樹5

 中庭の片隅で千種は転んでいた。雨が降ったわけでもないのに千種はずぶ濡れで制服は泥に汚れていた。一人で立ち上がろうと悪戦苦闘している。千種は酷い有様だった。


 彼女の杖は近くには見当たらない。口は固く引き結ばれ助けを呼ぶ気はないようだった。

 何があったのか瞬時に理解する。


「椎名!」


 千種に駆け寄るとその軽い身体を有無を言わさず抱き上げた。無駄なやりとりをする余裕はなかった。見下ろした樹の眼差しに怒気を感じ取ったのだろう、千種は抵抗を見せず視線を伏せて諦観の息を吐いた。


 千種を運びながら怒りは収まらず増して行くばかり。彼女をこんな目に合わせたクラスメイト達やそれを阻止出来なかった樹自身はもちろん、それを許している千種に対しても強い怒りを覚える。


 抱き上げた時千種には樹に見つかった事を憂いていただけでクラスメイト達に対する怒りも屈辱もなく、責める気さえないように見えた。


 水を掛けられ大事な杖まで奪われても泰然と出来る理由、時折見せる自身に対する厳しい態度や奇妙な諦観は、何をされても仕方がないと千種自身が思って受け入れているからだ。それは罪人が贖罪を乞うような態度を思い出させる。


 一体千種の何処にそんな罪があるのか。樹は千種の態度は全く理解出来ないが、樹以外の誰かにそれを許す千種に心底腹を立てていた。


 樹専用の休憩室に千種を運び込むとその身体をソファに降ろした。千種は身を固くして縮こまる。樹に対する怯えは相変わらずあるが、すぐに逃げ出す気配はない。もっとも杖がない今自力で歩いて逃げ出すのは不可能で大人しく座っているしかない。


 千種の緊張が樹にも伝わって来る。部屋の隅にある棚からタオルを取り出して千種の濡れた髪を拭おうとした。


「やめて!!」


 静かな室内に千種の拒絶は鋭く響く。樹の理性は少しずつじりじりと焼かれている。


「じっとして」

「じ、自分で」


 か細く答える千種を無視する。千種の震えが掌から伝わってくる。泥の跳ねた頬を拭う。


「誰にやられたの?」

「………自分で、転んだだけ」

「じゃ、杖はどうしたの?」

「………」


 予想通り千種は答えない。


「今回ばかりは見過ごせない。転んだだけ?僕が転ぶのと椎名が転ぶのではわけが違うだろう。今回は軽傷ですんだかもしれない。次は大事故になるかもしれない」


 千種はフルフルと頭を振った。


「何も、何もしないで。彼女達は悪くない、わたしが」


 千種の中で彼女達は被害者で自分が加害者なのだ。樹は我慢出来なかった。


「椎名は馬鹿だ」


 千種は息を飲む。顔が苦しげに歪み、頭に置かれたタオルでその表情を樹から隠した。


「どうして、こんな目にあって受け入れる。そうされて当然みたいな顔をする。何をされても馬鹿みたいに許すつもりか?」


 千種の中の天秤は壊れている。自分を真ん中に出来ないなのだ。そんな相手に何を言っても通じない。


 胸に広がる虚しさと焦りが樹の理性を弱くする。それに気が付かない千種は残酷な言葉を投げつける。


「………貴方、には、関係ないよ」


 また、拒絶。何度も何度も、樹だけを拒絶する。


「そう」


 冷えた樹の声に千種がビクリとする。


(ああ、可哀想に……)


 惨めで哀れな千種を見て他人事のように思う。不意に樹の中にあった凶暴な何か、獣が咆哮を上げだ。怯える千種を見据えて喉を鳴らして喜んでいる。




 樹の手が千種のブラウスのボタンを外して行く。千種の抵抗は抵抗にならない。


「ど…うして………?」


 喘ぐようにか細い声しか出ない。怯えて震える千種は捕食者にとって嗜虐心を煽る結果にしかならない。露わになった千種の首筋に樹の鼻先は埋まる。


「い、や」

「今更遅いよ。何をされても椎名は受け入れるんだろう?」


 樹の勝手な狂気が囁く。何をされても仕方がないと諦めているのなら、千種は受け入れなければ。樹を受け入れなければいけないのだ。千種の意思を問うことは馬鹿げている。千種の中ではすべて自分のせいなのだから。


 千種のブラウスを脱がしてスカートにも手をかけた。千種は信じられないものをみているような目で呆然としている。


 樹は笑いがこみ上げてきそうなになった。樹は千種への好意を隠さなかった。ここまでしても千種は信じていないのだ。


 樹の大きな体が千種に覆い被さる。あまりに小さく頼りない千種は征服欲を刺激する。


 どこまでやれば千種は信じるのだろう。


 千種は荒い呼吸を繰り返していた。密着した体から千種の熱と狂ったような鼓動が伝わる。樹の焼け付くようなこの熱も千種に伝わればいい。


「千種、僕の名前を呼んで」


 気が付けばそう懇願していた。口に出してしまえば、それを何よりも望んでいたのだと知った。


 幾度となく樹を拒絶する千種は樹の名を呼んだ事が無い。彼女の拒絶の証だった。


 名前を呼んでくれれば樹の凶暴な衝動も大人しくなる。最後の理性だった。こんな風に千種を奪いたくない。千種はもっと愛されて慈しむべき女性だった。


 唇を耳元まで滑らせて囁く。ありったけの願いを込めて。


「千種、樹と」


 千種の身体が痙攣したように跳ねる。彼女の喉から悲鳴が上がった。


「あ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああっ」


 暴れる身体を咄嗟に押さえつけた。


「千種!千種!!大丈夫だ、落ち着いて!!」

「うああああああああああああああああああああああああああああああああっ」

「これ以上何もしないからっ!千種!!」


 錯乱したような千種を抱き込む。暴れもがくけれど樹がそれを許さない。壊れかける精神を繋ぎとめるために何度も何度も名前を呼んだ。やがて泣き喚くのを止めた千種の頬を樹が優しく撫でる。瞳から止めどなく零れ落ちる涙が樹の手を濡らす。


 虚ろな千種の瞳には樹は写っていない。

 

「千種、大好きだよ。僕から逃げないで、拒絶しないでくれ」

「………」


 樹を見る事なく千種の瞼がゆるゆると落ちて行く。大きく息を一つ吐いて千種の身体から完全に力が抜けた。


 千種を撫でていた手を握り締める。樹の顔が歪み、千種の胸に顔を埋めた。

 苦しかった。こんなに苦しい思いを知らない。子供の頃のように駄々を捏ねて泣きわめけたらどれ程楽だろうと思う。


 諦める事が出来たらきっと楽になる。千種も樹も。頭ではわかっていても心が拒絶する。千種が欲しいと獣が慟哭している。樹は自分が恐ろしい。


「僕を受け入れて」


 千種の頭に自分の頬を押しつけて強く抱きしめる。この腕の中に永遠に閉じ込める事が出来たならどれ程いいだろう。


「僕を………好きになって」


 誰にもした事のない懇願。強く願う。樹の涙が千種の頬を濡らした。




 その夜から千種は体調を崩して何日も休んだ。樹は許す範囲で千種の許に通った。千種の両親は善良で樹を歓迎してくれた。何度も通えば千種の顔を見たいと言った樹の要望を叶えてくれた。


 千種は熱が下がらないようだった。昔にもこう言った事があったようだ。千種はベッドの上で何度か目を覚まし、その度に樹を見て驚いた顔をする。熱で朦朧としていると分かっているが、何度確認しても千種の目には樹に対する嫌悪がなかった。


 ―――あんな酷い事をした樹なのに。


 千種を馬鹿だと思う。同時に愛おしいとも思う。千種のベッドに投げ出された手を握り額に当てた。


 手放せない。諦める事など出来はしない。千種は唯一無二だった。


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