樹4

『美しさはそれだけで武器なのよ。貴方はそれを学ばなければね』


 そう言ったのは息子に良く似た面差をもった美貌の母だった。母の言葉には実感が込められている。


 幼い頃から自分の容姿に苦い思いをさせられて来た身に母の言葉は衝撃だった。


『人はね、醜いものより美しいものが好きなの。それに振りまわされるのではなくて利用するのよ』


 樹と同じ薄青い瞳を悪戯っぽく輝かせて膝に乗せた息子を愛しそうに撫でる。

 全てを理解出来なくても樹なりに真剣に母の言葉に耳を傾けた。


『貴方の外見に惹かれる人間は多くいる。でもね、貴方の外見ではなく内面を見てくれる人間も必ずいるわ。そういう人に出会ったら絶対に逃しちゃダメよ。その人はきっと貴方の味方になってくれる。とっても得難い人よ』


 樹は首をかしげて母親を見上げた。つい最近逃げてしまった樹の小鳥を思い出す。大好きだった小鳥は鍵をかけ忘れた鳥籠からいなくなってしまった。


『どうすればいいの?つかまえてとじこめる?』


 息子の非常識な回答に母は声を上げて笑った。


『人を閉じ込める事は出来ないわ』

『でも、ママはぼくをそうしているよ?』


 樹は母から逃げていたのだ。樹を置いて仕事に行くと言ったから。


『そうね、貴方は今私の腕の中に捕まえて閉じ込められているわね。樹はずっとママの腕の中にいたいの?』

『………ずっとはいや』

『ふふっ、ママもずっとは無理かなぁ。腕が疲れてしまうもの。ねえ、パパはどうしてママの傍にいてくるのだと思う?』

『ママをあいしているから』

『そうね。じゃあ、おじい様の親友のラルクおじ様は?』

『おじいさまがだいすきだから』

『そうよ。大好きな人の傍を離れたいと思う人はいないのよ。人をね、閉じ込める必要はないの。貴方を大好きになってもらえばいいの』


 樹の周りにいる人間は樹を大好きだと簡単に言う。でもそういう大好きとは違うのだろうと朧気ながら樹は感じた。


『………なってもらえなかったら?』

『そのために外見だけじゃなくて内面も磨くのよ』

『???』

『樹が好きな人は誰?』

『ママ!パパ!おじいさまでしょ。後ね』


 身近な人物を片っ端から上げて行く息子に母の笑顔は深くなる。


『皆とっても素敵な人達よね。そうね、ママのお顔がある日突然シワシワのお婆ちゃんになったらどう思う?』

『えー、やだ』

『ママを嫌いになる?』

『ならないよ!』

『じゃ、顔は今のままだけど、樹に意地悪したり怒ってばかりのママになったら?』

『やだ!そんなママにならないで!』

『嫌いになる?』

『わかんない………』


 しょんぼりしてしまった息子の頭を撫でる。


『外見はいつか衰えていくものなの。でも内面は磨き続ける事が出来るのよ。そうやって樹が素敵な人になればいいのよ。そうすれば樹の内面を見てくれる人は貴方から離れていかないわ』



 幼い頃のやり取りを鮮明に覚えている。母の言葉は成長するにつれよく理解出来るようになった。


 樹の容貌に惑わされる人間は実に多い。女も男も老いも若きも樹の外見に執心する。そういう人間程樹に勝手な要望や理想像を抱き、樹の内面を見ようともしない。振り回されて疲労するのは樹だった。だから樹はいつも慎重に行動する事にしている。ただ排斥するだけでは反発が大きくなりその分樹への執着が深くなる。向けられる欲望をコントロールする事を早い段階で覚えた。


 無意識に人を観察し、どの程度の距離か必要かを計算する。人の機微に聡ければそれだけトラブルを押さえられた。


 誤算はそこに樹の感情が含まれていなかった事だ。樹が変われば周りも変わる。人の感情は簡単にコントロール出来るものではなかった。


 


 その日、樹は何かと忙しい日で千種から離れる事が多かった。昼休みの殆どをプライベートな用事に費やして戻って来た時、教室に千種がいなかった。騒がしい教室はいつもの風景だが、妙な胸騒ぎを感じて千種を探しに行く。


 千種の行動範囲は限られている。たまの息抜きのように訪れるのは中庭の人があまり寄りつかない一角だ。千種に誂えたように置かれたベンチがある。


 早足で中庭に向かう樹の前にクラスメイトの女生徒達が歩いて来ていた。何が面白いのかクスクス笑いながら少しはしゃいでいるように見えた。


 彼女達の高揚が樹にまで伝わってくる。そんな彼女達を見ていると不愉快な気分が押し寄せて来る。


 彼女達の一人が前方にいる樹に気が付くとお互いを突き合いながら動揺を隠して平静を装った。


「斎賀君、こんなところでどうかしたの?」


 樹に話しかけて来たのは一番気が強い女子の中心人物だ。家柄もよく、成績も優秀で美人。自分に自信があり、お嬢様らしく些か気位が高い。千種に反感を持つ人物の一人で、それを隠そうともしない。


「椎名を見なかった?」


 彼女達を観察するようにじっと見つめる。彼女の取り巻きは不安そうにちらちらと視線を交わし合っているが少女は堂々と樹を見返している。


「さあ、知らないわ。中庭では見なかったし、こっちには来てないのではないかしら」

「そう、ありがとう。でも念のために見てみるよ」

「いないわ。2度手間になるだけよ。時間の無駄だわ」

「そうかもね。でもいいんだよ、僕の気の問題だから」

 

 少女の顔が不愉快気に歪む。普通の男子生徒なら怯むだろう傲慢さがある。


「私、斎賀君に信用されてないって事?」


 樹は途端に白けた気分になる。こういう相手は今まで沢山相手にしてきたのだ。


「僕達の間に信頼関係があったなんて知らなかったよ。それなら、僕からも忠告があるよ」


 少女の白い顔が怒りで紅潮する。二人の遣り取りを取り巻きは戦々恐々と見ている。樹の目が酷薄に細められて、急に変わった樹の雰囲気に少女達が後ずさった。


「僕の目は節穴じゃないんだよ。僕もそう我慢強い方でもない。2度目はないから覚えておいて」


 多感な少女達を震え上がらせるには十分な冷たい一瞥を投げて通り過ぎる樹の背中に少女が声を張り上げた。


「斎賀君には失望したわ!!あんな女の後ばかり追い掛けて!!こんな情けない男だとは思わなかったわ!!」


 強気な言葉とは裏腹に綺麗な顔を真っ赤に染めて涙を溜めた目で必死に樹を見つめる少女を樹は無表情に振り向いて、誰もが見惚れる優美な微笑みを浮べる。


「それが、何?」


 樹にとって彼女にどう思われようが何の意味もない。彼女の気持ちは欠片も価値がない。

 強いショックを受けた彼女が蒼褪める。取り巻き達はオロオロとするばかりだ。


 樹が背を向けて、今度こそ歩き出す。背中に彼女の泣き声が聞こえたが何も感じなかった。


 大概の人間は樹に対して程度の差こそあれ何らかの欲を抱く。清十郎でさえ最初の頃はそうだった。ただ一人千種だけが違った。


 千種の目には恐れと恐怖があるだけで、樹の美貌を前にしても欲がない。樹の事だけに限らず千種には欲求というのが希薄だった。生きて行く上では不自然な千種の在り方。私欲を排した千種は清廉で一つの澱みもない。それに樹は強く惹かれる。


 欲のない千種に唯一人求められる特別な存在になりたいと思うのだ。


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