第42話 「夢に『さよなら』を告げて」

 いつも冷静で、いつも余裕ぶった顔をしている彼女が、らしくなく取り乱していた。


「浅葱、ボクに教えてくれないか? 今、君の目の前にいるのは露草千草か? それとも深瀬藍か? 君が恋をしたのは深瀬藍か? 露草千草か?」


 露草は責め立てるように、思い浮かんだ言葉をそのまま吐き出すように、矢継ぎ早に口を動かす。


「夢を見れば見るほど現実との境が曖昧になるんだ。前に『胡蝶の夢』みたいだって言ったが、本当にその通りになってるんだ。今の自分が現実なのか夢なのか、分からないんだよ」


 そこまで言うと、ベッドの上に乗って僕に近づいてくる。

 白く細い手を僕の肩に置いて、無理やり目を合わせてきた。


「頼むから教えてくれ。ボクは誰だ? 君が恋をしたのは誰だ?」


 亜麻色の瞳は影を作り、濁ったガラス玉みたいに見えた。露草の心をそのままそっくり写しているみたいだった。

 縋るような表情が、助けを求めているみたいに力が込められた手が、僕の心を強く動かした。

 誤魔化すようなことを言ってはいけないって思った。

 だから、僕は伝えた。


「僕の目の前にいるのは露草千草だ。僕が恋をしたのは深瀬藍だ」


 正直に。

 嘘偽りない真実を。


「……そうか」


 そう答える露草は悲しそうな顔をした。まるで、失恋した女の子みたいな悲哀に満ちた顔。


「ありがとう。楽しい夢を見させてくれて、深瀬藍に恋をさせてくれて」


 少しでも励まそうと、そうお礼を口にした、だって、あんな楽しい思い出は一人じゃ作れなかった。


「やめてくれ、今そんなことを言うのは」


 そう口にする露草の目は座っていた。

 まるで眠気に耐えているように。


「なぁ、露草。僕から一つ、言いたいことがあるんだ」

「ダメだ。帰ってくれ」


 露草は掴んでいた僕の肩を離して、トンと軽く押した。

 外敵から身を守るように、ベッドの上で丸まっている。

 今の露草に、こんなことを言うのは酷だろう。でも、どうしても伝えたいことがあった。


「二人は同じ人間で、でも違う存在で、それを踏まえて言わせてくれ」

「やだ」


 今さら止められなかった。


「やめてよ」

「僕は深瀬先輩が好きだ」


 一度口を動かし始めたら、今までの想いが溢れ出した。


「そんなこと言われたら、ボクは!」

「本当に、本当に好きなんだ」


 僕がそう言った瞬間、ボフンと何かが倒れる音がした。

 目を向けると、露草がベッドに横たわってた。

 大丈夫か、と心配する前に後ろから声がした。




「私もね浅葱くんのこと好きだよ」




 ドクンと心臓が大きく動いた。それを皮切りにドキドキとうるさく動き始める。


 もう聞くはずのない声だった。

 もう会えないはずの女の子だった。

 ゆっくりと声の方向に目を向ける。


 そこには深瀬藍が立っていた。

 僕が会いたくてたまらない女の子が僕を見下ろしていた。


「でも私の好きは、私のものじゃない。露草千草の好きなんだ。ごめんね」


 首を申し訳なさそうに傾げる。

 黒い髪が宙を滑る。

 なんてことない言葉が、なんてことない動作が、全部愛おしく思えて。

 また会えたことが心の底から嬉しくて。


「謝らないでください。僕が伝えたかっただけです」


 泣くのを必死に我慢して、声を振り絞った。


「せっかく格好付けて『さよなら』したのに、結局出てきちゃった。夢に逃げちゃった」


 残念そうに、肩を落とす。


「僕は嬉しいですよ」


 喜ばしくて、たまらないですよ。

 ずっと願ってたから。

 苦しいくらいに望んでたから。


「私が傷つけたのに、この時間は続けられないって思ったのに。君にはもう会えないって、私が合う価値なんてないって思ってたのに。今さらこんなこと言われたても困るだろうに、悲しまないでほしかった。また、楽しい時間を過ごしたいなんて思っちゃった」


 感情を押し殺すように、先輩は淡々と言った。


「また過ごしましょうよ」


 またご飯食べましょうよ。

 また一緒に帰りましょうよ。

 どこか行きましょうよ。

 なんて僕の願いは、


「無理だよ。向き合いたくないなんて、」


 と、すぐに切り捨てられた。


「でもね、楽しかったていうのは本当。私の藍色の青春を綺麗な透明で薄めてくれたの。キラキラ輝くものにしてくれたの」


 今の僕がどういう感情を抱いてたのか、どんな後になっても分からない。

 嬉しさと悲しさと寂しさと、全部がぐちゃぐちゃに混ざっていた。


「僕のほうこそ、味気ない空っぽの日常を先輩が染めてくれました」


 でも、先輩の色に染まったことだけは分かる。

 深瀬藍って先輩と青春を過ごしたことは嘘じゃない。


「私が露草ってこと忘れてない? 結構くさいセリフ言ってるよ?」


 えへへ、と照れくさそうに笑う。


「先輩こそ露草って自覚あります? 凄く素直なことしか言ってませんよ」

「いいんだよ、最後なんだから」


 笑顔で寂しいことを言われた。

 嫌だって言いたかった。

 行かないでって引き留めたかった。

 でも、


「浅葱くん、最後の夢を叶えてくれる?」


 なんて言われてしまったから。


「もちろん」

「私を夢から覚ませてほしいの」

「……分かりました」


 それが先輩の願いだというのなら、僕は叶えよう。

 悲しみをぐっと飲み込んで、


「どうすれば覚めますか?」


 と尋ねた。

 先輩は何も答えない。

 代わりにトントン、と唇を二回叩いた。


「夢から覚めるには、コレじゃない?」

「そうですね」


 ベッドから立ち上がる。

 僕は彼女の肩を持って、顔をゆっくりと近づける。

 こうやって触れ合うことも、顔を見ることも最後だ。

 唇が触れ合う直前、あることを思い出す。

 僕が恋したセリフの答えを返さなければ。


「透明な僕の青春、見事に藍色に染まりましたよ」


 深い深い悲しみの色。

 美しく装った、自然の色。

 僕の透明で薄められた、澄んだ朝露のような青色。


「全然、どんよりじゃなかったです」

「私もね、浅葱くんの透明を沢山もらったよ」


 先輩の頬に一滴の涙がこぼれた。


「約束守ってくれてありがとう」


 深瀬先輩は、今までで一番綺麗な顔をしていた。

 僕が惚れた顔よりも、何倍も魅力的だった。

 本当に酷い人だなあ。

 お別れする直前なのに、惚れ直させるなんて。


「さようなら、深瀬先輩」

「うん、今度こそ本当にさよなら。浅葱くん」


 先輩が目を閉じる。

 僕は肩に手を乗せ、ゆっくりと顔を近づける。

 首を少し傾けて、薄い唇に触れた。この世界の何よりも甘く柔らかかった。


 その瞬間、手の感触が消えた。

 目を開けると、先輩は跡形もなくいなくなっていた。

 まるで、全部が夢だったみたいに。


 僕はベッドに近づいた。


「おはよう」


 夢から覚めた女の子に声をかける。


「おはよう」

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