、何?」


「…………なんでも、ないです」


 何を言うつもりだったのだろう。真夏の暑さで、おかしくなっていたのだろうか。


「俺、帰ります」


「うん。見送るよ」


 あざみさんは、店の外まで見送りに出てくれた。


「またねー!」


 明るい笑顔で手を振るあざみさんは、あざみというよりもひまわりに見えた。


 


「ただいま」


「おかえり、夏樹」


 俺が家のなかにあがるなり、母さんが走ってくる。


「遅かったじゃない。ちょっと散歩する、って言って何時間かかってるのよ。あんたも、戦力に数えてるんだからね」


 ばあちゃんが施設に入居したら、この家は空き家になるので、売りに出すらしい。そのための大掃除の真っ最中だった。


 そんななか、抜けてしまったのはたしかに悪いことをしたと思う。


「ごめん」


 謝ると、母さんは「今日は、どこかに食べにいきましょ。ファミレスでいい?」と問いかけてきた。


 一応聞いているが、決定事項なのだろう。


「いいよ、なんでも」


 と言って、俺は手に持った紅茶の袋を意識した。


 案の定、母さんがそれに目を留める。


「あんた、お茶買ってきたの?」


「……うん」


 もらった、と言えばいきさつを話さなければいけなくなりそうで、俺は嘘をついた。


「あそこの、お茶屋さんね。いつからか、カフェみたいなこともやってて、評判みたいね。あそこの店長さんも、まだ若かったでしょ」


 ここは父さんの故郷なのに、やけに母さんは詳しかった。雑誌で、あの茶屋のことを見たのだろうか。


「うん、若かった」


 それに、優しくてきれいだった……とは言わずに、俺は母さんの横をすり抜けた。




 翌日、掃除をある程度済ませたあと、車に乗って帰路についた。


 運転席の父と、助手席の母が交わす会話を聞くともなしに聞きながら、俺は後部座席の窓から遠ざかる風景を眺める。


 幼い頃は、果てしないほど遠いと思っていたが、ここから俺の家までは車で一時間ほど。電車なら、もう少しかかって一時間半ぐらい。


 ひとりで、行けない距離じゃない。


 しばらくは受験勉強に打ち込むつもりだから、ここをまた訪れるとしたら来年になるだろうか。


 今度は夕立を待たずに、店に入ってみよう。そして、お茶を買おう。カフェスペースで、飲んでもいい。


 きっと、彼女は歓迎してくれるだろう。


 あのひととの距離が、少しでも近づいたらいい。


 淡い想いを胸に抱いて、ひっそりと微笑んだ。


 帰ったら、紅茶を淹れてみよう。あのひとの前で飲んだときほど、甘酸っぱく感じないかもしれないけれど。


 そんなことを考えながら、視線を空にやる。


 青空が眩しく、雲すら浮かんでいない。雨はまだ遠いようだった。


 


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨宿りに、茶が香る 青川志帆 @ao-samidare

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ